投稿

オススメの1000文字小説

【1000文字小説】夢の売り場で

イメージ
ムラタは散歩がてら歩いて二十分程度の宝くじ売り場まで出かけた。つい最近まで猛暑だ熱中症だと騒がれていた気がするが、いつの間にか十一月になり街路樹の葉もほとんどが色づいている。歩道に落ちた落ち葉を踏みしめながら歩いていると、秋も深まっているんだなあと実感出来た。 商業施設の一角にある宝くじ売り場には並んでいる人は見えない。ムラタはポケットからこれまで買った宝くじ二百枚ほどを差し出した。年末ジャンボ、ドリームジャンボ、サマージャンボ、買っただけで当選番号を確認していなかった宝くじだ。 「これ、当たってる?」 「はい、少々お待ち下さいね」 四十ぐらいの宝くじ販売員はムラタから受け取った宝くじを機械の照合機にかけた。ん?という表情をした販売員はその後目を見開いて大きく口を開いた。 「これ、一等が当たってますよ」 「え? ホント?」 当たったのだ。ムラタは一瞬で人生が変わった気がした。これからは働かなくたっていいんだ。アパート暮らしは止めてマンションを買おう。二十年乗っている車も買い替えよう、世界一周旅行もいいなあ…。次から次へと出て来る妄想は、販売員の大声にかき消された。 「大当たりー!! 一等四億円大当たりー!! 」 販売員は鐘を取り出し、カランカランと力の限り振り始めた。顔を真っ赤にして声を出している。 「こ、声が大きいよ。声が」 大声を出す販売員にムラタは慌てた。ムラタの声を無視して販売員は大声で続けた。ハワイ旅行や温泉旅行が当たったのとは訳が違うのだ。周囲の人間にバレてしまうではないか。 「一等見事に大当たりーーー!! おめでとうございます!!」 「ち、ちょっと声が大きいよ。もうちょっと小さい声で…」 いつの間にか後ろに並んでいた買い物帰りらしい主婦が小声で「おめでとうございます」とムラタに声をかけた。 あちこちから視線を感じる。ムラタは周囲を見渡す。その中の一人は見覚えがある。近所の人だ。言いふらされるだろうか。あの人が四億円当たったのよ…。 「ここには四億円ありませんから、四億円は銀行の方へどうぞー」 販売員から大声で説明され、当たりくじを受け取ったムラタはそそくさと売り場を後にした。 これから銀行へ行こうか。ムラタは後ろを振り返った。つけられている気がする。俺が持っている当たりくじを...

【1000文字小説】ダンボール箱のクリスマス

 凍える十二月下旬の夕暮れ、OLのサキは家路を急いでいた。マフラーに顔をうずめて足早に歩く。一人暮らしの部屋にはいつも通り誰もいないが、猫が出迎えてくれたらどうだろう。犬ほど手がかからないとは聞く。それでも毎日のお世話、掃除やご飯やトイレの管理、病気の時のことを考えると、きちんと面倒を見てあげられないかもと飼う事は躊躇する。 サキは近道のまばらな裏通りで、ダンボール箱の中で毛布にくるまり震える小さな塊を見つけた。ミャーミャーと頼りない声で鳴いている。猫だ。まだ産まれて間もない子猫だろう。こんな季節に生まれるのだろうか。冬に生まれる猫? 痩せ細った小さな体は、寒さで小刻みに震えている。日頃の行いが良かった自分への神様からのプレゼントだろうか。このまま見過ごすことだけはどうしてもできなかった。 子猫の入った段ボールを抱え上げ、一人暮らしのワンルームに帰り着く。すぐに暖房で温め、噛んだり引っ掻いたりしないだろうかと恐る恐る抱き上げた。掌に乗るほどの小さな生き物は弱々しく抵抗してきたが、温かい手に触れると安心したように身を委ねた。子猫をそっと床に下ろすと、子猫はくるくると周囲を見回した。新しい環境への警戒心と、それを上回る好奇心。子猫の小さな瞳には、怯えと期待が入り混じっていた。 ふと、ダンボール箱に挟まっていた、小さな冊子に目が留まる。表紙には「トリセツ」と書かれていた。開いてみるとそこにはご飯は一日一回でいいが必ず生魚を、お風呂は四十八度のお湯で毎日などと書かれている。コレ、信じていいの? トリセツ中には何故か猫という文字はない。最後のページには、少し達筆な文字で「アラフォー女の孤独を癒してくれます」と書かれている。 サキは思わず声に出して笑った。まるで、自分がこの子を拾うことを予期していたみたいだ。ただの偶然か、誰かの手の込んだ悪戯か。いや、もしかして、私のストーカーか?一瞬背筋が寒くなったが、子猫の無防備な寝顔を見るとその疑念は消え失せた。 「何にせよ、飼ってやるよ」 サキはもう躊躇う気持ちはなかった。この子との出会いは、偶然ではない、必然なのだ。 窓の外ではクリスマスのイルミネーションが輝いている。今年も一人きりだと思っていたクリスマスが、寂しくなくなる。「さぁ、まずは猫用品を買いに行こう」サキはまるで『行ってらっしゃい』とでも言うような子猫の温かい視線を...

【1000文字小説】積もりゆく物語

 木々を濡らしていた雨が、いつの間にか雪になっていた。窓の外に目をやると灰色だった街路樹の枝が、うっすらと白く染まっている。アスファルトの黒も次第に白い粒に覆われていく。ぼんやり眺めていた亜美は、休日の静けさに身を委ねながらスマホに手を伸ばした。十二月中旬、三十歳になったばかりの、何の変哲もないOLの休日だ。 天気予報は、午後から雪が強まることを伝えていた。画面をスワイプする。予定のない週末。積もれば買い出しに行くのが少し面倒になる。それだけの話だ。 画面をスクロールすると、友人たちのSNS投稿が流れてくる。「週末は旦那さんと温泉旅行」「結婚記念日のお祝いディナー」どれもが幸せそうで、きらきらと輝いて見える。もちろん、心の底から祝福している。でも、どこかで自分と比べてしまう自分がいることも否定できない。 窓の外では、雪が本格的に降り始めていた。白いカーテンが視界を遮り、街の音を吸い込んでいく。遠くの幹線道路を走る車の音が、いつもよりかすかに聞こえるだけになった。 亜美は、ふと昔の恋人とのことを思い出した。初めて雪が積もった日に、二人で夜の公園を歩いたこと。凍える手をお互いのコートのポケットで温め合ったこと。あの頃の自分は、こんなに穏やかで静かな雪景色を、寂しいと感じただろうか。きっと、寒さよりも誰かといる温もりを感じていたに違いない。 キッチンのほうへ向かい、コーヒーを淹れる。湯がゆっくりと注がれ、豆の膨らむ音、ぽたぽたと滴る音だけが、静かな部屋に響く。立ち昇る湯気と香りが、ささやかな温かさを運んでくる。 少し前に、同僚がSNSで「アラサー女子のリアルな恋愛小説」を書いていたことを思い出した。雨がいつの間にか雪に変わる、そんな一日の話を、誰にも知られることのない、ささやかな物語を、自分も紡いでみようか。主人公は、三十歳になったばかりのOL。予定のない休日に、積もりそうな雪を眺めている。そんな、誰にも知られることのない、ささやかな物語。 スマホを置いて、パソコンに向かう。キーボードに指を置き、カタカタと打ち始める。キーボードの音が、雪の降り積もる音に重なるように思える。空の雪も、心の中の言葉も、今はただ静かに降り積もっている。どれくらい積もるだろうか。 白い街並みを、ひとりのOLが窓から見つめている。彼女の部屋には、やがて始まる物語の始まりを告げる、キーボード...

【1000文字小説】ブックス&カフェ ソラリス

 悠斗は、古びた商店街の一角に掲げられた「ブックス&カフェ ソラリス」という見慣れない看板を見上げていた。最近この街にできた新しい本屋だ。十二月の初めだというのに看板の横には季節外れの朝顔が一輪、不自然なほど鮮やかな紫色の花を咲かせている。 悠斗は本屋が好きだった。紙の匂い、背表紙を眺めて歩く時間、偶然の出会い。だが街の本屋は次々と姿を消し、悠斗自身も電子書籍へ移行していた。そんなこのご時世に、新しい本屋? しかも、シャッター街の場所に。郊外の大型書店やAmazonに敵うわけはない。店主は採算度外視の夢追い人か、世間知らずのお金持ちか。 悠斗は店のドアノブに手をかけた。カランと古風なベルが鳴り響き、店内へと足を踏み入れる。 外の寒さが嘘のようにじんわりとした空気が肌を包み込む。奥には小さなカフェスペースがあり、コーヒーの香りが漂っていた。先客は一人。黙々と本を読んでいるが、何となく影が薄い。 店主らしき若い女性が、カウンターの中から会釈した。彼女の顔立ちは整っていたが輪郭が少しだけぼやけて見える。 悠斗は、ひとまず棚を眺めて回る。ポップには手書きで、店主の熱意あるコメントが添えられている。 「この本、面白いですよ」 いつの間にか隣に来ていた店主が、悠斗が手に取った詩集を指して言った。彼女の声は、まるで遠くの霧の中から聞こえてくるようだ。 「ここに並んでいる本は、全部私が読んだものなんです。一冊一冊、魂を込めて選んだ大切な子たちで。この詩集、今の高野さんにぴったりな気がします」 店主は楽しそうに、その詩集の魅力を語り始めた。その無邪気な熱量に悠斗は面食らった。「全部」という言葉に驚きつつ、それ以上に「今の自分にぴったり」と言われたことに動揺した。まるで自分の心を見透かされているかのようだ。その途方もない情熱が、この店の静かな空気を作り出しているのかもしれないと感じた。 悠斗はその詩集を手に取り購入することにした。久々に感じる紙の質感。カランとベルが鳴り、悠斗は店を出る。 外の喧騒が戻ってくる。冷たい外気、行き交う人々の速い足取り、スマートフォンの通知音。店の前の朝顔は、相変わらず不自然なほど鮮やかだ。 この新しい本屋は別の時間軸から現れたのかもしれない。流行り廃りとは無縁の、店主の情熱という名の磁場に守られたあの店は、この世界とは異なる温度を持っていた。そんな...

【1000文字小説】知っているのに知らない彼女

 車、車、車、車、車…。前にも後ろにも、ノロノロとしか動かない車列。渋滞だ。アスファルトは乾いて暖かく、色づいた街路樹の葉がカサカサと音を立てる。助手席でスマホに夢中になっていた妻がふと顔を上げた。 「ねえ、渋滞の情報全然出てないわよ」 無邪気な声に彼は苛立ちを抑えながら短く答える。 「本当?」 おかしい。こんなにひどい渋滞なのに、情報がないなんてことはないはずだ。妻の検索の仕方が悪いんだろう。事故か、工事か、何かイベントでもあるのか。原因はわからなくても、不満を呟いている人くらいはいるだろう。前方の車がわずかに進み出すたびに、彼はブレーキとアクセルを交互に軽く踏み込む。助手席から、また声がした。 「ねえ、この車、飛べないかしら」 彼は視線だけを向ける。妻はスマホを膝に置き、こちらを見ていた。彼女の口元には微笑が浮かんでいる。だが、その微笑は彼の知る妻のそれとはどこか違うような気がした。 「多分僕が重量オーバーで無理だよ」と彼は答える。彼の体重は100キロを超えているのだ。彼は前方を注意しながら、もう一度妻の顔を見る。妻の瞳はいつもよりも何となくだが暗い色に見えた。 「どうかした?」と妻が首をかしげる。 その仕草は、彼の知る妻とまったく同じなのに、やはりどこかが違う気がする。彼女の顔の輪郭が、ほんの少しだけシャープになっている気がする。声のトーンが、わずかに高くなっている気もする。 「なあ、君は」 言いかけた言葉は、喉の奥に引っかかる。彼は、確かめたかったが、何を確かめればいいのかわからない。だが、違和感は拭えない。彼は視線を助手席のドアポケットに置かれた、見覚えのないキーホルダーへと移した。それは彼の妻が持っているものではない。 その時、前の車が急に加速し始めた。周りの車も一斉に動き出す。すべての信号が一斉に青に変わったのだろうか。これまでの渋滞がウソのようだ。彼もまたアクセルを踏み込む。 再び動き出した車の中で、彼は思う。隣に座るこの女は、はたして妻なのだろうか。そして、あの渋滞は、いったい何だったのだろうか。まるで何か見えない力が働いて、彼らを一時的に足止めしていたかのようだ。そして渋滞の間に、誰かが彼の妻を、見知らぬ妻と交換した…。いや、そんな超常的な話ではないはずだ。これまで見過ごしてきた、小さな変化の積み重ねが違和感として表れているだけだ。無理に...

【1000文字小説】MacBookについて思うこと

 里奈はぼんやりと彼氏の蓮のMacBookを眺めていた。ガラス張りのカフェの店内には、晩秋の柔らかい日差しが差し込んでいる。床は磨かれた木のフローリングで、ところどころに置かれた観葉植物が緑の色を添えていた。蓮の向かいの席で里奈は自分のiPhoneを触っている。彼はMacBookを開き、真剣な顔でカタカタとキーボードを叩いている。家でくつろいでいるときも、蓮はこのMacBookを手放さない。彼は里奈といるよりも、MacBookと向き合っている時間の方が遥かに長い。 カフェの外では風に揺れる街路樹の葉が少しずつ色を変えている。夏の暑さが嘘のように、肌寒い風が吹き抜けていく。もうすぐ冬が来る。そんな季節の変わり目の空気を感じながら、里奈はコーヒーを一口飲む。肩にかかるゆるいウェーブのかかった髪を指で遊びながら、彼女は窓の外を眺めた。 三十歳になった里奈は、仕事もそれなりにこなせるようになり、蓮との関係も安定している。特に大きな不満はない。里奈は仕事ではパソコンを使うが、プライベートはもっぱらiPhoneで済ませていた。一方、蓮は新しいMacBookが出るたびに買い替える。その最新のMacBookに向き合う彼を見ていると、たまに、どうしようもない不安に襲われることがあった。このままでいいのだろうか、と。 「もう少しで終わるから」 蓮は時々そう言って、里奈に微笑みかける。その笑顔は、MacBookから里奈の方に向けられる。その瞬間里奈は、蓮がMacBookよりも自分を大切にしてくれているはずと思い込もうとする。もし「あたしとMacBookのどちらを選ぶのよ」と聞けば、彼はきっと「もちろん君だよ」と言うだろう。しかし、そう答えたからといって、彼はMacBookを手放すことはないだろうと里奈は知っていた。 冬が来る前に、里奈はMacBookに尋ねてみたいと思った。「ねえ、あなたは蓮のこと、どう思っているの?」と。MacBookは何て答えるだろう。無機質な機械のはずなのに、まるでそこに意思があるかのように、彼女は想像した。おそらくMacBookはこう言うだろう。「彼の仕事も、彼の趣味も、彼の夢も、全部私は知っている。里奈さん、あなたは知らないでしょう?」と。カフェの外では冷たい風が強くなりはじめ、街路樹の葉が風に揺れる。道ゆく人々はコートの襟を立て、これから当たり前のよう...

【1000文字小説】ケイコウ

 詩音はどこからか澄んだ音色が聞こえてくるのに気がついた。悲しげだが、どこか人の心を和ませ安心させるものがある音色。その音に引かれて詩音は公園へと足を踏み入れた。 銀杏や欅といった木々の葉は大分落ちている。今朝から急に冷え込み気温が上がらないせいか、人の姿はほとんどないが、若い女性が一人ベンチに座っていた。 その姿を見た途端、詩音は周囲の気温がさらに下がったような気がした。まるで一気に冬が訪れたような…。 詩音は言い知れぬ恐怖を感じ手足が震えた。自分の中の奥底から訴えてくるような恐怖。女性がこの世の者ではないような感じが、冷たい空気に溶け込むように漂った。 女性は笛のような楽器を吹いていた。まるで壊れ物を扱うように、一本一本の指が慎重に、しかし淀みなく動いていた。女性の肌は青白い。その輪郭は冷たい空気に溶け込んでいるかのようで、実体よりも遥かに希薄な存在に見えた。 女性は詩音と目が合うと楽器を吹くのを止めた。「この音が聞こえたの?」優しい、けれども遠い響きを持つ声だった。 詩音は喉を詰まらせながらも頷いた。「え、ええ、聞こえました」 女性は楽器をそっと膝の上に置き、愛おしむように撫でた。「よかった。聞こえない人もいるから」 「聞こえない人もいる? いったい、その楽器は何なんですか?」 「これはね、ケイコウっていうのよ、知ってる?」 「知らない」 「昔、中国の山奥にいたラァっていう動物の、前足の骨から作った楽器なの」 「ラァ?」 「ラァはね、ギリシア神話に出てくるグリフォンに似た動物で、背中に翼が生えていて空を飛べたのよ」 「信じられない。お姉さんは見た事あるの?」 「ないわ。ラァは何百年も前に絶滅してしまったから。人間が狩り尽くしたの」悲しそうな声で言った。 「でもラァから作ったこのケイコウは残っているわ。この楽器はね、迷っている人の魂に安らぎを与えてくれるのよ」 「迷っている人の、魂?」 詩音は訝しい顔で女性の顔を見た。突然、魂なんて事を言い出すなんて…。女性は悲しそうに微笑んだ。まるで永遠に続く定めを受け入れるように。「自分が死んでしまった事に気がつかない魂を、優しく包んで送ってくれるの」 女性は目を瞑り、再びケイコウを吹き始める。指が繊細に動くと、心の奥底の鎖を解くような音色が公園に響き渡る。詩音も目を閉じて聞き入っているが、音色は遠い日の子守歌のよう...

【1000文字小説】コンビニでの再会はバッドエンドへの第一歩

 ザーッと降り出した雨に思わず駆け込んだのは、駅前のセブンイレブンだった。アスファルトを叩く土砂降りの音が、ガラス戸の向こうから容赦なく響いてくる。僕はびしょ濡れになるのを免れたことに安堵しながら店内を見渡すと、その視界の端に見覚えのある横顔が映り込んだ。 レジの列に並ぶ彼女は、長い髪をポニーテールにまとめスマホを眺めている。スラリとした首筋、昔と変わらない華奢な肩のライン。見間違えるはずがない。昔、あんなにも好きだった人。彼女は僕が入ってきたことには気づいていないようだ。 僕はビニール傘だけを手に取って、彼女から一番遠い雑誌コーナーから彼女を伺う。彼女が会計を済ませ、店を出ていくその背中を僕はじっと見送った。 会計を終えビニール傘を差して外に出る。弱まった雨足の中を歩き出そうとしたその時だった。 「パンッ!」 乾いたクラクションが背後で鳴り響く。振り返ると、店の前に停まった黒いN-boxから彼女が顔を出していた。視線が絡み合う。一瞬、時間が巻き戻ったかのような錯覚。 「久しぶり。雨、大丈夫?」 数年ぶりに聞く、あの頃と少しも変わらない温かさを秘めた彼女の声が、再び僕の心臓を締め付ける。ふと顔を見ると、昔と変わらない大きな瞳は濡れた睫毛に縁どられて一層輝いて見えた。 その瞬間、頭の中に響く声があった。誰の声かは分からない。けれど、確かに聞こえた。「こっちを選べよ。そっちはバッドエンドだ」と。こっちとそっちって、どっちがどっちだよと思いながら、まるで誰かが僕の選択肢を提示し、どちらかの道を進むように指示しているかのようだ。僕は自分の意思で動いているのではなく、誰かに操られているゲームの登場人物のようだ。この世はバーチャルリアリティのゲームで、僕らはその登場人物に過ぎないとはよく聞く話だが、今の僕はまさにそれを実感している。 ほんの一瞬の逡巡の後、僕は彼女のもとへと歩き出した。雨は、再び強く降り始める。差した傘を閉じ、N-boxの助手席に乗り込んだ。 「どこか行こうか」 彼女の言葉に、僕はただ頷いた。この選択がバッドエンドへと続く道なのだろうか。それでも僕は彼女の笑顔を選んでしまった。この再会は、決してハッピーエンドにはならない。晩秋のまだ色づききっていない街路樹を眺めながら、僕はそう思う。それは心の奥底に静かに沈んでいく予感めいたものだったが、それもまた何かに...

【1000文字小説】コーヒーを植えた頃

 真希がキッチンの隅に置かれた植木鉢に水をやっていると、緑の葉の陰に小さな実を見つけた。実の色が葉と同じ緑色だったので、見落としていたのだ。十年前にダイソーで買ったコーヒーの木だが、いつの間にか真希が見上げる高さになっていた。 十年前の真希はまだ独身で、古い木造アパートに住んでいた。一人暮らしを始めてからずっと住んでいた狭い部屋だが、それでも小さな部屋には自分の居場所があると思えた。休日は、朝から海外の古典ミステリーを読んだり、コーヒーを淹れたりして静かに過ごした。真鍮製のアンティークのコーヒーミルは安アパートのテーブルには場違いなほど重厚で、ゆっくりと豆を挽く時間はそんな静かな日々の小さな彩りだった。 コーヒーの実を見つけた真希は、そんな十年前の日々を思い出した。「実がなったら、焙煎してコーヒーを淹れて飲もうね」コーヒーが嫌いだった彼に好きになってもらおうと買った木だった。彼と一緒にコーヒーの木が大きくなっていく姿も見たかった。結局、彼はコーヒーを好きになることはなく、二人の関係は、次第にすれ違うようになった。真希が結婚を口にしても、彼は言葉を濁すばかり。真希が休日にアンティークのミルで豆を挽き、丁寧にコーヒーを淹れる姿を、彼は「そんな無駄な時間と金があるなら、もっと将来に役立つことを考えろ」と笑った。そんな価値観のずれが積み重なり、二人は別れ関係は終わった。 今は、もうすぐ四十歳。結婚して、三つの部屋がある新しいアパートに住んでいる。あの頃よりずっと広いのだが、なんだか息苦しさを感じることがある。広い部屋のどこにも、自分だけの時間や空間がないように思えた。夫は、コーヒーが好きでも嫌いでもなく、ただの飲み物として時々飲む程度だ。最近は、転職したばかりの仕事に慣れず、帰宅すると、疲れた表情で黙ってテレビを見ていることが増えた。 コーヒーの木は、いつの間にか窓辺からキッチンの隅へと追いやられ、そこが定位置になっていた。水をやるのもただの義務だったが、無関心な日々にも関わらず実をつけた。 真希は十年前の自分の言葉を思い出し、かすかな寂しさを覚えたが、もう彼と一緒にコーヒーを飲むことはない。自分で焙煎して飲むことはできるだろうか。そんな考えが一瞬だけ真希の頭をよぎったが、すぐに消えた。面倒だ。今の自分にはそんな気力はない。緑色の実はただの過去の断片としてそこに存在...

【1000文字小説】職場で笑え

 「こんな間違いをするなんてねえ」 薄い髪をオールバックにした小心者そうな部長の席の前に、泣き出しそうな顔で鈴木さんがポツンと立っている。他の社員たちは各々パソコンの画面を見ているが、その耳だけは部長と鈴木さんのやり取りに傾けられていた。悠太もその他の社員の一員だ。 鈴木さんは、黒髪のボブカットがよく似合う、清楚な雰囲気の若い女性だった。地味だが清潔感のある服装をしている。大人しそうな鈴木さんは、部長にとって格好の標的なのだろう。これまでの悠太は何もできなかったが、今は「笑え」がある。一日一度しか使えない能力だが、今使わずにいつ使うのだ。 悠太は、自席から部長の姿を捉え、「笑え」を発動させた。部長は、鈴木さんに更に嫌味を言おうとした瞬間吹き出した。腹を抱え涙を流しながら笑い出す部長に、鈴木さんは呆然とする。その様子は滑稽で、鈴木さんは驚きながらも、その隙に自分の席に戻った。 「笑え」のきっかけは、2週間前、悠太が家の中で転んで頭を打った時だった。大したことはなかったが、母があまりにも心配するので、鬱陶しくなった悠太は無意識に心の中で強く願った。「笑ってくれよ、母さん」 その瞬間、母はおかしくてたまらないといった様子で笑い出した。笑えと思ったら笑ったかのようだ。だがその後試しに心の中で念じても母は一度も笑わなかった。 翌日、出勤中の電車内で、疲れた顔でスマホを見つめる女性が目に入った。心の中で強く「笑え」と念じてみると、女性は突然大笑いし始めた。おかしい記事でもあったのだろうか? いや、偶然にしてはタイミングが良すぎる。車中の注目を一身に浴びて可哀想に思えたので、隣に座っていた男性も笑わそうとしたが、こちらには何も変化がない。数日、様々な相手で試してみて分かったのは、どうやら笑わせることができるのは一日一回一人だけらしいという事だ。 何度か呼び出され叱責される鈴木さん。仕事ができないわけではない。部長が虐めたいだけなのだ。その度に悠太は陰から「笑え」を発動させた。最初は困惑していた部長も、やがて異変に気付き始める。叱責しようとするたびに、意味もなく笑いがこみ上げてくる。それが何度か繰り返すうち、部長は鈴木さんと向かい合うこと自体に恐怖を覚えるようになり、鈴木さんを怒るのをやめた。社内であまり好かれていなかった部長だが、「笑え」の影響があるのかよく笑うようになり...

【1000文字小説】欠勤した日の秋の雨

 朝から降り続く雨が、二十五階の窓の外に白い膜を張っていた。 天気予報では「一日中、弱い雨が降ったり止んだり」と告げていたが、ずっと途切れることなく降り続いている。 ぼんやりと霞む視界の向こうに、都市の輪郭が滲んでいる。 美咲がこのマンションに住み始めたのは、十五年付き合った恋人と別れたことがきっかけだ。 二人で選んだ部屋を出て、思い切って契約した高層階。親の援助がなければ到底無理だったろう。 新しい生活への期待と、一人で全てを背負うことへの不安が入り混じっていたが、今はもうすっかりここの生活に馴染んでいる。終の住処になるのだろうか。 いつもは出勤している時間だが、風邪で欠勤の連絡を会社に入れた。昨日の晩から何となく調子が悪い。風邪かなと思い寝れば治ると早めに布団に入ったが、あんまり変わりがない。熱は微熱程度だが、出勤して誰かに風邪をうつしてしまったら何を言われるかわからない。 雨の日はいつも頭が少し重く、身体が鉛のように沈み込んでいくのを感じる。こういう日には無理に元気を出そうとせず、ただ静かに雨音を聞いていよう。 カップに温かい紅茶を淹れ、窓際のソファに腰を下ろす。 指先にじんわりと伝わるマグカップの温かさが、冷えた心に少しだけ沁み渡るようだった。 秋の雨は「秋霖」とも呼ばれるらしい。以前、テレビの教養番組で知った言葉だ。 夏の名残を洗い流し、一気に季節を進ませる雨。 窓ガラスを滑り落ちる雫が、一筋の線を描いては消えていく。 眼下の街は、雨の中でも休むことなく営みを続けている。 律儀に信号に従う車が行き交い、傘をさした人々が忙しそうに歩いている。傘の色は、黒や紺、グレーといった無彩色のものがほとんどだが、時折鮮やかな赤や黄色が混ざる。 景色を見ているうちに美咲は、自分だけがぽつんと取り残されているような感覚を覚えた。それは子供の頃、風邪で学校を休んで寝ていた午前中、みんな今頃授業を受けてるんだろうなと思ったように、いつもの日常から自分だけが切り離されたような感覚だった。 夕方になり、雨脚が少し弱まってきた。 街の明かりがぽつり、ぽつりと灯り始め、水面に反射している。 やがて空は深い藍色に染まり、夜の帳が降りてきた。 部屋の電気をつけず、キャンドルに火を灯す。百貨店の雑貨フロアで買った、手のひらサイズの丸いピラーキャンドルだ。揺らめく炎の光が、部屋全体を優...