葉山一樹は中央の列の前から三番目の自席につき、カバンの中身を取り出して机の中にしまった。それから友達と話をするでもなく、教室の前の入り口に、何気ない風を装いながらも抜け目なく目をやった。島本奈美の登校を待っているのである。
一樹の一日は奈美を一目見てから始まる。一樹は奈美が登校して来る迄、母親に起こされて布団から抜け出しても、眠い目をこすりながら朝食をとっても、ほんの二十秒だけおざなりに歯を磨いても、「いってらっしゃい」と母親に見送られて家を出ても、奈美の事が気になりだして以来、一日が始まったという気がしなかった。奈美を見る迄は一樹にとっての世界は止まったままなのである。
それは秋の運動会がきっかけだった。クラス対抗のリレーにアンカーとして出場した奈美は、バトンをうけた時点で四位だったのが三人をごぼう抜きしトップに躍り出、そのままゴールした。それ迄は奈美と話をした事さえなかったが(その状況は残念ながら今でも変わりがないが)、その勇姿が目に焼き付いて離れなくなってしまった。あまり目立つ存在とはいえなかった奈美が、突然眩しげな光彩を放し出したように感じられた……。
もう来てもいい頃だと一樹が思った時、不意に後ろから、
「おはよう」という奈美の声がした。
その多少はにかみを含んだような声に一樹は振り返った。奈美が微笑んでいる。奈美はいつものように一樹が見張る前からではなく、後ろから入って来ていたのだった。
「お、おは……」
突然の事に一樹は驚き、それでも言葉を返そうとしたが口ごもってしまった。奈美は別段一樹の言葉を待つでもなく、自然な足取りで自席へと歩いていく。
一樹の胸は早鐘を打っていた。頬が赤らんでいた。奈美を見ると何事もなかったように友達とおしゃべりを始めている。その姿を見ながら一樹は「おはよう」という言葉を、まるでそれが重い扉を開ける呪文のように、幾度も幾度も心の中で繰り返した。すると一樹は、世界が始まったという気が心底からしてきたのだった。
(1998/11/20/勝ち抜き小説合戦応募 文字数:995)
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