このブログを検索

2019/03/15

【1000文字小説】ワタシハカラダ

 三十八階から見える空には雲一つ浮かんでいなかった。
 耕一は今まで着ていたメガロジック社製安息用ボディー『パジャマーン』からアーバイン社製のボディー『マルチ・スポーツⅢ』に着替えた。
 個人用ボディーで世界一のシェアを誇るアーバイン社製の『マルチ・スポーツⅢ』を着れば、昨年開かれた北京オリンピックの全金メダリストと同等の運動能力を有する事が出来る。つまり張大成と同じく四二、一九五キロメートルの距離を二時間三分三十秒で走り、野球のスコット・トンプソン同様一六六キロの豪速球。柔道の山本卓也の一本背負いも自分のものだし、ビクトル・シリツォフの怪力で四百八十キロのバーベルを持ち上げる事だって可能である。そして大事な点は、それらは決して他人の体験の追想ではなく、あくまで自分自身の体験として出来るという事にある。
 耕一は超高層マンション前の公園でウォーミングアップを済ませると、会社までの一二キロを軽やかに走り始めた。日差しは柔らかで、走る事が楽しかった。
 現在、人々の多くはTPOに応じて服装だけではなく、体そのものを使い分けて生活している。人は対人関係において様々な役割を担っているから、それに応じた能力が、ルックスが、あるいは醸し出す雰囲気やオーラまでもが必要とされる。だがすべての事柄が際限なく細分化されていく世界で、すべての役割をそつなくこなす事は人間には不可能だった。その不可能を可能にしたのが肉体と精神の分離技術マインドトランスファーと、分離された精神を受け入れる肉体、第三世代人型ロボット群、通称ボディーだった。ボディーは当初、行き過ぎたヴァーチャル・リアリティーへの反動として生まれたが、現在は人々にとってなくてはならないものになっていた。ボディー産業は今世紀の主要産業の一つになり、人は洋服を着替えるように体を着替える。
 一日の終わり、耕一は『パジャマーン』に着替えてベッドに入った。
 多くの人は、眠るときは自分の体に、生まれたときの親からもらった体に着替える事が多い。眠るときぐらいは自分の体で夢を見たいと思うのか、あるいは、眠っているときだけでも本当の自分でいたいと思うのだろうか。しかし、耕一にはそれが出来なかった。耕一にとってそれは叶わぬ夢だった。
 耕一はベッドの中で、もう随分と前に盗まれてしまった自分の体の事を思った。
 オレハイマ、イイユメヲミテイルダロウカ……。

(1998/11/27/勝ち抜き小説合戦応募 文字数:999)



〈1000文字小説・目次〉