【1000文字小説】くらげ
八月の朝は、窓を開けるだけで部屋の温度がひとつ上がる。 休みを取って、息子と水族館へ行く約束をしていた。 前の晩、息子は図鑑を開きながら「クラゲって眠るの」と聞いた。私は曖昧に頷き、「明日、飼育員さんに聞いてみよう」と答えた。玄関には、小さな帽子と水筒が並べてあった。 妻はパートの日で、私と息子だけで出かける予定だった。 会社から電話が入った。 受話器を置いたときには、もう決まっていた。 「悪い。仕事になった」 息子は少し黙り、それから「ふうん」と言った。 その声は、いつもの朝と同じだった。 仕事は夕方には終わった。 駅前でイルカのぬいぐるみを見つけた。水族館で売っていそうなものだった。袋に入れてもらいながら、息子なら喜ぶと思って買った。 帰宅すると、息子は居間で宿題をしていた。 「これ、おみやげ」 袋を渡すと、中を覗いて「ありがとう」と言い、テーブルの端へそっと置いた。 妻は食器を洗いながら、何も言わなかった。 夕食のあと、庭で水の音がした。 窓から見ると、息子がホースで小さな水たまりを作っていた。 そこへ落ち葉を一枚浮かべ、しゃがみ込んで眺めている。 私も外へ出た。 「何してるんだ」 息子は葉っぱから目を離さないまま言った。 「クラゲ」 水は少しずつ土へ吸い込まれ、葉っぱは端に寄って止まった。 息子は指でそっと押して、もう一度だけ水の真ん中へ戻した。 私は何も言えず、その様子を見ていた。 西日が傾き、庭の水たまりはすぐに小さくなっていった。 リンク