投稿

6月, 2013の投稿を表示しています

【1000文字小説】魔女が種を播く

イメージ
市人が暮れなずんできた公園を歩いていると、花壇の中に人がいるのに気がついた。クラスメイトの朔美だった。 朔美は先週の月曜日に転校してきた生徒だった。 朔美はスコップで地面を掘っていた。それから掘った穴に、小さなバックから何かを取り出しては播いていた。 土をかけた後、朔美はきょろきょろ周囲を見渡した。自分を見ていた市人に気がつくとギョッとした顔をした。 朔美は市人を睨みつけ、「ちょっとこっちに来て」と命令した。有無を言わさない声だった。 「あなた、どこかで見た事あるわね」 「クラスメイト」 朔美はバッグから黒い粒を取り出した。 「手を出して」 市人はおずおずと右手を差し出した。朔美は一粒を市人の掌に落とした。砲丸を小さくしたような丸い粒だった。 「これを播いてたのよ。一粒あげるから、種を播いていた事は秘密にしておいて」 「どうして」 「どうしても」朔美は苛立たしげな口調で言った。「誰かに言うと、恐ろしい事が起こるわよ。あたし、魔女だから」 「ま、魔女?」 「ほんとよ。この事を誰かに言えば、恐ろしい事が起こるわよ」 そのとき猫の鳴き声が聞こえてきた。 市人は声の方向に目を凝らした。 一匹の黒猫がいた。 まだ猫の目が光るような時間ではないと思っていたが、薄明がやってきた中、黒猫の目が妖しく光っていた。 朔美も猫を見ていた。猫の目を見ながら今度はつぶやくように言った。 「あたしは魔女なのよ…」 確かに黒猫は魔女の使いだったと市人は思い出した。 「誰にも言っちゃ駄目よ」最後に念を押し朔美は歩き去った。 夕方は急速に夜に変わっていった。その夜の闇に吸い込まれてしまったように黒猫の姿も見えなくなった。 翌朝市人は起きてから種を見てみると二つになっていた。同じ大きさのものがもうひとつ出来ていたのだった。 市人は学校に行くと朔美を探した。 朔美はいつも一人でつまらなそうに席に座っているのだが、まだ登校してきていなかった。始業のベルが鳴っても来なかった。 休みかなと思っていると担任から、「朔美さんは家庭の都合で転校しました」と言われた。別れの挨拶も何もなかった。 市人は学校帰りに、朔美が種を播いていた公園に行ってみた。 黒猫がいた。 朔美と一緒に見た黒猫かもしれな

【1000文字小説】テレビを買いに行く

イメージ
よく晴れた6月の日曜日、悟郎は電気屋に行った。液晶テレビを買う為だった。昔に比べれば随分と安くなったはずだった。出来るだけ安く買おうと心に決め店内に入った。 パナソニック、シャープ、ソニー、東芝。各メーカーのテレビが並んでいて、どれも奇麗な映像を映し出している。 悟郎は近くにいた店員にどれがいいのか聞いてみた。大学生くらいにしか見えない店員はこれなんかいいですよと55インチのテレビを勧めてきた。ぐるぐる回って扇風機にもなると言う。店員がリモコンを操作すると、なるほどテレビがくるくると回って風がやってきた。強中弱と切り替えられた。涼しい事は涼しいが、その間テレビの映像を見る事が出来ない。面白かったが次を頼んだ。 「これはどうでしょう」と勧めてきたのはまた55インチのテレビだった。こんどは扇風機にはならないが、トランプになると言う。なるほどリモコンにトランプと書かれたスイッチが付いている。「どうぞ」と言われたので悟郎が押してみると、画面にハートのエースが映し出された。 他のカードはないのかと悟郎が聞くと、これはハートのエースの機種だから、全部のカードを揃えるには52台が必要だと言う。じゃあ全部揃えるといくらかと悟郎が聞くと、520万円になると答える。ジョーカーはおまけしますと言ってきたが、とてもじゃないがそんなには払えない。そもそもトランプなど100円ショップで105円で買える。 「ではこれなんかはいかがですか」と店員が勧めてきたのはまた55型のテレビ。「これでドミノ倒しが出来ますよ」と言う。2台3台倒すだけではつまらないから一気に1,000台倒すと壮観ですよ。壮観はいいが倒れたらテレビは壊れてしまうのでは。そういう疑問を悟郎がぶつけると店員はまた買えばいいと言う。また買うって、1,000台もか。そもそもテレビでドミノをやる意味がわからない。 「じゃあこれどうでしょう」店員が勧めてきたのはまたも55型のテレビだが、今度は凧になると言う。ちょっとここでは揚げられませんが、50メートルぐらいは揚がると得意げに説明する。オプションで石川五右衛門もありますと言う。凧揚げは楽しいかもしれないが、それではテレビが見られない。 「これで決めて下さい」最後に店員が勧めてきたのは55インチ、ソニーのブラビア。まあ、普通の至極真っ当なテレビだった。悟郎は何と

【1000文字小説】自分とよく似た子を見かける

イメージ
朋樹は、町の中心部にある一番大きな本屋に入った。店内は日曜日ということもあり、大勢の人がいる。 マンガ雑誌のコーナーで立ち読みしていると、朋樹は自分と同じ服を着ている子を見つけた。 横顔を見た朋樹は、僕に似ているなと思った。 正面の顔も見てみようと朋樹は移動した。 似ているどころか、そっくりだった。 世界には自分とそっくりな人間が三人いると聞いたことがあるが、そのうちの一人が目の前に現れたかのようだった。 やや茶色がかった髪、丸い輪郭、目、鼻、口、体型までも、見れば見るほど似ていた。 だが、それらが同じでも、着ている服まで同じとはどういうことだろう。 いくらなんでもそっくりすぎる。 左目の下にあるほくろの位置までが同じ場所にあった。 こんな偶然があるだろうか。 鏡に映った自分を見ているようだった。目が合ったらどうしようと思いながらも目をやった。気づいていない様子だった。 その子が読んでいる本の表紙を見ると、朋樹が欲しかった本だった。同じような外見だと、興味や趣味もまた同じなのだろうか。 しばらくするとその少年は腕時計を見て、本を置いて店を出ていった。 朋樹もまた本屋を出て、そっくりな少年の後をつけていった。 他の町の子だろうか。今まで見かけたことはなかったし、狭い町のことだ。こんなに似ているのならば、朋樹にそっくりな子がいると、すぐ町の噂になるだろう。だが、そんな噂は一度も聞いたことがなかった。 最近引っ越してきたのだろうか。転校生で、明日から一緒のクラスになったら面白いな、と朋樹は考えた。友達も先生もみんな混乱するだろう。家に連れていって父と母と妹を驚かせるのも面白い。 少年は駅前の時計台の前で立ち止まった。町の人達の待ち合わせ場所として、よく利用されるところだった。今も何人もの人達が、やってくるであろう相手を待っている。 少年も誰かを待つのだろう。腕時計を見て、そして周囲を見渡した。 その目が朋樹とあった。朋樹はどきりとした。 が、少年には朋樹のことが、まるで見えていないかのようだった。 そのうちに、向かうから朋樹の父と母と妹がやってくるのが見えた。 あれ、三人揃ってどこへ行くのだろう?  出かけるって言ってたっけかな。 三人とも朋樹には気づかない様子だっ

【1000文字小説】誰かが

イメージ
俊平は午後十時に布団に潜り込んだ。明日の朝は四時過ぎには起きなければならない。仕事は五時から始まる。その為にはもう眠らなければならないのだった。 夜中の二時半を回った頃に俊平は目を覚ました。何者かがいる気配がする。布団の中で動かずに恐る恐る目だけを動かした。それから一気に半身を起こして電気をつけた。部屋に明かりが灯る。いつもの見慣れた部屋だった。四十インチの液晶テレビ、小型ステレオ、机の上のデスクトップパソコン、本棚、何の変わりも無い。 何者かがいた気配はもう感じられなかった。単なる夢だったのかもしれない。現実だと感じる夢を見ることがある。それだったのかもしれない。俊平は起きたついでに台所に行って冷蔵庫からビールを取り出した。一週間前に買ってきたビールはよく冷えていた。喉を鳴らして飲んだ。これから一時間半は眠れる。ビール一本ぐらい何ともないだろう。いつも眠る前まで三本は飲んでいるのだ。 ふと窓に目をやる。カーテンが少しだけ開いていた。眠る前にはきちんと閉めたはずだった。窓の向こうは駐車場になっていて、カーテンが開いていると部屋の中が丸見えになってしまうので、いつも意識して閉めていたのだった。それが開いていた。 俊平はカーテンに手をかけた。もう少し開けてみる。あっ、という驚きの声を上げた。手が震えていた。自分の手ではないようだった。窓に赤い文字で何かが書かれている。窓の外側から書かれたのではない。内側から書かれていた。内側から。俺が書かないとしたら、一体誰が書いたんだ? 『お早う』 赤い文字はそう書かれていた。赤い文字。それは口紅だった。口紅。女性が口につける化粧品。俊平は、エイズの世界へようこそ、というアメリカ生まれの都市伝説を思い出した。だがこの部屋に女性が来たことはない。 お早う、か。 最初に感じた恐怖はなぜかもう感じなかった。俊平は口紅を持っていないし、誰かがこの部屋に忍び込んでこの文字を書いたとしか考えられない。誰かが。もしかしたら、それは、人間ではないかもしれない。それでも恐怖を感じなかった。 お早う。 俊平は声に出して言ってみた。 ここに書かれていた文字は、殺してやる、でもなく、死ね、でもなく、お早う、だった。こんにちは、でもなく、さようなら、でもなく、お早う。俊平は全然眠くなかった。お早う。今日はいい日になりそうだった。さ

【1000文字小説】帰路のキック

イメージ
心の中でカチャーンと呟きながらマジックテープで貼り付ける。ホームセンターで買った重さ一キロのパワーアンクルだった。まずは左足、そして右足につけ終わると立ち上がってアパートを出て、自転車に乗り力強く漕ぎ出した。会社までの二十分間、ひたすらペダルを漕いだ。九月半ばの陽射しは緩やかだったが、会社に着く頃にはうっすらと汗ばんでいた。 午後六時過ぎ、仕事を終えて会社を出ると自転車に乗りまたアパートへ向かう。月・水・金曜日は通い始めてから一年になる、週に三回の空手教室があった。今日は木曜日、早く明日にならないかと待ちわびながら自転車を漕ぐ。 帰路の途中コンビニに寄った。十分ほど立ち読みをした後、唐揚弁当とブルーベリーヨーグルト、ビールを二本買って店を出た。騒がしい。駐車場の一角で若者達が一人のサラリーマンを怒鳴りつけていた。サラリーマンはいかにも気の弱そうな五十年配の男性で、時折小突かれてはただおろおろしているばかりだった。時折通る通行人はみな知らん顔を決め込んでいた。 彼は、ここぞとばかりに「まあまあ」と言いながらその中に割って入った。空手の成果を示す時は今だ。彼は一年前、やはり若者達にからまれ、殴られ蹴られ、幸い骨折などはなかったが、一ヶ月ばかり痛みが消えなかった。犯人は捕まっていない。それから空手を習い始め、復讐を誓ったのだった。 「何だ、お前」「引っ込んでろ」と若者達は口々に言う。こんなときの為に言う台詞も決めてあった。「かかってこい」 ドスを聞かせた声を練習していたのだが、いざ本番となると緊張して声が裏返った。それを聞いて若者達は素直にかかってきた。 かかってくる若者の膝にサイドキック。若者は呻き声を上げて崩れるはずだったが、足が重い。パワーアンクルをつけたままだった。「ちょっと待って」と言ったが「うるせえ」と一蹴された。若者の一人が放ったこぶしが彼の鼻っ柱にめり込んだ。「ブギャア」と練習にはない台詞を吐いて彼は顔を抑えた。鼻血が出た。 するとおろおろするばかりだった年配の男が「一人」と言いながら若者にいきなり目突きをくらわした。「うわぁ」すぐに金的を蹴り上げた。振り返り様一人にまた目突きと金的。「二人」と叫んだ。軽やかなステップで「三人」と言いながら腹に蹴り。倒れた顔を踏みつけた。「四人」と言ったときには残りの三人は逃げ去っていた。彼はただ呆然

【1000文字小説】朝のニュース

イメージ
秋由は運転席のドアをあけシートに滑り込むとエンジンをかけた。ギアをローに入れ駐車場から愛車を出した。会社の始業時間は九時。いつものように車を飛ばしていけば十五分前には会社の駐車場に車を止め十分前には机についていることができる。 秋由はラジオのスイッチを入れた。会社までの三十分間、彼はいつもラジオでニュースを聞きながら運転していた。 聞き慣れた男性アナウンサーがニュースを読み上げていた。「では次のニュース…」ニュースは彼の住んでいる町の名を告げた。 何事だ? 注意して聞いていると、聞き慣れた名前を喋っていた。それは彼の会社の上司だった。早坂という上司が、妻を殺したと言っている。逮捕されたと言っている。 秋由は信じられなかった。 早坂は昨日も普段と変わらずテキパキと仕事をこなし、部下に指示し、注意もし、そして定時に帰って行った。 以前に何度か早坂の家を訪問した事がある。その時に早坂の妻を初めて見たが、大人しくて気が利いて美人でスタイルもよく、早坂にはもったいないなあと思ったものだった。 その妻が殺された。それも夫の手によって。 警察で詳しい動機を調べています、とアナウンサーは言った後次のニュースへと移っていった。 一体どうして殺したりしたのだろう。早坂にはもう会えないだろうか。部下の面倒見もよく、このまま順調に行けば会社で大分上の地位までいけるはずだった。聡明な彼が、何故殺人などを…。 赤信号で止まった秋由は、対向車を見て目を疑った。それは早坂の車だった。運転席には早坂が乗っている。逮捕されたのではなかったのか。そして助手席には、早坂の妻が乗っているではないか。夫の手で殺されたのではなかったのか。 信号が青に変わった。早坂の車は秋由の車の脇を通り過ぎて行った。秋由は呆然としていた。後ろの車からのクラクションで秋由は車を出した。 今の車には確かに早坂と妻が乗っていた。見間違えではない。今ニュースで言っていたのは同姓同名の人間なのだろうか。どうも腑に落ちない。 今のが早坂だったとして、いや確かに早坂だった。それならば会社に行くはずではないか。早坂は反対方向へ走り去って行った。どういうことだ? ニュースは昨日のプロ野球の結果を言っている。巨人が負けて阪神が勝った。そんなことはどうでもいい。早坂は妻を殺したのか

【1000文字小説】旅立ち

イメージ
和弘は出て行く決心をした。 美都子が帰って来る九時過ぎまで三時間ばかり間があった。その間に荷物をまとめて出て行こう。そう決心した。 外は朝からの雨が降り続いていた。明日まで止みそうにもない。 いつも事を決めてもだらだらして中々実行に移さない和弘だったが今日は違っていて、非常にテキパキと下着や洋服や本やCDや歯ブラシやタオルやシェーバーを、美都子のところに来た時と同じバッグに詰め込んだのだった。 黙って出て行くのはどうか、と思ったが帰ってくるのを待ってじゃあと言ってもはいさようならと美都子が言うはずがなかった。どうしてよと言って激怒するか、泣き叫ぶか、包丁を取り出して和弘に切りかかって来るか。 置き手紙を書こうか。手紙を置いていくだけなら手間もかからない。文章を書くのは苦手で学校を出てからは住所と名前以外の事柄はほとんど書いた事はなかったが、さよなら、とだけ書いていけばいいのではないか。それですべてわかるだろう。いいや、荷物がなくなっていれば出ていったと分かるはずだ。わざわざ手紙などいらないだろう。 タンスの中に美都子のへそくりがあったはずだった。見られている事に気がつかなかった美都子が嬉しそうな顔でタンスに一万円札を数えながら入れていたのを見た事がある。 和弘はタンスをそっと開けた。下着の奥に隠れて封筒が五つあった。一つ出してみて中の一万円札を数えたらちょうど百枚あった。それが五袋。同じところに隠すなんて無用心な奴だ。もっと他にもないか探したが見つからなかった。まあ、これだけあればいいかと和弘は行きがけの駄賃を決め込んだ。 和弘は荷物を持って部屋を出た。ドアの鍵を閉めた。鍵は郵便受けから中に入れた。入れたときに、傘を持って来ればよかったと思ったがもう遅かった。ドアノブに手をかけてガチャガチャするが開かなかった。 まあいいか。濡れて行こう。 和弘はマンションを出た。雨が和弘を濡らした。急ぎ足で地下鉄の駅に向かった。五分程度で着くからそれほど酷くは濡れないだろう。 靴の紐がほどけていた。気づかずに踏んで転んだ。新しいスタートなのになんて事だ。紐を結び直す。雨に濡れながら紐を結んでいると腹が立った。 くそ。なんて事だ。ちくしょう。新しいスタートなのに、新しいスタートなのに…。 雨が止んだ。いや、止んだのではない。

【1000文字小説】父の姿

一郎は学校へ行かなかった。いじめられているとか先生が嫌いだとか授業についていけないとか、そういった理由がある訳ではなかった。ただ何となく、学校へ行く気がなくなったのだった。 一郎は地下鉄に乗り森林公園のある駅で降りた。森林公園に行くと周回コースをのんびり歩いた。四十分ほどかけて一周するとうっすら汗をかいた。ベンチに座った。少し離れた先を歩いているスーツ姿の男がいた。見ればそれは一郎の父だった。会社に行ったはずなのに何でこんな所を歩いているんだろう。リストラされたのだろうか。幸い一郎には気付かずに歩いて行った。 こんな所にいればいずれ父に見つかってしまう。一郎は地下鉄に乗って市の中心部にある本屋へと向かった。九時に開店なのでもう開いているはずだった。一郎は雑誌コーナーを見たりパソコン関連の売り場を見た後マンガ売り場で立ち読みすることにした。この本屋ではマンガ本にビニールがかけられておらず立ち読みができるのだった。 そこには父がいた。熱心にドラえもんを読んでいた。子供の頃ファンだったと言っていた事があるから子供の頃を思い出しながら読んでいるのかもしれなかった。 公園からいつの間に本屋へ来たのだろうか。とにかくここにいれば見つかってしまうかもしれない。一郎は本屋を後にした。やはりリストラされてしまったのか。会社に行かないで立ち読みしているなんて。 一郎は友人達と時折行くゲームセンターに入ろうと思ったが、今日は学生服を着ているので店員から注意されるかもしれないと躊躇した。意を決して入ろうとしたとき、入り口付近にあるモグラ叩きを熱心にしている男が父であると気が付いた。さっきまでドラえもんを読んでいたのに、いつの間に移動したのだろう。とにかくその場を離れた。 昼も近くなり、一郎は駅前のハンバーガーショップに入った。チーズバーガーセットを頼んで空いている席に腰掛けた。もしやと思い、父がいないか注意深く周囲を見渡すと、やはりいた。一番奥の席でチーズバーガーセットを食べていた。父にはテレポーテーションの能力があるのか。 そそくさと食べ終えた一郎は急いで店を出た。そしてそのまま家に帰った。家に帰ると学校から連絡があったらしく「どこに行ってたの!」と母からひどく怒られた。 一郎は怒られながら、恐る恐る聞いてみた。 「父さんは?」 「え? 会社でしょ?」何

【1000文字小説】ネコがいない

イメージ
「お願い、お願い、お願い」と久美に頼まれて仕方がなく雅樹は久美の飼い猫を預かった。 雅樹の二つ下の妹の久美は一週間アメリカへ旅行に行く事になったのだが、その間飼っている猫の世話を雅樹に頼んだのだった。 ペットショップにでも預ければいいと雅樹は言ったのだが、猫が喋れない事をいいことに意地の悪い店員にいじめられるかもしれない、と見知らぬ他人に預けるよりは多少頼りはなくても血の繋がった親族の方がまだ信用できると、半ば強引に雅樹に預けたのだった。 雅樹の住んでいるマンションはペットの飼育がOKだが、猫はにゃあにゃあにゃあとうるさく鳴く事もせず大人しくしているので手がかからなかった。 会社から帰ってマンションのドアを開けると猫が出迎えるようになった。日中はかまってくれる相手がいないので寂しいのかドアの開く音を聞き付け「遅かったじゃない」という顔をして雅樹を見るのだった。 無事六日間が過ぎ明日はいよいよ久美が帰って来るという日に、会社から帰って来た雅樹が「ただいま」とドアを開けた隙間から猫は飛び出して行った。 「あっ、こら」と言ったが猫は止まらずどこかへ駈けて行ってしまった。雅樹は慌てて猫の名を呼びながら探し回ったが見つからない。あちこち探して三時間、その日の探索は打ち切って明日の朝にまた探そう、そのうちに帰って来るかもしれないと思ってマンションに帰った。 ドアは猫がいつ帰って来ても入って来れるように少しだけ開けておいた。不用心だが仕方がなかった。 翌朝、猫が心配で心配で雅樹はいつも起きる時間より三時間早く目が覚めた。夜のうちに帰って来ていないかと思い猫の名を呼ぶが帰って来ている気配はなかった。 雅樹は外へ出て探し始めた。この辺の地理には疎いだろうから、迷子になってしまったのだろうか。車にでも轢かれてはいないだろうか。知らない人間に連れて行かれてしまったのだろうか…。 久美のマンションへ帰ったのだろうか、と思い会社を休み車で三十分のマンションへ行ってみたがいなかった。 一体どこへ消えたのだろう。 猫が行方不明になったのを知ったら久美は怒るだろうか、悲しむだろうか。 夕方になると久美が帰って来た。真っ先に「猫は?」と聞かれ「うん、それが…」と雅樹が口ごもっていると猫の鳴き声がする。 「あら、どこ」 「どこだ」

【1000文字小説】カラス

イメージ
カラスの鳴き声が聞こえた。茶の間に座ってお茶を飲みながらテレビのワイドショーを見ていた広江は視線を窓の外に移した。向かいの家の二階の青いトタン屋根の上にカラスが一匹止まっていた。 嫌だわ、と広江は心の中で呟いた。カラスが鳴いた家には死人が出ると広江は思っていたからだった。不吉な感じがする。これまで何度屋根に止まったカラスが鳴いたことを聞いただろう。どの家でも死人が出たことはなかった。それでも不吉な感じは消えない。カラスにとってはいい迷惑か。 あの家の屋根に行って鳴けばいいのに、と広江は隣の家の主婦光子と光子の一人娘紀子ちゃんの顔を思い浮かべた。紀子ちゃんはこっちが「おはよう」とか「こんにちは」とか声をかけても聞こえないふりをしたり「ああ」とか「うん」とかまともな挨拶も返せなかった。それは親の教育が悪いのだ。その紀子ちゃんの弾くピアノがうるさい。広江はピアノが好きだった。自分で弾くのではなく、近所のレンタルショップや図書館からCDを借りてきてはCDラジカセで聞いていた。音は悪いけれども気にならなかった。ドビュッシーがお気に入りだった。好きなピアノが下手な演奏をされると腹が立った。そうじゃないわ。また間違えた。下手くそ。もう! ピアノの音がうるさいと何度か注意したが、逆にお宅の猫がいつもうちの庭に来てマタタビの木をかじると注意された。猫は仕方ないじゃない、そういう生き物なのだから。紐で縛っているわけじゃないし、自由な生き物なんだから。だが人間は違う。ピアノは止めようと思えば止められるのだから、人が迷惑だと言えば止めればいいじゃない。そう考えて広江は憤慨した。考えると血圧の高い広江の血圧は更に上がった。死んだら隣の親子のせいだ。 何度も言い争いになったが解決されなかった。ピアノは聞こえてくるし猫は歩き回る。あんな下手な子はいくら練習したってだめなのよ。親がああだから子も大したことはないわ。早く見切りをつければいいのに。 カラスよ、隣の家に行って鳴け。そう思ってカラスを見ていたら飛び立って、広江の家の屋根に来てカアカアと鳴き始めた。何よ、うちじゃないわ、隣よ、隣。広江は憤慨した。うちでは死人なんかでないわ。 カラスの声に憤る広江の耳に、隣の家からのピアノの音も聞こえている。光子の一人娘紀子ちゃんが弾くバイエル。カラスの鳴き声とのアンサンブル。上がる広江

【1000文字小説】空に浮かんだ理由

イメージ
どこからか忍び込んでくる冷たい風に頬を撫でられて、多香子は目を覚ました。 生後六ヶ月になる息子の翔太を寝かしつけているうちに、いつの間にか自分も眠ってしまったらしい。 多香子は隣で眠っているはずの翔太に目を向けた。すると、思い切り息をのんで目を凝らした。 いない! 翔太がいないのだ。 慌てて掛け蒲団をめくってみるが、いない。 多香子は半分泣き顔になって3LDKのマンション内を探したが、どこにも翔太の姿は見えなかった。 リビングルームのガラス戸が少しだけ開いており、外からの冷たい風が入ってきた。誰かが開けたのに違いなかった。ベランダに出て左右を見渡したが、翔太の姿はなかった。 もしかしてここから…? 多香子は恐ろしくてベランダから下を見る事はできなかった。三十階建てマンションの最上階であるこの場所から落ちたとしたら、まず助からない…。 多香子は下界を見下ろす代わりにふと空を見上げた。 母として何か引かれるものがあったのかもしれない。 最初、それは親指ほどの大きさに見えた。宙に浮くもの、よく目を凝らして見れば、それこそが捜し求めている息子に違いなかった。 そんな事はありえない、という否定と恐怖の混在した表情を浮かべ、混乱した頭は、翔太という名前だからだろうか、などとばかげた事を考えた。 翔太の方でも多香子の視線を感じたのだろうか。ゆっくりと下りてきた。そしてベランダで見つめる多香子の、宙へ伸ばした両腕の中へとふわりと収まった。 「し、翔太」 多香子は、翔太をもう二度と自分の手から離したりしないと決意したように、ぎゅっと力強く抱きしめた。 「翔太、どうやって空なんかに…?」 返答を期待して発した言葉ではなかったのだが、その疑問に答えるように、翔太が声を発した。 「いまのうちに…」 「え?」 「みて、おきたかったの」 「翔太、今しゃべったの、翔太なの?」 答える代わりに翔太は目を閉じ、ぐったりと疲れたように深い眠りについた。多香子が声を何度かけてもいくら強く体を揺すっても起きなかった。 翔太がしゃべったのだろうか。 疑問ではあったが、人が空を飛ぶ事に比べれば、生後六ヶ月の赤ん坊がしゃべる事の方がまだ信じる事ができた。 そしていま翔太がしゃべった内容を繰り返した。