【1000文字小説】針先
九月の雨が、朝から降っている。 男は七時に起き、珈琲を淹れた。パンを焼き、目玉焼きを作る。食べ終えると、食器を洗ってからレコード棚の前に立った。 何十枚もある。 しばらく眺めて、いつもの一枚を抜いた。ジャケットを裏返し、曲目を確かめる。針を落とす。 男は椅子に座り、目を閉じた。 一曲目が終わるころには、窓の外が少し明るくなっていた。 雨は止まなかった。 昼は近所の蕎麦屋へ行くつもりだったが、出かける頃になって雨脚が強くなったので、やめた。 冷蔵庫を開ける。 豆腐と卵、それから昨日買った葱がある。 鍋に湯を沸かし、豆腐を入れた。卵を落とし、葱を刻む。 食べながら、午後は釣り道具を手入れしようと思った。 食器を片づけ、押し入れから道具箱を出した。 竿を伸ばし、糸を確かめる。古いリールには細かな傷がいくつもついていた。指で触れると、釣りに行った日のことがいくつか浮かんだ。 どの日のことだったかは、もう区別がつかない。 糸を巻き直し、針を新しいものに替える。 夕方になった。 風呂を沸かし、湯に浸かる。 上がると、またレコードをかけた。 朝と同じ一枚だった。 ウイスキーを少しだけ注ぐ。 誰かと飲むことを考えたことは、ほとんどなかった。 男はそう思ってから、なぜそんなことを考えたのか分からなくなった。 雨の音がしている。 レコードの音もしている。 男はグラスを手にしたまま、窓の外を見た。 暗くなったガラスに、自分の姿が映っていた。 しばらく見ていると、向こう側の雨と自分の姿の境目が分からなくなった。 男はカーテンを閉めた。 レコードはまだ終わっていなかった。 リンク