少年のこいでいる自転車は12歳の誕生日に両親がプレゼントしてくれたものだった。それまで乗っていた自転車より大分大きめだったのでややふらふら乗っていたのはしかしほんの数メートルで、なれてしまうとあとはいっぱしの走り屋気取りで乗り回していた。
少年はその自転車を宝物として非常に大事にしていて、少しの汚れもないよう常に気を配っていたし、3日に1度はフレームやペダルは言うに及ばずリムやスポークの1本1本まで時間をかけて丁寧に磨き上げていた。
少年は愛宕大橋を渡った。この橋を過ぎるとあとは緩やかな上り坂になる。少年は自転車の変速を変えようとした。するといつもと違う音がして、ペダルをこいでもこいでも自転車が前へ進まなくなってしまった。チェーンがはずれていた。少年は舌打ちした。いつも奇麗に磨き上げ手入れを怠らないというのに、なにかひどい仕打ちを受けたように感じた。自転車に裏切られた気がした。「恩知らず」少年は自転車に向かって不機嫌な声でひとりごちた。
チェーンを掛け直すと少年の手は油のせいで黒く汚れてしまった。汚れた手を見るとまた腹が立った。近くの公園には水飲み場があったからそこで手を洗おうと思ったが、石鹸がないとだめだと思い直し、少し離れてはいたがスーパーマーケットへ行く事にした。
駐輪場に自転車を止め、店内の洗面所で石鹸を使ってごしごしと洗った。汚れは奇麗に落ちた。手が奇麗になると自転車への怒りも落ち着いた感じがした。
晴れ晴れとした気で駐輪場に戻ると、どうしたことか自転車が見当たらなかった。何台も自転車が止まってはいるが、それらはどれも少年の自転車ではなかった。最初、少年は止めた場所を間違えたと思った。あちこちを捜したが自転車はなかった。誰かが乗っていったのならまだ近くにいるかもしれないと思い方々を走り回ったが見つからなかった。
少年は自転車を止めるときは必ずかけていた鍵をこの時に限ってはしなかった。かけようという気持ちはあったが、ほんの少しの間だけだからいいやと思いかけなかった。手が汚れていたからかけなかった。その油断を狙いすまされたように自転車は盗まれてしまったのだった。
少年は約束していた友達の家へは行かなかった。歩いて家まで帰った。自転車で10分の距離が40分もかかった。
(1998/08/21/勝ち抜き小説合戦応募 文字数:956)