【1000文字小説】ケイコウ

 詩音はどこからか澄んだ音色が聞こえてくるのに気がついた。悲しげだが、どこか人の心を和ませ安心させるものがある音色。その音に引かれて詩音は公園へと足を踏み入れた。

銀杏や欅といった木々の葉は大分落ちている。今朝から急に冷え込み気温が上がらないせいか、人の姿はほとんどないが、若い女性が一人ベンチに座っていた。

その姿を見た途端、詩音は周囲の気温がさらに下がったような気がした。まるで一気に冬が訪れたような…。

詩音は言い知れぬ恐怖を感じ手足が震えた。自分の中の奥底から訴えてくるような恐怖。女性がこの世の者ではないような感じが、冷たい空気に溶け込むように漂った。

女性は笛のような楽器を吹いていた。まるで壊れ物を扱うように、一本一本の指が慎重に、しかし淀みなく動いていた。女性の肌は青白い。その輪郭は冷たい空気に溶け込んでいるかのようで、実体よりも遥かに希薄な存在に見えた。

女性は詩音と目が合うと楽器を吹くのを止めた。「この音が聞こえたの?」優しい、けれども遠い響きを持つ声だった。

詩音は喉を詰まらせながらも頷いた。「え、ええ、聞こえました」

女性は楽器をそっと膝の上に置き、愛おしむように撫でた。「よかった。聞こえない人もいるから」

「聞こえない人もいる? いったい、その楽器は何なんですか?」

「これはね、ケイコウっていうのよ、知ってる?」

「知らない」

「昔、中国の山奥にいたラァっていう動物の、前足の骨から作った楽器なの」

「ラァ?」

「ラァはね、ギリシア神話に出てくるグリフォンに似た動物で、背中に翼が生えていて空を飛べたのよ」

「信じられない。お姉さんは見た事あるの?」

「ないわ。ラァは何百年も前に絶滅してしまったから。人間が狩り尽くしたの」悲しそうな声で言った。

「でもラァから作ったこのケイコウは残っているわ。この楽器はね、迷っている人の魂に安らぎを与えてくれるのよ」

「迷っている人の、魂?」

詩音は訝しい顔で女性の顔を見た。突然、魂なんて事を言い出すなんて…。女性は悲しそうに微笑んだ。まるで永遠に続く定めを受け入れるように。「自分が死んでしまった事に気がつかない魂を、優しく包んで送ってくれるの」

女性は目を瞑り、再びケイコウを吹き始める。指が繊細に動くと、心の奥底の鎖を解くような音色が公園に響き渡る。詩音も目を閉じて聞き入っているが、音色は遠い日の子守歌のように安らぎを与え始めた。音色に混じって、遠く、まるで記憶の底から響くような急ブレーキの音が聞こえ、遠い過去の出来事が蘇る。詩音は「…あぁ、そうか」と小さく囁くと、その姿は段々と消えていく。

ケイコウの音色はまだどこかの迷い人を探すかのように、公園の冷たい空気の中に響いていた。(文字数:1112)


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