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【1000文字小説】早送りの人生

 一月の冷たい雨が降る午後、七緒は自室の机に向かっていた。テストは何曜日だったか、ふと思い出せなくなる。この静かな時間を期末試験の勉強に充てるはずだったが、七緒の意識はすでに遠く離れていた。 「ああ、全然頭に入ってこない」 しとしとと降る雨音は、雑念を増幅させていく。他愛のない妄想が次々に頭をよぎるが、一つだけ奇妙な雑念があった。それは自分の意思で考えているというより、誰かが勝手に自分の頭の中で映画を上映しているような、止めようのない映像だった。 ガラス張りの高層ビルのオフィスで働く自分。それは教科書の二次関数のグラフよりも、遥かに現実味を帯びていた。映像は止めどなく続く。今度は三十歳ごろの自分だ。薬指には結婚指輪。隣には見知らぬ男性が笑っている。楽しそうに笑っているはずなのに、彼の顔はなぜかぼやけて見えた。小さな子供を抱いた自分の姿。柔らかい光が差し込むリビングで、子供と遊ぶ自分。 映像は未来へ向かってどんどん進んでいく。まるで人生を早送りで見せられているようだ。時折、映像は砂嵐のように乱れ、次の場面へと唐突に切り替わる。このまま、自分が年老いて死んでしまう最後まで、この映像は続くのだろうか? 映像の中の子供が、無邪気な笑顔を七緒に向けた瞬間、七緒の口から自然と「翔太」という名前がこぼれた。なぜか子供の名前を知っていた。見たことのない未来の映像のはずなのに、深い既視感が伴っていた。 映像は続く。翔太がランドセルを背負い小学校に入学する姿。夫と二人で旅行に出かけ、海辺を歩く姿。様々な季節の移り変わり、友人たちとの別れと出会い、そして親しい人の葬儀。人生の喜怒哀楽が、まるで早回しのスライドショーのように次々と映し出されていく。どの場面にも、七緒は確かに「存在」していた。その記憶の断片は、初めて見るはずなのに、確かに自分のものだった。 これは未来の映像? いや、これは自分が経験してきた、過去の人生の映像を見ているのだ。高層ビルのオフィスも、結婚も、子供も、すでに経験した過去の出来事。今の自分は、遠い過去、高校時代に戻ってきているのだ。 七緒は、ぼんやりと開かれた数学の教科書に目を落とした。その瞬間、部屋のドアがノックされ、すぐに開いた。若い女性が顔を覗かせる。 「おばあちゃん、今日の夕飯はカレーだよ」 七緒は、誰かも分からないその人物を、茫然と見つめた。「……何...

【1000文字小説】一月に走る

 一月の空は透き通った青。北風が頬をくすぐるけど、寒さもなんだか気持ちいい。私は誰もいない球場の周りの道を、ひたすら走った。まだキャンプは始まっていないが、チームメイトも家でぬくぬくはしてないだろう。 男子のプロ野球、早く再開されないかな。今年も行われなさそうだし。帰ってきた人はコーチをしてくれるのはありがたいが、いったいいつになったら始まるんだろう。なんて考えながらも、私はペースを崩さず足を前に運ぶ。 去年は打率が三割に届かなくて、得点圏で打席に立つたび心臓がぐっと沈んだ。凡打を重ねたあの夜の悔しさは、まだ胸の片隅で小さく鳴っている。でも、思い出すだけで落ち込むのはもうやめ。だって今年こそは、絶対にレギュラーになりたいんだから。 息が白く上がるのを見ながら、「よし、今日も元気にいこう!」と自分に声をかける。足元に残る霜や凍った水たまりを避けながら、フォームや呼吸を意識してみる。走ることで体も温まるし、頭の中も整理できる。あの外野の守備ミスや凡打も、今なら少し笑える気がする。「去年の自分、ちょっと鈍すぎだよね」と、思わず笑いそうになる。 遠くに見える小さな神社の鳥居に目をやる。去年の春、ここを通りかかるたび「どうせ自分なんて」とへこんでいた私がいた。でも今は、誰もいない冬道を一人で走れるくらいには元気だ。寒さも孤独も、そんなに悪くない。むしろ、誰も見ていない時間にこそ、少しずつ強くなれる。 「おーい、がんばれー!」 突然、通り沿いの家から声がかかった。振り返ると、小学生くらいの女の子が手を振っている。思わず笑顔で手を振り返しながら、元気よく答える。 「応援ありがとー!」 足を止めるわけにはいかないけれど、声を交わすだけで少しだけ楽しくなる。冬の道も、ちょっと明るく感じた。 夕陽が街の瓦屋根をオレンジ色に染め、長い影の道を私は笑いながら走った。去年の自分を追い越す感覚が少しずつ体に染み込む。呼吸が苦しいときもあるけど、「男子のプロ野球、再開されたらどうする?」なんて考えて、気を紛らわせる。いずれ男子のリーグと女子のリーグで試合が出来たらどうだろうな。 冬の空気が肺を満たすたび、胸の奥にちょっとした熱が広がる。白い息をひとつ、風に溶かしながら、私は再びペースを上げた。キャンプが始まる頃には、去年の私を完全に追い越すつもりだ。誰よりも明るく、元気に、そしてちょっと...

【1000文字小説】消えない不機嫌な顔

 一月中旬の凍てつく寒さが肌を刺し、吐く息が白く染まる。再開発されたビル群の間に、古びた定食屋だけが取り残されたように佇んでいる。「めし処 とみや」の暖簾をくぐると、から揚げと味噌汁の匂いが懐かしく鼻腔をくすぐった。冷え切った身体に、店内の温もりがじんわりと染み渡る。無精ひげを生やした俺は、昔と変わらぬカウンターの端に座った。 「いらっしゃい!」威勢の良い声に顔を上げると、見慣れた顔が入って来た。元同僚の佐藤だ。少し癖のある髪と人懐っこい笑顔は、昔と変わらない。少しだけ頬の肉が落ちたように見えた。「あれ? もしかして、上田さん?」。彼は目を丸くしている。俺は驚きで声が出なかった。会社を辞めて十年、一度も会っていなかった。 「元気だったか。まさかここでまた会うとはな」 「ほんとにな。なんて偶然だ」 俺が会社を辞めた後、あの会社はしばらくして潰れたらしい。「もうとっくになくなったよ」と佐藤はあっさり言う。潰れたと聞いても今となっては遠い過去の出来事だ。 「こういう偶然って重なるもんだよな」と佐藤はニヤリと笑った。 その言葉に俺は店内に視線を巡らせた。そして、座敷席の隅に座っている男に目が止まった。嫌いだった元上司だ。白髪が目立ち、深い眉間のシワが、昔と変わらぬ険しい表情をさらに強調している。いつも不機嫌で、理不尽な要求ばかりしていた。今も変わらず、険しい顔で定食を食べている。 彼はこっちに気づいているだろうか。もう一度、そちらに視線を戻した。もしかしたら、上司の姿が消えてしまうのではないかと思ったのだが消えずにいた。幻ではないらしい。昔の会社にいた人間三人が偶然同じ時間に同じ店にいる確率は一体どれくらいだろう。 あの頃は、毎日のようにこの店で食事をしていたが、まさかまた同じ店で同じ時間を過ごすだなんて。佐藤との再会は温かい偶然だったが、上司との再会は冷たく奇妙な偶然だ。胸の奥に、あの頃の嫌な記憶がよみがえってくる。 食事を終えて店を出て、佐藤と別れ再びビル街の中を歩く。定食屋の温かい匂いは、冷たい風に掻き消されていった。懐かしい思い出と、不愉快な思い出。偶然が重なり合った今日の出来事を、俺はしばらく忘れることは出来ないだろう。その時、背後から声をかけられた。 「おい、上田。久しぶりじゃないか」 振り返ると、そこにいたのは元上司だ。俺は驚きで言葉を失った。人の嫌が...

【1000文字小説】連絡のある孤独

 宇宙ステーション「アルテミス」は地球から見れば小さな光点に過ぎなかった。冷戦後の技術競争は緩やかになり、民間資本と各国協力で建設されたこの施設は、まだ試験運用の域を出ていない。金属のフレームと灰色の内装材で組まれた通路には蛍光灯が淡く光る。窓の外には漆黒の宇宙、青白く光る地球。あと十年もすれば二十一世紀だと思うと、不思議な未来感が胸に広がる。 青年技術士の村上は、狭い通路を無重力で漂いながら、今日のメンテナンス手順をチェックしていた。ヘルメットは外している。手袋越しに握るレンチの冷たさが、孤独と緊張を伝えた。 半年間の生活に慣れたはずだが、胸の奥の不安は消えない。通信が途絶えたら?小さな機械の異常が命取りになったら?無重力での移動中、指先のわずかな滑りが事故につながる。心臓が早鐘を打つたび、地球の雨の匂いや彼女の手の感触が浮かぶ。深呼吸しても、胸の張りはすぐに戻る。 今日の任務は酸素循環装置のフィルター交換。手順は単純だが、一つのミスで酸素圧が危険水域に落ちる。レンチを取り出した指先が微かに震える。無重力では、わずかな油断が即座に事故に直結する。 突然、赤い警告灯が点滅した。酸素圧がわずかに低下している。胸が跳ね、呼吸が浅くなる。村上は考えた――通常なら通信で確認すべきだが、通路の長さと無重力移動のタイムロスを考えると、即座の判断が必要だ。 深く息を吸い、工具を握り直す。ネジを回す手が滑り、手袋の端から小さな血が滲む。指先に痛みが走る。しかし酸素圧は徐々に回復し、赤い点滅が消えた瞬間、村上は小さく息を吐く。肩の緊張は解けないが、心拍がようやく落ち着いた。 窓の外を見れば、黒い宇宙に瞬く星々と青白い地球。遠くの民間宇宙船が光を反射し、ゆらめく。通信装置のCRTディスプレイが光り、文字が手元の作業を正確に指示する。振動で表示が少し揺れるのも、無重力空間ならではだ。 地球から短いメッセージが届いた。 「作業は順調?無理せず、気をつけて」 文字だけのやり取りだが、胸の奥で安心が広がる。見守る誰かがいるという確信が、孤独を押し返した。 村上は工具を戻し、無重力の通路を慎重に移動する。空気循環の微かな振動、遠くで響く機械音、金属の冷たさ――すべてが生きている証だった。過去の恐怖も慎重な行動も、今日の生を支え、希望は小さくとも確かに、村上の手の中に残っていた。 <10...

【1000文字小説】彼女が大統領

 凍てつく真冬の夜、僕は駅前の繁華街を歩いていた。新年会帰りの人々で賑わう通りには、煌々と灯るハンバーガーショップ「ロンド」もあった。暖かい光の中から、見覚えのある顔が出てきた。元アルバイト仲間のリナだ。声をかけると、驚きの表情の後に、昔のような笑顔がすぐに戻った。 「久しぶり」 「新年会帰りなんだ。そっちは仕事帰り?」 「ええ、そう。懐かしくて、店に入ってみたの」 僕たちは近くの喫茶店に入り、コーヒーを注文した。窓の外には雪がちらつき始め、カップから立ち上る湯気が、胸の奥に温かさを運んでくる。目の前に広がる光景は、かつてバイト仲間と過ごした日々を、まるで呼び覚ますかのようだった。パティを焼く音、フライヤーの熱気、注文を叫ぶ声──あの小さな戦場で、僕たちは毎日を必死に駆け抜けていた。 「ねえ、ミオのこと覚えてる?」リナが突然口にした。もちろん覚えている。あの頃、僕の彼女にしたい娘No.1だったミオだ。休憩時間には世界旅行の本ばかり読んで、僕は一緒に世界を巡る妄想にふけっていた。 「ミオ、大統領になったわよ」 思わず吹き出しそうになった。でもリナの瞳は真剣で、嘘ではないことが伝わってくる。確かに、そんなネットニュースは見た記憶がある。遠い異国のニュース記事の向こうに、あのミオが存在している──信じがたくも、妙に納得できる事実だった。 バイト初日、慣れない制服を着たミオは、マニュアル通りにチーズを刻む僕たちの手元をちらりと見た後、無言でナイフを取り上げた。そして滑らかにチーズを薄く、均等に、完璧な厚さにスライスした。注文を間違えそうなお客には、すっと駆け寄り、「こちらがご希望ですよね」と笑顔で差し出す。その自然な気配りに、僕たちは心を奪われた。 「ロンド」には業務改善案を提出できる「アイデアボックス」という制度があった。ミオは初日からフル活用し、ポテトの塩加減や新メニューの提案、シフトの効率化、販促戦略まで次々にアイデアを出した。僕はその姿に、ただ圧倒されるばかりだった。 「変なハンバーガーも作ってたな。鯨バーガーとか」 「苦瓜バーガーは不味かったわ」 試作品が不味くても、ミオは「アフリカでは飢えて死ぬ子もいるのよ」と言って、すべて平らげる。小さな店での力強さが、今の大きな成果につながる予感さえあった。 コーヒーが冷めていくのも忘れ、僕たちは思い出話に没頭する。...

【1000文字小説】アヤカいます!

 その店はクレープ屋だったが、半年であっけなく閉店した。商店街の角にある、間口の狭い十坪ほどの細長い店舗だ。次の月、同じ場所にタピオカ屋がオープンした。店の前には行列ができていた。店の中にはクレープ屋で働いてたバイトの女の子の姿があった。アヤカだ。瞳の色が少し茶色がかっているため、光が当たるとキラキラして見えた。だが表情は、タピオカをシェイクする手つきと同じくらい淡々としていた。タピオカ屋は一年で潰れた。アヤカはシャッターが降りた店をじっと見つめた。何らかの決意表明をしているようにも見える。 店は次に小さなサンドイッチ屋になった。ショーケースの奥で、アヤカは満面の笑みでサンドイッチを作っていた。彼女の隣には、もう一人、若い男の子がバイトとして働いている。店の外で並んで歩く二人の姿も時折見られた。アヤカの笑顔はクレープ屋にいた頃よりも、タピオカ屋にいた頃よりも更に明るく、生き生きとしていた。 店が開く少し前、彼女はいつも、古びた自転車に乗ってやってきた。スタンドを立て、前カゴに積んだ水筒とポーチを取り出す。細い腕で鍵をかけ、カゴをポンと叩いてから、店の入り口へ向かう。その一連の動作は、雨の日も風の日も変わらない。 サンドイッチ屋は一年半で無添加の調味料を専門に扱う店に変わった。清潔感のある白い内装に、シンプルなラベルの瓶が並ぶ。レジに立つアヤカは落ち着いたベージュのエプロンを身に着け、商品を丁寧に袋に詰めていた。彼女の表情はどこか大人びて見えた。客が「いつもここにいるわね」と話しかけると、彼女は穏やかに微笑んで「家が近いんです」と答えた。とは言っても自転車で二十分の距離だった。自分の勤めた店が次々と閉店したのは自分の力不足もその一因だと思い、リベンジする気持ちもあったのだった。 店が変わるたびに、アヤカも少しずつ変わっていく。前髪が短くなったり、メイクをしたり、笑顔も増えていく。その変化は、淡々と、だが確実に彼女の中に刻まれていく。店の看板は変わっても、店の看板娘はいつも変わらない。 商店街の店は、また変わっていくかもしれない。だが、アヤカがここにいる限り、この場所の物語は、いつまでも続いていくと思いたかった。彼女は今日も笑顔で元気な声で「いらっしゃいませ!」と声をかけている。「今度こそ続け」と願いも込めて。そして、閉店後はいつもと同じ古びた自転車に乗って、商...

【1000文字小説】ダンボール箱のクリスマス

 凍える十二月下旬の夕暮れ、OLのサキは家路を急いでいた。マフラーに顔をうずめて足早に歩く。一人暮らしの部屋にはいつも通り誰もいないが、猫が出迎えてくれたらどうだろう。犬ほど手がかからないとは聞く。それでも毎日のお世話、掃除やご飯やトイレの管理、病気の時のことを考えると、きちんと面倒を見てあげられないかもと飼う事は躊躇する。 サキは近道のまばらな裏通りで、ダンボール箱の中で毛布にくるまり震える小さな塊を見つけた。ミャーミャーと頼りない声で鳴いている。猫だ。まだ産まれて間もない子猫だろう。こんな季節に生まれるのだろうか。冬に生まれる猫? 痩せ細った小さな体は、寒さで小刻みに震えている。日頃の行いが良かった自分への神様からのプレゼントだろうか。このまま見過ごすことだけはどうしてもできなかった。 子猫の入った段ボールを抱え上げ、一人暮らしのワンルームに帰り着く。すぐに暖房で温め、噛んだり引っ掻いたりしないだろうかと恐る恐る抱き上げた。掌に乗るほどの小さな生き物は弱々しく抵抗してきたが、温かい手に触れると安心したように身を委ねた。子猫をそっと床に下ろすと、子猫はくるくると周囲を見回した。新しい環境への警戒心と、それを上回る好奇心。子猫の小さな瞳には、怯えと期待が入り混じっていた。 ふと、ダンボール箱に挟まっていた、小さな冊子に目が留まる。表紙には「トリセツ」と書かれていた。開いてみるとそこにはご飯は一日一回でいいが必ず生魚を、お風呂は四十八度のお湯で毎日などと書かれている。コレ、信じていいの? トリセツ中には何故か猫という文字はない。最後のページには、少し達筆な文字で「アラフォー女の孤独を癒してくれます」と書かれている。 サキは思わず声に出して笑った。まるで、自分がこの子を拾うことを予期していたみたいだ。ただの偶然か、誰かの手の込んだ悪戯か。いや、もしかして、私のストーカーか?一瞬背筋が寒くなったが、子猫の無防備な寝顔を見るとその疑念は消え失せた。 「何にせよ、飼ってやるよ」 サキはもう躊躇う気持ちはなかった。この子との出会いは、偶然ではない、必然なのだ。 窓の外ではクリスマスのイルミネーションが輝いている。今年も一人きりだと思っていたクリスマスが、寂しくなくなる。「さぁ、まずは猫用品を買いに行こう」サキはまるで『行ってらっしゃい』とでも言うような子猫の温かい視線を...

【1000文字小説】積もりゆく物語

 木々を濡らしていた雨が、いつの間にか雪になっていた。窓の外に目をやると灰色だった街路樹の枝が、うっすらと白く染まっている。アスファルトの黒も次第に白い粒に覆われていく。ぼんやり眺めていた亜美は、休日の静けさに身を委ねながらスマホに手を伸ばした。十二月中旬、三十歳になったばかりの、何の変哲もないOLの休日だ。 天気予報は、午後から雪が強まることを伝えていた。画面をスワイプする。予定のない週末。積もれば買い出しに行くのが少し面倒になる。それだけの話だ。 画面をスクロールすると、友人たちのSNS投稿が流れてくる。「週末は旦那さんと温泉旅行」「結婚記念日のお祝いディナー」どれもが幸せそうで、きらきらと輝いて見える。もちろん、心の底から祝福している。でも、どこかで自分と比べてしまう自分がいることも否定できない。 窓の外では、雪が本格的に降り始めていた。白いカーテンが視界を遮り、街の音を吸い込んでいく。遠くの幹線道路を走る車の音が、いつもよりかすかに聞こえるだけになった。 亜美は、ふと昔の恋人とのことを思い出した。初めて雪が積もった日に、二人で夜の公園を歩いたこと。凍える手をお互いのコートのポケットで温め合ったこと。あの頃の自分は、こんなに穏やかで静かな雪景色を、寂しいと感じただろうか。きっと、寒さよりも誰かといる温もりを感じていたに違いない。 キッチンのほうへ向かい、コーヒーを淹れる。湯がゆっくりと注がれ、豆の膨らむ音、ぽたぽたと滴る音だけが、静かな部屋に響く。立ち昇る湯気と香りが、ささやかな温かさを運んでくる。 少し前に、同僚がSNSで「アラサー女子のリアルな恋愛小説」を書いていたことを思い出した。雨がいつの間にか雪に変わる、そんな一日の話を、誰にも知られることのない、ささやかな物語を、自分も紡いでみようか。主人公は、三十歳になったばかりのOL。予定のない休日に、積もりそうな雪を眺めている。そんな、誰にも知られることのない、ささやかな物語。 スマホを置いて、パソコンに向かう。キーボードに指を置き、カタカタと打ち始める。キーボードの音が、雪の降り積もる音に重なるように思える。空の雪も、心の中の言葉も、今はただ静かに降り積もっている。どれくらい積もるだろうか。 白い街並みを、ひとりのOLが窓から見つめている。彼女の部屋には、やがて始まる物語の始まりを告げる、キーボード...

【1000文字小説】ブックス&カフェ ソラリス

 悠斗は、古びた商店街の一角に掲げられた「ブックス&カフェ ソラリス」という見慣れない看板を見上げていた。最近この街にできた新しい本屋だ。十二月の初めだというのに看板の横には季節外れの朝顔が一輪、不自然なほど鮮やかな紫色の花を咲かせている。 悠斗は本屋が好きだった。紙の匂い、背表紙を眺めて歩く時間、偶然の出会い。だが街の本屋は次々と姿を消し、悠斗自身も電子書籍へ移行していた。そんなこのご時世に、新しい本屋? しかも、シャッター街の場所に。郊外の大型書店やAmazonに敵うわけはない。店主は採算度外視の夢追い人か、世間知らずのお金持ちか。 悠斗は店のドアノブに手をかけた。カランと古風なベルが鳴り響き、店内へと足を踏み入れる。 外の寒さが嘘のようにじんわりとした空気が肌を包み込む。奥には小さなカフェスペースがあり、コーヒーの香りが漂っていた。先客は一人。黙々と本を読んでいるが、何となく影が薄い。 店主らしき若い女性が、カウンターの中から会釈した。彼女の顔立ちは整っていたが輪郭が少しだけぼやけて見える。 悠斗は、ひとまず棚を眺めて回る。ポップには手書きで、店主の熱意あるコメントが添えられている。 「この本、面白いですよ」 いつの間にか隣に来ていた店主が、悠斗が手に取った詩集を指して言った。彼女の声は、まるで遠くの霧の中から聞こえてくるようだ。 「ここに並んでいる本は、全部私が読んだものなんです。一冊一冊、魂を込めて選んだ大切な子たちで。この詩集、今の高野さんにぴったりな気がします」 店主は楽しそうに、その詩集の魅力を語り始めた。その無邪気な熱量に悠斗は面食らった。「全部」という言葉に驚きつつ、それ以上に「今の自分にぴったり」と言われたことに動揺した。まるで自分の心を見透かされているかのようだ。その途方もない情熱が、この店の静かな空気を作り出しているのかもしれないと感じた。 悠斗はその詩集を手に取り購入することにした。久々に感じる紙の質感。カランとベルが鳴り、悠斗は店を出る。 外の喧騒が戻ってくる。冷たい外気、行き交う人々の速い足取り、スマートフォンの通知音。店の前の朝顔は、相変わらず不自然なほど鮮やかだ。 この新しい本屋は別の時間軸から現れたのかもしれない。流行り廃りとは無縁の、店主の情熱という名の磁場に守られたあの店は、この世界とは異なる温度を持っていた。そんな...

【1000文字小説】知っているのに知らない彼女

 車、車、車、車、車…。前にも後ろにも、ノロノロとしか動かない車列。渋滞だ。アスファルトは乾いて暖かく、色づいた街路樹の葉がカサカサと音を立てる。助手席でスマホに夢中になっていた妻がふと顔を上げた。 「ねえ、渋滞の情報全然出てないわよ」 無邪気な声に彼は苛立ちを抑えながら短く答える。 「本当?」 おかしい。こんなにひどい渋滞なのに、情報がないなんてことはないはずだ。妻の検索の仕方が悪いんだろう。事故か、工事か、何かイベントでもあるのか。原因はわからなくても、不満を呟いている人くらいはいるだろう。前方の車がわずかに進み出すたびに、彼はブレーキとアクセルを交互に軽く踏み込む。助手席から、また声がした。 「ねえ、この車、飛べないかしら」 彼は視線だけを向ける。妻はスマホを膝に置き、こちらを見ていた。彼女の口元には微笑が浮かんでいる。だが、その微笑は彼の知る妻のそれとはどこか違うような気がした。 「多分僕が重量オーバーで無理だよ」と彼は答える。彼の体重は100キロを超えているのだ。彼は前方を注意しながら、もう一度妻の顔を見る。妻の瞳はいつもよりも何となくだが暗い色に見えた。 「どうかした?」と妻が首をかしげる。 その仕草は、彼の知る妻とまったく同じなのに、やはりどこかが違う気がする。彼女の顔の輪郭が、ほんの少しだけシャープになっている気がする。声のトーンが、わずかに高くなっている気もする。 「なあ、君は」 言いかけた言葉は、喉の奥に引っかかる。彼は、確かめたかったが、何を確かめればいいのかわからない。だが、違和感は拭えない。彼は視線を助手席のドアポケットに置かれた、見覚えのないキーホルダーへと移した。それは彼の妻が持っているものではない。 その時、前の車が急に加速し始めた。周りの車も一斉に動き出す。すべての信号が一斉に青に変わったのだろうか。これまでの渋滞がウソのようだ。彼もまたアクセルを踏み込む。 再び動き出した車の中で、彼は思う。隣に座るこの女は、はたして妻なのだろうか。そして、あの渋滞は、いったい何だったのだろうか。まるで何か見えない力が働いて、彼らを一時的に足止めしていたかのようだ。そして渋滞の間に、誰かが彼の妻を、見知らぬ妻と交換した…。いや、そんな超常的な話ではないはずだ。これまで見過ごしてきた、小さな変化の積み重ねが違和感として表れているだけだ。無理に...

【1000文字小説】MacBookについて思うこと

 里奈はぼんやりと彼氏の蓮のMacBookを眺めていた。ガラス張りのカフェの店内には、晩秋の柔らかい日差しが差し込んでいる。床は磨かれた木のフローリングで、ところどころに置かれた観葉植物が緑の色を添えていた。蓮の向かいの席で里奈は自分のiPhoneを触っている。彼はMacBookを開き、真剣な顔でカタカタとキーボードを叩いている。家でくつろいでいるときも、蓮はこのMacBookを手放さない。彼は里奈といるよりも、MacBookと向き合っている時間の方が遥かに長い。 カフェの外では風に揺れる街路樹の葉が少しずつ色を変えている。夏の暑さが嘘のように、肌寒い風が吹き抜けていく。もうすぐ冬が来る。そんな季節の変わり目の空気を感じながら、里奈はコーヒーを一口飲む。肩にかかるゆるいウェーブのかかった髪を指で遊びながら、彼女は窓の外を眺めた。 三十歳になった里奈は、仕事もそれなりにこなせるようになり、蓮との関係も安定している。特に大きな不満はない。里奈は仕事ではパソコンを使うが、プライベートはもっぱらiPhoneで済ませていた。一方、蓮は新しいMacBookが出るたびに買い替える。その最新のMacBookに向き合う彼を見ていると、たまに、どうしようもない不安に襲われることがあった。このままでいいのだろうか、と。 「もう少しで終わるから」 蓮は時々そう言って、里奈に微笑みかける。その笑顔は、MacBookから里奈の方に向けられる。その瞬間里奈は、蓮がMacBookよりも自分を大切にしてくれているはずと思い込もうとする。もし「あたしとMacBookのどちらを選ぶのよ」と聞けば、彼はきっと「もちろん君だよ」と言うだろう。しかし、そう答えたからといって、彼はMacBookを手放すことはないだろうと里奈は知っていた。 冬が来る前に、里奈はMacBookに尋ねてみたいと思った。「ねえ、あなたは蓮のこと、どう思っているの?」と。MacBookは何て答えるだろう。無機質な機械のはずなのに、まるでそこに意思があるかのように、彼女は想像した。おそらくMacBookはこう言うだろう。「彼の仕事も、彼の趣味も、彼の夢も、全部私は知っている。里奈さん、あなたは知らないでしょう?」と。カフェの外では冷たい風が強くなりはじめ、街路樹の葉が風に揺れる。道ゆく人々はコートの襟を立て、これから当たり前のよう...

【1000文字小説】ケイコウ

 詩音はどこからか澄んだ音色が聞こえてくるのに気がついた。悲しげだが、どこか人の心を和ませ安心させるものがある音色。その音に引かれて詩音は公園へと足を踏み入れた。 銀杏や欅といった木々の葉は大分落ちている。今朝から急に冷え込み気温が上がらないせいか、人の姿はほとんどないが、若い女性が一人ベンチに座っていた。 その姿を見た途端、詩音は周囲の気温がさらに下がったような気がした。まるで一気に冬が訪れたような…。 詩音は言い知れぬ恐怖を感じ手足が震えた。自分の中の奥底から訴えてくるような恐怖。女性がこの世の者ではないような感じが、冷たい空気に溶け込むように漂った。 女性は笛のような楽器を吹いていた。まるで壊れ物を扱うように、一本一本の指が慎重に、しかし淀みなく動いていた。女性の肌は青白い。その輪郭は冷たい空気に溶け込んでいるかのようで、実体よりも遥かに希薄な存在に見えた。 女性は詩音と目が合うと楽器を吹くのを止めた。「この音が聞こえたの?」優しい、けれども遠い響きを持つ声だった。 詩音は喉を詰まらせながらも頷いた。「え、ええ、聞こえました」 女性は楽器をそっと膝の上に置き、愛おしむように撫でた。「よかった。聞こえない人もいるから」 「聞こえない人もいる? いったい、その楽器は何なんですか?」 「これはね、ケイコウっていうのよ、知ってる?」 「知らない」 「昔、中国の山奥にいたラァっていう動物の、前足の骨から作った楽器なの」 「ラァ?」 「ラァはね、ギリシア神話に出てくるグリフォンに似た動物で、背中に翼が生えていて空を飛べたのよ」 「信じられない。お姉さんは見た事あるの?」 「ないわ。ラァは何百年も前に絶滅してしまったから。人間が狩り尽くしたの」悲しそうな声で言った。 「でもラァから作ったこのケイコウは残っているわ。この楽器はね、迷っている人の魂に安らぎを与えてくれるのよ」 「迷っている人の、魂?」 詩音は訝しい顔で女性の顔を見た。突然、魂なんて事を言い出すなんて…。女性は悲しそうに微笑んだ。まるで永遠に続く定めを受け入れるように。「自分が死んでしまった事に気がつかない魂を、優しく包んで送ってくれるの」 女性は目を瞑り、再びケイコウを吹き始める。指が繊細に動くと、心の奥底の鎖を解くような音色が公園に響き渡る。詩音も目を閉じて聞き入っているが、音色は遠い日の子守歌のよう...

【1000文字小説】コンビニでの再会はバッドエンドへの第一歩

 ザーッと降り出した雨に思わず駆け込んだのは、駅前のセブンイレブンだった。アスファルトを叩く土砂降りの音が、ガラス戸の向こうから容赦なく響いてくる。僕はびしょ濡れになるのを免れたことに安堵しながら店内を見渡すと、その視界の端に見覚えのある横顔が映り込んだ。 レジの列に並ぶ彼女は、長い髪をポニーテールにまとめスマホを眺めている。スラリとした首筋、昔と変わらない華奢な肩のライン。見間違えるはずがない。昔、あんなにも好きだった人。彼女は僕が入ってきたことには気づいていないようだ。 僕はビニール傘だけを手に取って、彼女から一番遠い雑誌コーナーから彼女を伺う。彼女が会計を済ませ、店を出ていくその背中を僕はじっと見送った。 会計を終えビニール傘を差して外に出る。弱まった雨足の中を歩き出そうとしたその時だった。 「パンッ!」 乾いたクラクションが背後で鳴り響く。振り返ると、店の前に停まった黒いN-boxから彼女が顔を出していた。視線が絡み合う。一瞬、時間が巻き戻ったかのような錯覚。 「久しぶり。雨、大丈夫?」 数年ぶりに聞く、あの頃と少しも変わらない温かさを秘めた彼女の声が、再び僕の心臓を締め付ける。ふと顔を見ると、昔と変わらない大きな瞳は濡れた睫毛に縁どられて一層輝いて見えた。 その瞬間、頭の中に響く声があった。誰の声かは分からない。けれど、確かに聞こえた。「こっちを選べよ。そっちはバッドエンドだ」と。こっちとそっちって、どっちがどっちだよと思いながら、まるで誰かが僕の選択肢を提示し、どちらかの道を進むように指示しているかのようだ。僕は自分の意思で動いているのではなく、誰かに操られているゲームの登場人物のようだ。この世はバーチャルリアリティのゲームで、僕らはその登場人物に過ぎないとはよく聞く話だが、今の僕はまさにそれを実感している。 ほんの一瞬の逡巡の後、僕は彼女のもとへと歩き出した。雨は、再び強く降り始める。差した傘を閉じ、N-boxの助手席に乗り込んだ。 「どこか行こうか」 彼女の言葉に、僕はただ頷いた。この選択がバッドエンドへと続く道なのだろうか。それでも僕は彼女の笑顔を選んでしまった。この再会は、決してハッピーエンドにはならない。晩秋のまだ色づききっていない街路樹を眺めながら、僕はそう思う。それは心の奥底に静かに沈んでいく予感めいたものだったが、それもまた何かに...

【1000文字小説】コーヒーを植えた頃

 真希がキッチンの隅に置かれた植木鉢に水をやっていると、緑の葉の陰に小さな実を見つけた。実の色が葉と同じ緑色だったので、見落としていたのだ。十年前にダイソーで買ったコーヒーの木だが、いつの間にか真希が見上げる高さになっていた。 十年前の真希はまだ独身で、古い木造アパートに住んでいた。一人暮らしを始めてからずっと住んでいた狭い部屋だが、それでも小さな部屋には自分の居場所があると思えた。休日は、朝から海外の古典ミステリーを読んだり、コーヒーを淹れたりして静かに過ごした。真鍮製のアンティークのコーヒーミルは安アパートのテーブルには場違いなほど重厚で、ゆっくりと豆を挽く時間はそんな静かな日々の小さな彩りだった。 コーヒーの実を見つけた真希は、そんな十年前の日々を思い出した。「実がなったら、焙煎してコーヒーを淹れて飲もうね」コーヒーが嫌いだった彼に好きになってもらおうと買った木だった。彼と一緒にコーヒーの木が大きくなっていく姿も見たかった。結局、彼はコーヒーを好きになることはなく、二人の関係は、次第にすれ違うようになった。真希が結婚を口にしても、彼は言葉を濁すばかり。真希が休日にアンティークのミルで豆を挽き、丁寧にコーヒーを淹れる姿を、彼は「そんな無駄な時間と金があるなら、もっと将来に役立つことを考えろ」と笑った。そんな価値観のずれが積み重なり、二人は別れ関係は終わった。 今は、もうすぐ四十歳。結婚して、三つの部屋がある新しいアパートに住んでいる。あの頃よりずっと広いのだが、なんだか息苦しさを感じることがある。広い部屋のどこにも、自分だけの時間や空間がないように思えた。夫は、コーヒーが好きでも嫌いでもなく、ただの飲み物として時々飲む程度だ。最近は、転職したばかりの仕事に慣れず、帰宅すると、疲れた表情で黙ってテレビを見ていることが増えた。 コーヒーの木は、いつの間にか窓辺からキッチンの隅へと追いやられ、そこが定位置になっていた。水をやるのもただの義務だったが、無関心な日々にも関わらず実をつけた。 真希は十年前の自分の言葉を思い出し、かすかな寂しさを覚えたが、もう彼と一緒にコーヒーを飲むことはない。自分で焙煎して飲むことはできるだろうか。そんな考えが一瞬だけ真希の頭をよぎったが、すぐに消えた。面倒だ。今の自分にはそんな気力はない。緑色の実はただの過去の断片としてそこに存在...

【1000文字小説】職場で笑え

 「こんな間違いをするなんてねえ」 薄い髪をオールバックにした小心者そうな部長の席の前に、泣き出しそうな顔で鈴木さんがポツンと立っている。他の社員たちは各々パソコンの画面を見ているが、その耳だけは部長と鈴木さんのやり取りに傾けられていた。悠太もその他の社員の一員だ。 鈴木さんは、黒髪のボブカットがよく似合う、清楚な雰囲気の若い女性だった。地味だが清潔感のある服装をしている。大人しそうな鈴木さんは、部長にとって格好の標的なのだろう。これまでの悠太は何もできなかったが、今は「笑え」がある。一日一度しか使えない能力だが、今使わずにいつ使うのだ。 悠太は、自席から部長の姿を捉え、「笑え」を発動させた。部長は、鈴木さんに更に嫌味を言おうとした瞬間吹き出した。腹を抱え涙を流しながら笑い出す部長に、鈴木さんは呆然とする。その様子は滑稽で、鈴木さんは驚きながらも、その隙に自分の席に戻った。 「笑え」のきっかけは、2週間前、悠太が家の中で転んで頭を打った時だった。大したことはなかったが、母があまりにも心配するので、鬱陶しくなった悠太は無意識に心の中で強く願った。「笑ってくれよ、母さん」 その瞬間、母はおかしくてたまらないといった様子で笑い出した。笑えと思ったら笑ったかのようだ。だがその後試しに心の中で念じても母は一度も笑わなかった。 翌日、出勤中の電車内で、疲れた顔でスマホを見つめる女性が目に入った。心の中で強く「笑え」と念じてみると、女性は突然大笑いし始めた。おかしい記事でもあったのだろうか? いや、偶然にしてはタイミングが良すぎる。車中の注目を一身に浴びて可哀想に思えたので、隣に座っていた男性も笑わそうとしたが、こちらには何も変化がない。数日、様々な相手で試してみて分かったのは、どうやら笑わせることができるのは一日一回一人だけらしいという事だ。 何度か呼び出され叱責される鈴木さん。仕事ができないわけではない。部長が虐めたいだけなのだ。その度に悠太は陰から「笑え」を発動させた。最初は困惑していた部長も、やがて異変に気付き始める。叱責しようとするたびに、意味もなく笑いがこみ上げてくる。それが何度か繰り返すうち、部長は鈴木さんと向かい合うこと自体に恐怖を覚えるようになり、鈴木さんを怒るのをやめた。社内であまり好かれていなかった部長だが、「笑え」の影響があるのかよく笑うようになり...

【1000文字小説】欠勤した日の秋の雨

 朝から降り続く雨が、二十五階の窓の外に白い膜を張っていた。 天気予報では「一日中、弱い雨が降ったり止んだり」と告げていたが、ずっと途切れることなく降り続いている。 ぼんやりと霞む視界の向こうに、都市の輪郭が滲んでいる。 美咲がこのマンションに住み始めたのは、十五年付き合った恋人と別れたことがきっかけだ。 二人で選んだ部屋を出て、思い切って契約した高層階。親の援助がなければ到底無理だったろう。 新しい生活への期待と、一人で全てを背負うことへの不安が入り混じっていたが、今はもうすっかりここの生活に馴染んでいる。終の住処になるのだろうか。 いつもは出勤している時間だが、風邪で欠勤の連絡を会社に入れた。昨日の晩から何となく調子が悪い。風邪かなと思い寝れば治ると早めに布団に入ったが、あんまり変わりがない。熱は微熱程度だが、出勤して誰かに風邪をうつしてしまったら何を言われるかわからない。 雨の日はいつも頭が少し重く、身体が鉛のように沈み込んでいくのを感じる。こういう日には無理に元気を出そうとせず、ただ静かに雨音を聞いていよう。 カップに温かい紅茶を淹れ、窓際のソファに腰を下ろす。 指先にじんわりと伝わるマグカップの温かさが、冷えた心に少しだけ沁み渡るようだった。 秋の雨は「秋霖」とも呼ばれるらしい。以前、テレビの教養番組で知った言葉だ。 夏の名残を洗い流し、一気に季節を進ませる雨。 窓ガラスを滑り落ちる雫が、一筋の線を描いては消えていく。 眼下の街は、雨の中でも休むことなく営みを続けている。 律儀に信号に従う車が行き交い、傘をさした人々が忙しそうに歩いている。傘の色は、黒や紺、グレーといった無彩色のものがほとんどだが、時折鮮やかな赤や黄色が混ざる。 景色を見ているうちに美咲は、自分だけがぽつんと取り残されているような感覚を覚えた。それは子供の頃、風邪で学校を休んで寝ていた午前中、みんな今頃授業を受けてるんだろうなと思ったように、いつもの日常から自分だけが切り離されたような感覚だった。 夕方になり、雨脚が少し弱まってきた。 街の明かりがぽつり、ぽつりと灯り始め、水面に反射している。 やがて空は深い藍色に染まり、夜の帳が降りてきた。 部屋の電気をつけず、キャンドルに火を灯す。百貨店の雑貨フロアで買った、手のひらサイズの丸いピラーキャンドルだ。揺らめく炎の光が、部屋全体を優...

【1000文字小説】笑顔のはじまり

 カーテンの隙間から差し込む光が、彩花のまだ寝ぼけた意識を鋭く突き刺した。昨日の夜に見たサスペンス映画の余韻も、気の置けない幼馴染との軽快な会話も、すべては遠い過去の出来事のようだ。枕元に置いたスマホのアラーム音が鳴り、憂鬱な月曜日の朝が始まる。 ベッドの中で大きく伸びをしてから、彩花はのろのろと体を起こした。冷蔵庫の扉を開けて食パンと賞味期限切れ間近の牛乳を取り出した。トースターにパンを入れ、古びたコーヒーメーカーのスイッチを押す。フィルターにセットされたコーヒー粉の上に湯が注がれ、ゆっくりと黒い雫が落ち始めた。 着替える服は、無難なブラウスに動きやすいスカート。おしゃれに気を使う元気もなく、ただオフィスで浮かないだけの選択だった。メイクも手早く済ませる。ファンデーションでクマを隠し、血色を良く見せるチークを乗せる。誰かに見られるためではなく、自分を騙すための儀式だった。鏡に映る疲れた顔は、一体何年前からだろう。 玄関のドアを開け、重い足取りで駅に向かった。道沿いのケヤキ並木は、まだ緑の葉を残しながらも、ところどころが薄黄色に色づき始めている。朝のひんやりとした空気には、秋特有の乾いた匂いが混じり、夏の湿気をすっかり忘れさせていた。足元には通勤通学の人々に踏まれた乾いた落ち葉が一枚。 駅のホームには、いつもと変わらない無表情な人々。電車が到着し、人の波に押し込まれる。吊り革につかまりぼんやり外を眺めていると、向かいのホームに止まっている電車の窓に自分の姿が映っている。しかし、その顔は笑っていた。満面の笑みで、こちらに手を振っているのだ。彩花は目を擦り、もう一度見直す。そこにはいつもの疲れた、無表情な自分の顔が映っている。 会社最寄りの駅に着き、雑踏の中を歩く。スーツを着た人々の波に紛れ、彩花はまたいつも通りの一員に戻る。ビルのエントランスをくぐり、エレベーターに乗る。 デスクに座り、パソコンの電源を入れる。いつも通りの月曜日の朝が、いつも通りに始まろうとしていた。あれは何だったのか。胸の奥には、まるで一枚の写真のように、電車の窓に映った笑顔の自分が焼き付いていた。その笑顔を思い出しながら、彩花はデスクの上にある小さな手鏡に向かって、ぎこちない笑顔を作ってみた。それは、この憂鬱な月曜日を、少しだけ特別なものに変えてくれるかもしれない。そう思いながら、彩花はキ...

1000文字小説

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