【1000文字小説】棚卸できないもの
朝のオフィスは、まだ完全には目を覚ましていなかった。 蛍光灯の光はどこか白すぎて、机の上の書類の輪郭を平板に見せている。空調の音だけが一定のリズムで流れ、誰かのキーボードの打鍵音が遠くで途切れ途切れに響いていた。 佐伯真帆は、始業前の十分間をいつも少しだけ持て余す。 コーヒーをデスクに置き、メールを開き、既読と未読の境界を曖昧にする。その作業には意味がないと分かっているのに、やめる理由もなかった。 窓の外では、細い雨が降っていた。昨日から続いている雨だと誰かが言っていた。降っている時間だけが、静かに伸び続けている気がした。降っているか、降っていないか。そのどちらかだけがある。 「佐伯さん、これ今日中で大丈夫?」 後ろから声がして、振り向くと同じ課の先輩が立っていた。手には修正済みの企画書がある。 「はい、大丈夫です」 そう答えてから、真帆はそれが自分の仕事ではなかったことを思い出す。本来は別の担当だったはずだが、いつの間にか境界は曖昧になっていた。 書類は増えていく。役割も増えていく。けれど責任だけは、なぜか最初の位置に留まっている。 昼休み、真帆はいつものコンビニでサンドイッチを買った。レジの店員は機械的に笑い、バーコードを読み取る。その一連の動作に、わずかな安心を覚える。誰も何も判断していない感じがするからだ。 社に戻ると、会議室ではすでに議論が始まっていた。 「このKPI、前提がずれてませんか」 「でも本社の指示ではこれで統一です」 「現場の実態と合ってない」 言葉だけが積み上がり、どれもどこにも届かないまま消えていく。 真帆は議事録を取る。誰が何を言ったかを正確に残すこと。だが、何のために残しているのかは分からない。 会議が終わったあと、上司が一枚の紙を置いた。 「来月から業務再編が入る。全員一度、自分のタスクを棚卸しして」 「棚卸し、ですか」 真帆は反射的に聞き返した。 「そう。必要な仕事と、そうでない仕事を分ける」 その言葉に、室内の空気がわずかに変わった気がした。誰かの椅子が小さく軋む音がした。 帰り道、雨は少し強くなっていた。 駅へ向かう人々は、同じ速度で歩いているのに、それぞれ別の場所へ向かっているように見える。傘の中はどこも閉じていて、互いに触れない。 真帆は歩きながら、自分のタスクを思い出そうとした。 メール返信、資料修正、議事録作成...