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オススメの1000文字小説

【1000文字小説】秋の角度

 押し入れの奥からプラスチックケースを引き出し、畳んであった長袖のシャツを四枚取り出した。どれも首元や袖口がわずかに黄ばんでいる。そのまま洗濯機へ放り込んで回し、洗い上がったものをハンガーに掛け、ベランダへ並べた。十月の風は冷たく、並んだシャツの裾を淡々と揺らしていた。 勤め先のスーパーマーケットまでは歩いて十五分かかる。国道沿いの舗装路は、夏のあいだに膨らんだアスファルトの継ぎ目がそのまま固まり、小さな波のようにうねっていた。右足のつま先が、その突起にわずかにかすれる。 「津島さん、これ、奥の棚に運んでもらえますか」 t二十代の社員が、キャスター付きの台車を指さした。段ボール箱を持ち上げると、両腕の筋が強張り、口から小さく息が漏れた。棚にペットボトルの茶を一本ずつ並べていく。冷えたプラスチックに触れ続けた指先が、徐々に感覚を失っていくのを感じていた。 退店時間になり、タイムカードを通してエプロンをたたんだ。従業員用の裏口から外へ出ると、扉の横に潰されたダンボールが小さく山になっていた。その陰に、黒と白の混ざった猫が丸くなっている。近づくと、耳の先端だけがぴくりとこちらへ向いた。 家に戻ると、斜めに入り込んだ日差しが畳の目を際立たせていた。 そのままベランダへ出て、干したシャツを取り込む。生地はすっかり乾き、ひんやりとしていた。四枚を端から丁寧に重ねて折りたたみ、タンスの引き出しへ収めた。 台所で湯を沸かす。ガスコンロの青い炎が、シュと低い音を立てて円を描いた。急須から自分の湯呑みにお茶を注ぐ。 スマートフォンを指で撫でると、画面に届いた孫の写真が映る。画面を消すと、黒いガラスに自分の指紋と、皺の寄った自分の顔がぼんやりと映り込んだ。 湯呑みを両手で包むように持ち、ベランダへ出る。 遠くで、電車の踏切が鳴り始める。 カン、カン, カンと、正確な間隔で刻まれる金属音。それは街の時間を等分するように響き、やがて途切れた。 あたたかい陶器の重みを両手に感じながら、西の空を見た。高いビルの隙間に沈んでいく太陽は、夏の頃よりもずっと浅い角度で、静かに光を減らしていた。 リンク

【1000文字小説】ゴッサマー

 日曜日の朝、妻は台所で洗った食器を拭いていた。私は食卓でコーヒーを飲みながら、スマートフォンの画面を眺めていた。息子からのメッセージは、仕事が忙しいという短いものだった。娘のほうは、先週送った写真に親指の絵文字を返してきただけだった。 子供たちが家を出てから、日曜日はずいぶん長くなった。以前は午前中のうちに誰かが何かを探し、誰かが出かける時間を気にし、洗面所の扉が何度も開いた。今は時計の秒針が、部屋の奥まで聞こえる。 息子には仕事のことを尋ねようと思い、娘には写真に写っていた店の名前を聞こうと思っていた。どちらも、今でなくてもよかった。画面を閉じると、黒いガラスに自分の顔が映った。 午後、近所の公園まで歩いた。 ベンチに座ると、小さな子供が目の前を走っていった。母親がその後ろを歩きながら、何度も名前を呼んでいた。息子が小さかった頃、私もあんなふうに名前を呼んでいた。運動会の朝、靴ひもを結び直すよう急かしたことを思い出した。あのとき息子は、返事をせずに走っていった。 帰り道、街路樹の枝に白いものが絡んでいるのを見つけた。蜘蛛の糸だった。陽の当たる角度によって、見えたり消えたりした。 立ち止まっていると、通り過ぎた自転車の風で、それはゆっくりほどけた。切れたのか、枝から離れたのか、よくわからなかった。細い糸はしばらく空中にとどまり、それから、どこへ行くともなく流れていった。 家に戻ると、妻は夕食の支度をしていた。 「公園に、小さい子がいてさ」 そこまで言って、私は言葉を止めた。子供が走っていたことも、母親が名前を呼んでいたことも、妻に話すほどのことではないように思えた。 「どうしたの?」 「いや、別に」 妻は包丁を動かし続けた。私はテーブルの上に置かれた新聞を開いた。 夕食のあと、息子からまたメッセージが届いた。来月は帰れそうにないという。私は「わかった」と打ち、少し考えてから「仕事、無理するなよ」と続けた。読み返すと、どちらも父親らしい言葉に見えた。送信した。 窓の外は暗くなっていた。昼間の糸を思い出した。ゴッサマー。以前、どこかで目にした言葉だった。 台所から妻が、明日の天気を尋ねてきた。 私はすぐには答えず、スマートフォンを伏せた。 リンク

【1000文字小説】増えていくもの

  園芸店に入ると、入口の脇にポインセチアが並んでいた。赤い葉を見ると、クリスマスはまだ先なのにと思った。値札を見ると、去年より高い気がした。  私は奥の観葉植物の棚へ進んだ。  ポトス、パキラ、モンステラ。知っている名前を目で追いながら、私は棚の間を歩いた。家にもポトスがある。何年も前に買ったもので、伸びた蔓を切っては水に挿し、根が出ると別の鉢に植えてきた。今では、どの鉢が最初の株から増えたものなのか分からない。  新しい鉢を買おうと思ったのは、先週、居間の模様替えをしたからだった。ソファを壁際に寄せ、空いた場所に小さなテーブルを置いた。雑誌で見た部屋に少し似ていたが、二日もすると、何かが足りないような気がしてきた。  夫に話すと、好きなものを置けばいいと言った。テレビを見ながらだったので、こちらを向かなかった。私はそれ以上、話さなかった。  棚の下段に、丸い葉をつけた植物があった。葉は肉厚で、縁が少し赤みを帯びている。名札には「ペペロミア」と書かれていた。私はその名前を声に出さずに読んだ。覚えられそうな名前だったが、店を出るころには忘れているかもしれない。  鉢を持ち上げると、思ったより軽かった。葉の一枚に小さな傷があり、その周りだけ色が薄くなっていた。私は傷のある葉を裏返した。裏側には、表からは見えなかった細い筋が何本も走っていた。  隣の鉢は、葉の形も大きさもよく似ていた。こちらのほうが傷が少なく、全体に整っている。私は二つを交互に持ち上げたあと、最初の鉢を買い物かごに入れた。選んだ理由は、うまく説明できなかった。  レジで店員が、育て方の紙をつけますか、と尋ねてきた。私は頷いた。紙には、直射日光を避け、土が乾いてから水を与えること、とあった。水をやりすぎると根腐れする、とも書かれていた。いつもやっていることだった。  帰り道、私は箱を両手で抱えて歩いた。中で鉢が動かないよう、歩幅を小さくした。風は冷たくなっていた。歩道の隅に、乾いた葉が集まっていた。  新しい鉢を居間のテーブルに置き、少し離れて眺めた。そこに置くつもりだったのに、実際に置いてみると、テーブルの上が狭くなった気がした。鉢を端に寄せ、また中央に戻した。  窓辺のポトスは、長く伸びた蔓をカーテンに絡ませていた。外そうとすると、葉が一枚、私の手の甲に触れた。私は蔓をほどき、鉢の縁に沿わせた...

【1000文字小説】車を走らせる

十月の午後、免許を取ってから初めて、一人で車を出した。 父に買ってもらった、背の高い軽自動車だった。これまで運転するときは、いつも父が助手席にいた。今日はその席が空いている。 家の前の道を出る。交差点を曲がる。信号で止まる。 思っていたより、普通にできた。 助手席の父は、右折の前には「急がなくていい」と言い、駐車するときには黙って窓の外を見ていた。私が少し斜めに停めても、最後には「まあ、いいんじゃない」と言った。 今日はその父がいない。 ナビの音声が、次の交差点を知らせる。 父よりも正確だった。 私はその指示に従って曲がった。 川沿いの道に出る。十月の風で街路樹の葉が揺れていた。赤信号で停まる。 いつもなら、このあたりで父が窓を少し開ける。 今日はそのままだった。 青になり、アクセルを踏む。 目的地の駐車場に着いた。 枠の中に車を入れる。少し右に寄ったので、入れ直した。今度はまっすぐだった。 スマートフォンに父からメッセージが届いた。 〈着いた?〉 「着いたよ」と返してから、車を降りた。 ドアを閉める前に、助手席を見る。 何もない。 十月の光が、シートの上に薄く落ちていた。 リンク

【1000文字小説】金木犀

 十月の半ばから、帰り道に少し遠回りをするようになった。 学校が終わると、そのままコンビニへ行く。五時から九時までレジに立って、バーコードを読んだり、弁当を温めたりする。忙しい時間が終わると、店内の音が少しずつ減っていく気がする。 九時になって上がると、裏口から外へ出る。 住宅街を抜ける道には古い家が何軒か並んでいて、角を曲がったところに金木犀の木がある。 夜、そこを通ると、いつも匂いがした。 ある日、いつもの場所まで来ると、金木犀の枝が切られていた。 家の前に脚立が置かれ、落ちた枝が束ねられていた。 僕は立ち止まった。 匂いがしなかった。 しばらくして、歩き出した。 次の日も、同じ道を通った。 切られた枝はなくなっていて、家の前は何もなかったようになっていた。 僕は足を止めなかった。 九時を少し過ぎていた。 コンビニを出てから駅まで歩く途中、何度か後ろを振り返った。 誰かがいるわけではなかった。 ただ、いつもの道が、前より少し長く感じられた。 駅の明かりが見えた。 僕はスマートフォンを取り出して時間を確認した。 九時二十三分。 そのままポケットに戻し、歩いた。 リンク

【1000文字小説】たまる水

 九月に入ってから、雨の降らない日がなかった。 朝食の片付けを終え、洗濯機を回した。窓の外では、細い雨がベランダの手すりを濡らしている。 夫は出かける前に、「今日も降ってるな」と言った。 「うん」 それだけだった。 脱水の終わる音がして、私は洗濯物を部屋の中に干した。シャツの袖が少し重い。除湿機をつけると、低い音が部屋の隅から聞こえ始めた。 結婚して三年になる。 三年という時間を、私は最近よく考える。長いのか短いのか分からない。去年の九月にも雨が多かったことは覚えている。でも、そのとき何をしていたかは、あまり思い出せない。 昼前、夫からメッセージが届いた。 《帰り、何か買ってくる?》 冷蔵庫には夕食に使えるものが残っていた。 《大丈夫。雨ひどそうだから》 そう返して、スマートフォンを伏せた。 午後になっても雨は止まなかった。 私は読みかけの本を開いた。数ページ読んだところで、同じ行を三度読んでいることに気づいた。 本を閉じる。 部屋の中には、除湿機の音と雨の音があった。 夕方、夫が帰ってきた。 「ただいま」 「おかえり」 濡れた傘を玄関の隅に立てる音がした。 私は台所で味噌汁を温めた。 窓の外は暗くなっていた。 雨はまだ降っていた。 除湿機の水が、いつの間にかいっぱいになっていた。 リンク

【1000文字小説】針先

 九月の雨が、朝から降っている。 男は七時に起き、珈琲を淹れた。パンを焼き、目玉焼きを作る。食べ終えると、食器を洗ってからレコード棚の前に立った。 何十枚もある。 しばらく眺めて、いつもの一枚を抜いた。ジャケットを裏返し、曲目を確かめる。針を落とす。 男は椅子に座り、目を閉じた。 一曲目が終わるころには、窓の外が少し明るくなっていた。 雨は止まなかった。 昼は近所の蕎麦屋へ行くつもりだったが、出かける頃になって雨脚が強くなったので、やめた。 冷蔵庫を開ける。 豆腐と卵、それから昨日買った葱がある。 鍋に湯を沸かし、豆腐を入れた。卵を落とし、葱を刻む。 食べながら、午後は釣り道具を手入れしようと思った。 食器を片づけ、押し入れから道具箱を出した。 竿を伸ばし、糸を確かめる。古いリールには細かな傷がいくつもついていた。指で触れると、釣りに行った日のことがいくつか浮かんだ。 どの日のことだったかは、もう区別がつかない。 糸を巻き直し、針を新しいものに替える。 夕方になった。 風呂を沸かし、湯に浸かる。 上がると、またレコードをかけた。 朝と同じ一枚だった。 ウイスキーを少しだけ注ぐ。 誰かと飲むことを考えたことは、ほとんどなかった。 男はそう思ってから、なぜそんなことを考えたのか分からなくなった。 雨の音がしている。 レコードの音もしている。 男はグラスを手にしたまま、窓の外を見た。 暗くなったガラスに、自分の姿が映っていた。 しばらく見ていると、向こう側の雨と自分の姿の境目が分からなくなった。 男はカーテンを閉めた。 レコードはまだ終わっていなかった。 リンク

【1000文字小説】向かい側

 九月に入ってから、雨の降らない日はなかった。 朝、目を覚ますと、窓の向こうが白く濡れている。カーテンを開ける前から、それがわかるようになった。雨の音は、眠っているあいだにも部屋の中まで入り込んでくる。 実家を処分したとき、いくつかのものを持ち帰った。食器や古い写真、それから母の湯呑みと父の湯呑み。 食器棚には、二つ並べてある。 私は母のものを使っている。 雨が強くなると、窓を閉める。鍵を確かめる。ベランダの排水口を見る。何度見ても、水が増える速さは変わらない。 テレビをつけると、川の水位を知らせている。 私は音を小さくする。 画面の中の数字が、はっきり見えた。 夕方、買い物から戻る。 玄関で傘をたたんでいると、廊下の向こうで子どもの声がした。母親らしい声が、それを追いかけている。 私は靴を脱いだ。 部屋の中は暗かった。 明かりをつけると、食器棚の湯呑みが目に入った。 母が生きていた頃、雨の日には電話がかかってきた。 「そっちは大丈夫?」 いつも同じだった。 私は大丈夫だと答えた。 母が亡くなってから、雨の日の電話はなくなった。 当然のことなのに、ときどき雨が降ると、電話の鳴る気配だけが残っているように思う。 夜になって、雨脚がさらに強くなった。 窓ガラスに水が叩きつけられている。 私は布団に入った。 眠れなかった。 水の音を聞いていると、自分のいる場所が少しずつ低くなっていくような気がした。 午前二時を過ぎた頃、雨が一度、弱くなった。 私は起き上がった。 暗い部屋で、台所まで歩いた。 食器棚を開ける。 母の湯呑みは、いつもの場所にある。 その隣の父の湯呑みに手を伸ばした。 指先に、わずかな湿り気が残った。 しばらく、そのまま触れていた。 それから、父の湯呑みを取り出した。 水を入れることもなく、テーブルの向かい側に置いた。 雨は、まだ降っていた。 リンク

【1000文字小説】薄い水

 九月に入っても、空気の底に生ぬるい塊が沈んでいた。 午後三時のオフィスは、薄水色のカーペットが敷き詰められている。エアコンの風が首筋を撫でるたび、皮膚の表面だけがちくちくと冷え、奥のほうが熱を溜め込んでいた。 指先をキーボードに乗せたまま、画面の数字を見つめる。数字はただそこに並んでいるだけで、意味を持った列としては胸に落ちてこない。喉の奥がカラカラに乾いていた。デスクの隅に置いたステンレスボトルを傾ける。中身は今朝淹れた麦茶だったが、氷はとうに溶け切り、生ぬるく薄まった液体が舌を滑るだけだった。 「佐伯さん、これ、今日の分」 隣の席の課長が、受領印を押した書類の束を置いた。 「ありがとうございます」 声を出した瞬間、自分の声がずいぶん遠くから聞こえた。課長はすでに画面へ視線を戻しており、私の声が届いたのかどうかすら確かではない。 定時を少し過ぎた頃、ビルを出る。 地下鉄の駅へ続く階段を下りる途中で、風がぬっと頬を撫でた。湿気を多く含んだ、ぬめりのある風だ。改札を抜けてホームに立つと、線路の向こう側の壁に貼られた旅行会社のポスターが目に留まる。青い海と白い砂浜。先月までなら羨ましく思えたかもしれない色彩が、今はただ、眩しすぎて目を背けたくなるようなプラスチックの板に見えた。 部屋に帰り、部屋着に着替える。 電気をつけないまま台所に立ち、冷蔵庫を開けた。白い光が暗い部屋に細長く漏れる。ポケットから取り出したトマトを一つ、水道の水で洗った。掌に包むと、冷たさが少しだけ心地いい。そのまま皮ごと噛みつくと、酸っぱい汁が唇を濡らした。甘みはほとんど感じられなかった。 ベランダに出て、手すりに両腕を乗せる。 向かいのマンションの部屋には、いくつかの明かりが灯っていた。テレビの点滅する光、黄色い温かみのあるランプ、誰もいないように見える部屋。風が吹くたび、遠くの幹線道路を走るトラックの不連続な重低音が響く。 喉がまた乾いた。 コップに水道水を注ぎ、半分ほど飲む。胃のあたりに溜まった冷たい塊が、ゆっくりと体の輪郭を内側からなぞっていく。 九月の夜は長い。明日も同じ時間に起きて、同じ電車に乗るのだろう。 手すりから顔を上げると、雲の切れ間に一つだけ、色の薄い星が光っていた。光っているというよりは、そこに小さな穴が開いているようだった。私は残った水を、ごぐりと飲み干した。 ...

【1000文字小説】八月の冒険

八月三十一日の夜、少年は読書感想文を書いていた。 机の上には、読み終えた本と原稿用紙がある。原稿用紙には題名だけが書かれていた。 『八月の冒険』 本当は、もっと早く書くつもりだった。 本を読み終えたのは二週間前だった。面白かったし、主人公が最後に知らない町へ行ってしまうところも覚えている。それなのに、感想を書こうとすると、どの場面について書けばいいのか分からなくなった。 少年は本をもう一度開いた。 主人公が家を出るところまで戻る。 少年はそのページを読み返した。 主人公は、家族に何も言わずに出ていく。玄関を出て、振り返らない。そのあと、知らない土地で暮らし始める。 最初に読んだときは、格好いいと思った。 今読むと、少し変だった。 家を出る理由が、よく分からない。 少年は本を閉じた。 原稿用紙に、 「主人公は勇気があると思いました」 と書いた。 すぐに消した。 それでは先生が言っていた「自分の考え」が足りない気がした。 少し考えてから、 「主人公は、帰る場所があるのに帰りませんでした」 と書いた。 これは消さなかった。 ただ、その続きをどうすればいいのか分からない。 少年は椅子から離れ、冷蔵庫から麦茶を取ってきた。 スマートフォンには、友だちのグループからいくつか通知が来ていた。 明日の持ち物の話だった。 誰かが「宿題終わった?」と書いている。 少年は画面を見たまま、返信しなかった。 宿題が終わっていないことを知られるのが嫌だったわけではない。 明日から学校だと思った。 それだけだった。 夏休みのあいだ、朝起きる時間は決まっていなかった。昼近くまで寝た日もあったし、夕方から友だちと遊んだ日もあった。 明日からは違う。 朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。 少年はそのことについて考えるのをやめた。 机に戻る。 原稿用紙を見る。 「主人公は、帰る場所があるのに帰りませんでした。」 その一文だけが残っている。 少年は本を開いた。 主人公が家を出る場面を、もう一度読む。 今度は、主人公が振り返らなかったことより、その前に靴ひもを結び直していることが気になった。 少年はページを指で押さえた。 靴ひもを結び直して、それから出ていく。 なぜそんなことをしたのか、本には書かれていない。 少年は少し考えた。 書かれていないなら、感想文に書いてもいいのかもしれない。 原稿用...