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1月, 2018の投稿を表示しています

【1000文字小説】孤独な予約

 会社を出ると、駅前の騒音が耳に飛び込んできた。酔ったサラリーマンの笑い声、工事のドリル音、誰かの電話越しの怒鳴り声。そのすべてが胸に重くのしかかる。三年付き合った恋人は、職場の後輩と付き合い始め、あっさりと去った。いまだに廊下でその後輩を見かけると、胃のあたりがひやりと痛む。 信号待ちの人混みの中、紗良だけ時間が止まったようだった。ふと横を見ると、女子高生が泣きながら友達に慰められていた。羨ましい、と一瞬思う。泣く相手がいることが。 アパートに戻る途中、コンビニのガラスへ映った自分の姿にぎょっとした。思った以上に疲れた顔をしている。コーヒーを買おうとしたが、レジ横の揚げ物の油の匂いが胸につかえて、そのまま店を出た。 部屋は相変わらず散らかっていた。出しっぱなしの請求書、しなびた野菜、床に落ちた髪。片付けようと手を伸ばしても、すぐに力が抜けた。 テーブルに置かれた段ボールを開けると、母が送ってきた古いイタリアの写真集。「気分転換にどこか行ったら」というメモ。なんでみんな、簡単に“行けば変わる”なんて言えるんだろう。そんな気持ちがふつふつと湧いた。 テレビをつけると、地中海の旅番組が始まった。明るい海辺の映像。観光客たちの笑う声。その背後でキッチンの換気扇が重く唸り、紗良の部屋の暗さを際立たせる。 「あんなとこ、私が行って何になるの」 呟いてリモコンを投げるように置いたが、目はなぜか画面に戻った。 気づくと、パソコンで「イタリア 一人旅」と検索していた。ローマ行き航空券、往復十万円。画面の青いボタンが、妙に強く光って見えた。 買う理由もないけど、買わない理由にも疲れていた。 窓の外で雪が舞い、時折、通りを走る車のヘッドライトが壁に揺れる。その光がぼんやりと部屋を照らすたび、心臓の鼓動が不規則になった。 マウスを握る手が汗ばむ。カーソルを「予約する」の上に置くと、手が震えて動かなくなった。 押したら変わらなくてはいけない気がして怖い。 押さなかったら、このまま腐っていく気がしてもっと怖い。 呼吸が浅くなる。喉がつまる。目の奥が熱くなる。 「……あーもう」 声にならない声が漏れた瞬間、紗良は勢いでマウスを押した。 クリック音が部屋にやけに大きく響いた。 「予約完了」と表示される。心のどこかが少しだけ波打ったが、すぐに静かになった。 期待は、やっぱりなかった。 ただ...

【1000文字小説】古い街角の欠片

 一月下旬、仕事が思いのほか早く片づいた。連日の会議と報告書に追われ、肩は凝り、頭の奥はぼんやりと霞んでいる。メールを送信し終えると、胸の奥にぽっかり隙間ができた。せっかくだ、少し歩いてみよう――小学二年まで暮らした町を。 十数年分の記憶の埃を払うように、駅前のロータリーへ出た。冷たい風がスーツの隙間に入り込む。昔はもっと賑やかだった気がするのに、目の前の商店街は妙に縮んで見えた。子どもの頃、母と手をつなぎ歩いた商店街は、記憶の中ほど広くはなかった。惣菜屋の赤いテントは褪せ、看板は剥がれかけている。コロッケを二つ買って帰ると必ず一つは潰してしまう癖――あのどうでもいい記憶がふいに蘇った。あの頃と今とでは、自分の背丈だけでなく、世界の重みも変わった気がする。 いわゆるシャッター街で半分以上が営業していない。そんな中よく続いているなと感心した店がある。ガラスが斜めに張られた古い写真館。店先の金属フレームは錆びていたが、あの頃と同じ。七五三の写真を撮ったとき、緊張してまぶたが震えて仕方なかった。母が「大丈夫よ」と肩を叩いた感触が、身体の奥で鮮やかに蘇る。 路地へと入る。自分が住んでいた借家のあった場所へ向かう足取りは、なぜか少し早くなる。あの家には冬になると石油ストーブの匂いが染みついていた。朝、ストーブの前で靴下を温めていたら焦がしてしまい、父に笑われた――そんな断片だけが鮮やかだ。 だが、角を曲がった先には見知らぬ光景が広がっていた。新しいアパートと整った駐車場。家の影も形もない。立ち止まると、足元に小さなコンクリ片が転がっていた。もしかしたら昔の基礎の欠片かもしれない。手に取ってみようかと思ったが、結局やめた。記憶と現実を線でつなぐには、あまりにも小さすぎた。 小学校へ続く並木道は変わらず残っていた。枝だけの桜が冬空を切り分けるように伸びている。ここを歩いていたはずの同級生の顔は、ひとりとして浮かばない。サッカーが得意だったやつ、ランドセルにシールをたくさん貼っていた子……輪郭はかすむばかりで、もはや実在すら疑わしい。それでも当時の自分は、毎日この道を確かに歩いていたはずだ。 「もし会っても、お互い気づかないんだろうな」 つぶやくと白い息が広がった。その向こうにあるのは、変わってしまった町と、変わらずに忘れていく記憶。そして、ここにはもういないはずの幼い自分...

【1000文字小説】冷たい空気

 外は凍てつく寒さで、ビルの窓ガラスは結露に覆われ、街灯の光がぼんやりと揺れていた。正吾は残業で冷えた手をこすりながらコートの襟を立て、重い足取りでオフィスビルを出た。靴底に張り付く霜のざらつきが、歩くたびに足の裏を冷たく突く。息を吐くと白い霧が瞬時に消え、吸い込む空気は氷の粒を含むように刺さる。今年の三月には長年勤めた会社を退職する。 駅までの道すがら、コンビニやファストフード店のネオンが冷たく光り、通り過ぎる若者の笑い声やスマートフォンの光が遠く感じられた。正吾は肩をすぼめ、吐く息を手で押さえながら歩く。胸の奥にぽっかり穴が開いたような虚しさが広がり、背筋に重くのしかかる。街の活気は届かず、触れることのできない世界のようだ。 アパートの廊下は古く、蛍光灯がちらつき、冷たい影が床に長く伸びていた。自室のドアを開けると、空気は外よりも厚く重く、指先にじんと冷気が染み込む。暖房は切られ、窓際のカーテンは閉じられているが、微かに隙間風が入り、寒さが背中にまとわりつく。妻は数年前に亡くなり、子供たちは遠方に暮らしている。夕食の茶碗には僅かな温もりも残らず、部屋の空気は静かに重い。 ソファに沈み込むと、床に響く外の風に揺れる木の枝の軋む音が、孤独を語りかけてくるように聞こえる。深く息を吸い、吐くたびに冷気が胸の奥まで入り込む。指先をコーヒーカップに触れると陶器の冷たさが骨まで染み、唇に当たる残り湯のぬるさがさらに虚無感を際立たせる。目の端で時計の秒針が刻む音を拾うたび、時間の重さが肩にずしりとのしかかる。 テレビをつけるが、ニュースやバラエティの音声は耳をかすめるだけで、画面の中の人々の動きや笑顔も遠く、届かない。手を動かしても、コーヒーをかき混ぜるだけで、それ以上の変化はない。呼吸を整えても、胸の空洞は埋まらず、体温も心の温もりも戻らない。 窓の外に目をやると、街灯に照らされた雪の結晶が舞い、通り過ぎる人影にきらめく。しかしその光景は、温かさではなく、孤独をさらに際立たせるだけだ。凍てついた一月下旬の夜。秒針の音、冷気の刺さる感触、微かな壁の軋み、コーヒーカップの冷たさ——それらが正吾を取り巻き、暖かさも救いもない現実を際立たせる。時間は淡々と過ぎ、孤独だけが確かに存在する。 正吾はただ座り、呼吸を繰り返す。息が胸を上下するたび、虚無感が体の隅々まで染み渡り、外の...

【1000文字小説】当て所ない六日目

 新婚旅行六日目。 朝、沙耶はぼんやりと天井を見上げていた。窓の外から差し込む光が柔らかく、まだ眠る身体にそっと触れてくる。智也はすでに起きていて、静かな声で言った。 「今日は……市場、行ってみない?」 目的のない誘い。その曖昧さが、むしろ嬉しかった。 市場は生活の匂いで満ちていた。甘い果物の香り、乾いたスパイスの粉が風に舞う匂い、焼き菓子の香ばしい香り。ファーランド特有の“風鈴草”という青緑の花が屋台に吊るされ、風が鳴らす澄んだ音が通りを満たしている。 沙耶はその音に足を止め、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 ――忙しく生きてきた数年分の時間が、音と一緒にほどけていくみたい。 「これ、好き?」 智也が差し出したのは、水色の陶器。釉薬には“湖光の焼き”というこの国独特の技法が使われているらしく、光の角度で深い青が揺れて見える。 「蒼鏡湖みたいだね」 そう言うと、智也は少し照れたように微笑んだ。 「……こういうの選ぶとき、沙耶の顔が浮かぶんだよ」 胸の奥が一瞬だけ熱くなる。 ――ああ、こういう言葉を、私はいつの間にか求めなくなっていたんだ。 日常に慣れ、忙しさに飲まれ、“特別”を諦めかけていたのは自分だった。 ふたりは市場の端にあるベンチに腰を下ろした。屋台で買った果物を分け合いながら、沙耶は智也の横顔を盗み見る。優しい光の中で、彼は観光地で見たどの景色よりも穏やかだった。 「ねえ……」 言葉が喉で揺れ、沙耶は続けた。 「こういう時間、私すごく好き。観光より、ずっと」 智也は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。 「俺も。なんか……“ふたりの未来”が少し見える気がする」 夕方、ホテルのプールサイド。風鈴草の音が遠くから聞こえ、椰子の影が水面に揺れている。 沙耶はこの旅で初めて、「帰りたくない」ではなく、「ここで感じたものを持ち帰りたい」と思った。 空が桃色に染まる頃、智也がぽつりと言った。 「来年もさ、どこかで“何もしない日”つくろうな。今日みたいに、余白で心が満ちる日」 沙耶は本を閉じ、彼の肩にもたれた。 「うん……約束。私、こういう時間を大事にする」 その言葉は、旅のどんな景色より深く、静かに沙耶の心へ刻まれた。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】死ぬまでここに

 上田は七十歳。長年、住宅遍歴を重ねてきたが、アパートこそが自分にとっての理想だと思っている。 「結婚してた頃はマンションも住んだけどな……静かすぎて、逆に落ち着かんかった」 持ち家か賃貸か、結論の出ない論争があるが、上田は断然賃貸派だ。何かあれば引っ越せる身軽さがいい。何よりこの年で持ち家もあるまい。離婚後、平家に住んだこともあるが、どうにも落ち着かない。元々子供の頃から集合住宅住まいだったので、一軒家には馴染みがなかったのだ。 アパートの2Kの小さな部屋に鍵を差し込み、ガチャリと開けると、なんとも言えぬ懐かしい匂いがする。少し古い、木のような香りと、誰かがここを愛用してきた気配が混ざった匂いだ。壁は薄く、隣のテレビの音や、奥さんの笑い声がほんの少しだけ聞こえる。普通ならうるさいと思うところだが、上田はそれが心地よい。 「隣に誰が住んどるか、なんとなく分かるのもええんや」 マンションの分厚い壁の向こう側では、生活音は遮断され、孤独が増すばかりだった。ここでは、ドタドタと足音が聞こえ、夜中の冷蔵庫の音や、笑い声が壁を伝って届く。無理に距離を取る必要もなく、かといって干渉されることもない、この微妙な距離感が上田には合っている。 窓の外を「バサッ」と何かが落ちていった。気になってテラスに出てみると、濡れた薄いピンクのバスタオルが落ちている。どうやら二階の住人が干している最中に落としたらしい。 ほどなくして階段を降りてくる足音がし、二階の奥さんが顔を出した。 「あっ、すみません! ここに落ちませんでした?」 「これやろ? はい、落ちとったで」 手渡すと、奥さんはホッとしたように頭を下げる。 駐車場が目の前というのも大きな魅力だ。買い物帰りに荷物を抱えてそれほど歩く必要もなく、車を停めてサッと部屋に入れる。小さなことだが、この便利さは七十年生きてきた身体に優しい。 上田は、隣の窓の向こうを眺めながら、今日も一人ほくそ笑む。「やっぱりアパートはええな」 風に乗って、子どもたちの笑い声や、犬の吠える声が聞こえる。静かすぎる生活は味気ない。少し雑多で、少し騒がしい、この場所こそが上田の居場所なのだ。この景色が嫌になれば、引っ越せばいいだけだ。 「静けさより、ちょっとした喧噪やな。これが生活や」 上田はキッチンに腰を下ろし、湯を沸かす。外から聞こえる生活音と、駐車場に停まっ...

【1000文字小説】静かな夜ひとつの光

 金曜日の夜十一時過ぎ。オフィスには、私以外の誰もいない。キーボードを叩く音だけが、やけに大きく響く。月末の締め切りに追われ、今日の終電も諦めた。窓の外は真っ暗で、ビル群の輪郭だけがかすかに浮かぶ。みんな、もう週末を楽しんでいるのだろうか。 コーヒーカップに湯を注ぎ、静かに音を聞く。ふと窓の外を見ると、ほとんどのオフィスは消灯している中、最上階の一室だけがポツンと明かりを灯していた。 部署も業種も違う見知らぬ誰かの光が、孤独だった夜をそっと和らげる。手にしたコーヒーを握りしめ、窓辺でじっと見つめる。その部屋の中では、誰かが画面を見つめ、疲れた手でキーボードを叩いているのかもしれない。あるいは、世界の片隅で、ただ必死に生きる人かもしれない。 やがて最上階の明かりが消え、夜は静かに深まる。私は小さく息を吐き、心の中でつぶやく。「お疲れ様です」――見知らぬ誰かに向かって。 それ以来、残業で遅くなった夜は必ず向かいのビルを見上げる。明かりがある日も、消えている日もある。それでも、その小さな光は、夜の海に浮かぶ灯台のように、私の心をやさしく照らす。 街を歩きながら、私は静かに笑みを浮かべる。今日も、都会の片隅で、小さな物語がひっそりと生まれている――灯りと共に、誰かの孤独もまた、少しだけ和らぐのだ。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】冬の街灯

 仕事帰り、シンイチはアパートへ続く道を歩いていた。 一月下旬の空気は鋭く、吐く息が白くゆらぐ。街路樹の枝には霜が光り、落ち葉の残りが凍りついた歩道をかすかに軋ませた。街灯の黄色い光が、薄い氷膜の張った路面を淡く照らしている。 アパートの手前、小さな公園がある。そこでブランコに女性が座っていた。 肩までの黒髪が冬の風に揺れ、ロングコートの裾が静かに波打つ。彼女の腕には、古びたテディベアが抱えられていた。 シンイチは一度、歩調を緩めた。 ——大人がテディベアを抱いている。 一瞬、胸の奥でわずかな警戒が灯る。“もしかして地雷かもしれない”という、ごく自然な慎重さ。だが女性の動きは静かで、ただ耳を直しているだけだった。街灯の下、白い手袋を外した指先は落ち着いていて、奇妙さよりも、どこか切実さが勝って見えた。 シンイチは距離を取りつつ足を止め、少し迷ったあと声をかけた。 「こんばんは」 女性は驚いたように顔を上げた。だが、すぐに柔らかく会釈する。 「こんばんは。寒いですね」 「ええ……帰り道なんですけど、いつもより冷えますね」 シンイチは距離を詰めすぎないよう慎重に立ち位置を選ぶ。凍った歩道に置いた靴底から、きしむ音が静かに広がった。 彼の視線は自然とテディベアに向かう。 聞かないほうがいい話なのかもしれない。だが、彼女の手元の仕草は不安定ではなく、むしろ丁寧だった。 「その……テディベア、大事なものなんですね」 問いかけると、女性は胸元のベアを軽く抱きしめ、かすかに微笑んだ。 「はい。弟が小さい頃にくれたんです。もういないんですけど……家の整理をしていたら出てきて。持ってくるのも変ですよね」 そう言って、寒さに溶けるように苦笑した。 シンイチの胸の中で、先ほどの警戒が静かにほどける。 「変だとは……思いませんよ。大切なものなんですね」 言葉を選びながら答えると、女性は白い息をゆっくり吐いた。 「昔は、弟とこの公園でよく遊んでたんです」 その声は、凍った滑り台の階段を踏んだときに鳴る軋みよりも静かだった。 暗がりで揺れるブランコの鎖が、かすかにきしむ。 女性は立ち上がり、ベアを胸元に抱いたまま歩き出した。コートの裾が街灯の光を受けて揺れ、黒髪が風にほどける。 足元の凍った落ち葉が光を反射し、ブーツのかかとが控えめな音を夜に落とす。長く伸びた影が、滑り台の影と静かに重...

【1000文字小説】また課長の仕業

 薄曇りの朝、蛍光灯の光は冷たく白く、山崎の机だけをくぐもった影で包んでいた。胸の奥では、不安が小さな火種のように燻り続けている。今日が取引先への報告書提出期限だ。だが担当すると言ったのは課長だった──「これは私が進めておくから」あのとき課長は確かにそう言った。 午前十時すぎ、課長が硬い靴音を響かせながら近づいてきた。 「君、例の報告書はどうした?」 その声音には、すでに山崎を責める形が用意されていた。山崎はわずかに声を詰まらせながら答える。 「え? それは課長がやるとおっしゃってましたが…」 空気がきしむ。課長の眉が吊り上がり、薄い唇が横に引きつる。 「私はそんなことは言ってない。いったいどうする気だ。取引先は明朝の経営会議でこの資料を使う。今日中じゃなければ向こうが困るんだぞ」 言い捨てる声には、事実を塗り替えることへの罪悪感が一片もなかった。 課長が席へ戻ると、すぐ近くの島で小声が交わされた。 「……またかよ」「昨日も佐伯がやられたって言ってたな」 同僚の佐伯は、山崎と目が合うと気まずそうに視線をそらした。彼も以前、課長に「指示した覚えはない」と責任を押し付けられ、深夜まで残業していた。その記憶が佐伯の表情に影を落としていた。 山崎は喉の奥で何かが詰まり、呼吸が浅くなる。反論したい衝動が胸を押し上げた。「言いましたよね」と言い返せたらどれだけ楽か。しかし言葉にした瞬間、課長の怒声が飛び、さらに“問題児”の烙印を押される未来が脳裏に浮かぶ。ここでは、正しさより沈黙のほうが安全だ──いや、安全ですらない。ただ“まだまし”なだけだ。 「すぐ取り掛かります」と言おうとした頃には、課長はもう席に戻っていた。 「あぁ頼むよ。まったく、こういうのは自己管理の問題だろう」 吐き捨てるような言葉。隣の席の小田が、気の毒そうに山崎を見た。 「山崎さん……昨日、課長と話してたの、俺聞いてたんですけどね……」 言いかけて、小田は口を閉じた。 「すみません。巻き込まれたくないんで……」 その正直すぎる言葉が、かえって胸に刺さる。 山崎は席に戻り、震える指でキーボードに触れた。課長が放り出した作業を今日中に仕上げなければならない。胃の底に濁った黒い水が溜まり、体がゆっくり沈んでいくようだった。 窓の外の冬空は灰色で、雲が低く垂れ込めている。逃げ場はどこにもないように見えた。 それ...

【1000文字小説】融け残る青

 週末に降った雪は主要道路からはほとんど消えていたが、日陰のアスファルトや植え込みの影には、まだ固く凍った雪が残っていた。影の中に沈んだそれは、光の加減でほんのり青みを帯びて見えた。青白い塊を踏まないよう気をつけながら、僕はゆっくり歩く。冷たい風が頬をかすめ、吐く息が白く空気に溶けていった。 喫茶店「ラルゴ」に入り席につくと、窓の外のその青さが、静かな冷たさをそっと滲ませるようだった。店内には温かい空気とコーヒーの香りが漂い、かすかに流れるクラシック音楽が街の喧騒を遠くへ押しやる。木の椅子に腰を下ろした瞬間、背筋が少し緩んだ。 注文したブレンドコーヒーが運ばれてくる。湯気が立ちのぼり、指先をやさしく温める。窓の外では街路樹が風に揺れ、日陰の雪が淡く青みを返していた。 隣の席では、年配の女性が手帳に何か書き込んでいた。小さく息をついた音がして、次の瞬間、彼女のペンがカランと転がり、床に落ちた。反射的に僕は席を立ち、ペンを拾って渡す。「ありがとうございます」と、少し恥ずかしそうに笑う女性。その笑みにつられるように、僕の肩の力までふっと抜けていく。 自分の手帳を開くと、去年の今頃のページは予定でぎっしり埋まっていた。打ち合わせ、飲み会、締切……。何かに追われていなければ、自分は空っぽになってしまうように思っていた時期だ。 今年のページはまだほとんど空白で、その余白を見ると胸の奥に静かな余裕がゆっくり広がっていった。 カップに顔を近づけ、香りを吸い込む。指先の冷たさだけでなく、心の奥までじんわりと温まっていく。隣の女性がもう一度こちらを見て軽く会釈し、思わず僕も笑みを返した。ほんの些細な出来事が、今日という日の輪郭をくっきりさせていく。 ふと窓ガラスに映った自分と目が合った。以前より穏やかな表情になっていることに気づき、ゆっくり息を吐いた。コーヒーを口に含むと、苦味のあとに広がる深いコクが、今日という時間を確かに胸に沈めていく。 手帳に短く書き込む。「喫茶店でコーヒー。青い雪。ペンを拾った。」それだけの言葉でも、今日の証として十分だ。 外の雪はやがて消えるだろう。しかし、日陰に沈んだあの淡い青のように、今日の午後の記憶は僕の中でしばらく融け残る。香り、温かさ、窓の外の光、そして小さな笑顔──そんな色たちが、また世界をゆっくり満たしていく。一月下旬の静かな昼下がりだっ...

【1000文字小説】傘を捨てる

 終電間際のホームは、湿った空気と人いきれで腐った袋のようだった。誰もが自分のことで手いっぱいな顔をして、他人を押しのけることに何の罪悪感もない。こういう時間帯に働いている時点で、自分も同類なのだろう。そう思うだけで胸の奥がさらに重くなる。 会社では今日もやられた。ミスの責任を押し付けられ、上司には「お前は反省が足りない」と言い捨てられた。反省するのはそっちだろ、と喉まで出かかったが、飲み込むしかなかった。飲み込んだ言葉が胃の奥に沈殿して、ずっと気分が悪い。 地上に出ると土砂降りだった。天気予報の「降水確率10%」という呑気な数字が脳裏に浮かび、思わず笑いが漏れた。傘なし、濡れる覚悟もなし、疲れは限界。最低のコラボだ。 屋根の下に逃げ込んでタクシーアプリを開くと、「配車不可」の文字。周囲を見渡せば、どいつもこいつも無表情で傘を広げ、滴を他人に飛ばそうが気にしていない。街灯は濁った光を撒き散らし、道路は車の水しぶきで泥色に光る。世界全体が自分を雑に扱っているようだった。 屋根の下で肩を丸めていると、横から視線を感じた。 「よかったら、これ……」 ビニール傘を差し出す女性。濡れた前髪を耳にかけながら、こちらを少しだけ気まずそうに見ている。 「すごく濡れてたから……そのままだと風邪ひきますよ」 声はたしかに優しいのに、どこか落ち着きがない。スマホを握る指が細かく揺れている。誰かと連絡を取っていた途中か、あるいは何かを急いでいるのか。理由を聞く気にもなれず、傘を押し付けられるように受け取った。 持ち手には、水色のリボンが結ばれていた。妙に鮮やかで、夜の街に浮いて見えた。 女性は軽く会釈して走り去った。雨音に紛れていく足音を追いながら歩き出すと、背後で声がした。 「ちょっと、さっきの話……!」 振り返ると、女性が男に腕を掴まれていた。男はスーツ姿で、表情は怒気を帯びている。 「逃げるなよ。まだ話終わってないって言ってるだろ」 女性は静かに首を振った。「……もう無理なの」 その声だけが雨に溶けず、はっきりと届いた。 二人の距離は近いのに、温度はまるで感じられなかった。 傘を渡された理由が、ふと胸に落ちる。俺が濡れていたから、ではない。たぶん、ただ手放したかったのだ。何かの象徴みたいに。 見てはいけないものを見た気がして、顔をそらす。傘の骨が強風に煽られて軋む。リボンから...

【1000文字小説】続けた胸板

 五十を少し過ぎた佐藤は、毎週金曜日の夜、ジムへ向かうのが習慣になっていた。筋トレを始めた理由は、同僚の軽い誘いがきっかけだった。同じ部署の鈴木が、笑顔で「最近ジム通い始めたんですよ。体も鍛えられて、ストレスも減りますよ」と言ったのだ。正直、最初は半信半疑だった。だが、階段で息が上がる自分の体や、椅子に座るたびに感じる肩や背中のだるさを思い出すと、「やってみようか」と重い腰を上げた。 鈴木は熱心に通ったのはほんの数週間だった。最初のうちは張り切ってウェイトを上げていたが、ある日突然「やっぱり自分には合わない」と言い残し、ジムから姿を消した。それに比べて佐藤は、無理のないペースで淡々と続けた。週一回のジム通い、自宅での腕立てや腹筋。プロテインを飲み、タンパク質中心の食事に少しずつ切り替えていく。 一年経った今、胸板は厚くなり、シャツの前ボタンがわずかに張る。肩や腕の筋肉も力強くなり、椅子に座ると背中が自然に支えられる感覚がある。鏡の前で胸を張ると、その圧迫感さえも心地よく思えた。 ジムでは、ベンチプレスで胸の筋肉がぷくっと膨らむのを確認し、ダンベルを持ち上げるたびに腕や肩の線がくっきりと浮かぶ。ケーブルマシンで背中を引くと、肩甲骨の間の筋肉が力強く動き、汗が背中を伝って滴る。トレッドミルで軽く走れば、呼吸が整い、心拍のリズムに合わせて体全体が温まる感覚がある。 自宅でも筋トレは欠かさない。リビングのカーペットの上で腕立てを繰り返すと、胸の筋肉が床に近づくたびにぷくっと膨らみ、腕の力が手に伝わる。腹筋を上げ下げするたびに、腹筋の線が浮かび、腰の周りの贅肉が徐々に締まっていく感覚がある。夜の静かな部屋で、息を整えながら鏡に映る自分の体を見ると、汗に濡れた肌が筋肉の輪郭を際立たせる。 職場で鈴木が佐藤の胸板と肩幅に目を止め、思わず口を開く。 「逞しくなりましたね……俺も続けてればなあ」 鈴木の声には、軽い後悔と羨望が混じっていた。佐藤は苦笑いしつつも、胸の内で静かにうなずいた。続けてきた時間が、この胸板に宿っている。 外出時、シャツやジャケットのシルエットも変わった。肩幅が広く見え、胸板の厚さで服が少しパンパンになる。椅子に座ると胸や腕の筋肉が背もたれに押しつけられ、立ち上がるときには以前より軽やかに動ける。日常の些細な動作で筋肉の手応えを感じられることが、何よりの...

【1000文字小説】いつも一人の夜

 悠人は、デスクに置いた紙コップのコーヒーをそっと回した。もう冷たくなっている。同僚たちが週末のバーベキューの話で盛り上がる輪の端に、彼は溶けずに佇んでいた。「鈴元も来る?」とひとりが軽く声をかける。悠人が視線を上げると、相手はすでに答えを知っているような笑みを浮かべていた。 「その日はちょっと…」 口にした瞬間、会話の輪はあっけなく閉じた。デスクの灯りが反射するガラス越しに、淡いオフィスの蛍光色が揺れている。外の街灯と交差する光のラインに、今日も自分だけが時間をズラしているような錯覚が走った。 定時になるとPCを落とし、立ち上がろうとしたとき、総務の女性が小走りに近づいてきた。 「あの、今日みんなで軽く飲みに行くんですけど…良かったら」 声は控えめなのに、どこか迷いを含んでいた。 悠人は息を吸い、返事を探した。しかし喉がわずかに震えた。 「いや…今日は…」 言い終える前に、胸の奥がきゅっと縮む。 「そうですか、また声かけますね」 彼女は軽く会釈して離れていった。残された空気だけが、彼の肩に触れて消えていった。 外へ出ると、冬の風がビルの隙間をすり抜け、コートの裾を揺らした。街灯に照らされた濡れた舗道が銀色に光り、足音が静かに反射する。信号前で立ち止まると、先ほどの同僚たちが楽しげに肩を寄せ歩いていくのが見えた。冷えた空気に混じる彼らの笑い声は、遠くで波のように揺れながら届く。 その輪の中に、自分の姿をほんの一瞬だけ重ねてみる。 次の瞬間、思わず足先が後ろに引いた。 似合わない。 それでも胸の奥がわずかに熱を帯びる。否定できない温度だった。 駅前のベンチに座り、悠人はポケットからスマホを取り出した。 画面を点ける。 通知はゼロ。 メッセージアプリのアイコンも、SNSも、変化はない。 “友人・知人からの通知が一つもない静けさ”が、今夜は特に深く胸に落ちる。 風に乗って遠くから救急車のサイレンが響き、街路樹の葉が乾いた音を立てる。画面に映る自分の目が、思っていたより疲れて見えた。 しばらくして、悠人はゆっくり立ち上がった。 家へ向かう足は自然に前へ進む。しかし、数歩進んだところで、ふと振り返る。 駅前の光がわずかに揺れ、街のざわめきが遠くから寄せてくる。湿った空気にわずかに焦げた香りが混じる。 ――今日くらい、行ってもよかったのかもしれない。 胸の奥で、微かに灯...

【1000文字小説】眠りに目覚める

 終電のホームで視界が白く霞んだ夜のことを、真由子はいまでも鮮明に思い出す。冷たい風が頬をかすめるのに、身体の奥は逆に熱を帯び、脚が自分のものではないようだった。スマホには未送信の仕事のメモ。あのとき「あと一歩倒れたら本当に終わる」と思い、以来ずっと胸の奥に小さな影が残っている。 時計が夜八時を指すと、その影をそっと撫でるように、真由子の夜が始まる。天井灯を落とし、琥珀色の間接照明をつける。光が壁に柔らかい曲線を描き、部屋をやさしく包む。ラベンダーとサンダルウッドの香りが混じり合い、ゆっくりと吸い込むたびに胸の奥のざらつきが滑らかになっていく。 仕事帰りのカバンから、小さく折り畳んだメモ帳を取り出す。そこには親友の麻美に言われた言葉が貼られている。「寝るのは逃げじゃなくて、続けるための力だよ」過労しか知らなかった頃には理解できなかった言葉。今は、この一文が夜の支えになっている。 八時半、ヨガマットを敷き、背筋を伸ばす。深呼吸を繰り返すと、昼間上司の言った「説明が雑だよ」という言葉が頭の隅で小さく響く。しかし、その言葉に振り回されなくなった自分を感じる。呼吸が深まるにつれ、影は影のまま、ただそこにあるだけになっていく。 九時前、湯船にゆっくりと沈む。柑橘の香りの湯気に、疲労がほぐれるように吸い上げられていく。湯面がわずかに揺れるたびに、今日の小さな気づきや不安が、表面張力のようにふと浮かんではすぐ溶けていく。ふいに、麻美に返信していないことを思い出す。「今度新しい寝具見に行こうよ」というメッセージ。思わず微笑む。眠りを大切にする自分を、彼女が誰より喜んでくれている。 九時半、布団に潜り込む。体圧をやわらかく受け止めるマットレス、温度をちょうどよく保つ羽毛布団、指先をすべらせると微かに冷たく、そのあとすぐ体温になじむリネンシーツ。真由子のこだわりが詰まった寝具に包まれると、背中からふっと力が抜ける。 外から聞こえる車の音が遠く揺れ、間接照明の光がふんわりと布団を照らす。目を閉じると、一日のざわめきが静かに沈んでいく。香りも光も、布団の温かさも、自分を守る柔らかな殻のようだ。 ——あの日、倒れかけたホームで初めて知った。眠りは、逃げではなく、生き続けるための力なのだ。 今日もまた、眠りの大切さに静かに目覚めていく。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】猫の午後

 午後の光が窓際の私の席を白く照らしていた。 本当なら、美羽と笑い合っていたはずだ。 去年の春からずっと、私は美羽と一緒に弁当を食べ、他愛ない話をしてきた。 笑うとき少し肩が揺れる癖も、声の高さも、全部知っている。 でも今日は、目を合わせてもらえない。 昨日のケンカ以来、美羽は私を避けている。胸が重い。 ふと校庭を見ると、一匹の黒猫がじっとこちらを見ていた。 光の角度で瞳が赤く光ったように見え、思わず息をのむ。 ――猫になれたらな。 誰にどう思われるかなんて、気にしなくていいのに。 「猫がいる!」 誰かが叫んだ瞬間、世界が裏返った。 床が近い。 机は巨大で、脚が林のように並んでいる。 ふるえたひげが視界の端をくすぐり、前足が黒い毛に覆われている。 ――私、猫になった? 「どっから入ったの?」「やだ、怖い」 クラスのざわめきが耳に刺さる。 美羽だけが私をじっと見つめていた。その目が、なぜか“私を知っている”ようで、寒気がした。 先生が近づき、落ちついた声で言った。 「扉閉めて。逃げられると厄介だから」 厄介って……どういう意味? 逃げなきゃ。 そう思った瞬間、体が勝手に動き、私は教室の隅から廊下へと走り出した。 出口の手前で、影がゆらりと揺れ、私の足に絡みついた。 冷たく、ざらついていて、深い井戸の底みたいな感触。 「……ひとり、増えたね」 声が耳元で笑った。 黒猫の声ではない。もっと古くて、暗くて、湿っている。 影が全身にまとわりつき、視界が黒に沈んだ。 * 気づくと、私は校庭の隅にうずくまっていた。 黒猫のまま。 ひげが風で震え、尻尾が思うように動かない。 急いで顔を上げる。 校舎の窓に、私の席が見える。 “私”がいた。 私の筆箱を手にし、ノートを広げ、クラスメイトと当たり前のように話している。 何を書いているかなんて、猫の目では分からない。 でも、うなずき方、背中の角度、声の調子――全部“私そのもの”だった。 美羽が笑っていた。 あの少し肩が揺れる笑い方で。 その視線の先には、もう私ではない“私”がいる。 胸が締めつけられた。 奪われた――その言葉が頭から離れない。 窓の“私”がふと校庭を見た。 まっすぐに、迷いなく、私(猫)を。 その笑みは、私が知っている私の笑い方ではなかった。 口元がほんのわずかに裂けるような、不自然な笑い方。 その瞬間、教室の奥で...

【1000文字小説】地図の一点

 午前七時。都市の朝が本格的に動き出す前、タクミはカフェテリア「クロノス」のドアを押した。 ドアが開くと、小さな金属音が澄んだ空気に溶け、店内の静かな朝をそっと区切った。 窓から差し込む柔らかな光が木製のテーブルを淡く照らし、珈琲の香りがふんわり漂っている。いつもの席は空いていたが、今日はどうにも落ち着かず、タクミはふと目にとまった別の席に腰を下ろした。そこは、普段なら選ばない店の奥寄りの席だった。 視線を上げると、壁際に古びた大きな地図が飾られているのが目に入った。 (こんなところに地図があっただろうか……) 何度も来ているはずなのに、これまで一度も気づかなかった。 「ブレンド、お願いします」 タクミの声に、カウンターの向こうでゲンさんが静かに頷いた。年季の入った手つきで珈琲を淹れる音が心地よく響き、湯気に混じる苦味がタクミの胸の詰まりを少し和らげた。 「最近、無理してるように見えるぞ」 珈琲を置きながらゲンさんが言った。 「締め切りに追われてて……アイデアが出なくて」 「焦っても良いものは生まれんよ」 タクミは苦笑してカップを手にした。 湯気の向こうで、老紳士が新聞を広げている。紙の擦れる音が静けさに心地よく混じる。女子学生は参考書に線を引き、ページをめくるたびに柔らかな紙の音が響く。二人とも言葉を交わすわけではないが、同じ空気をゆったりと共有していた。 タクミは再び地図に目を向けた。近づいてみると、黄ばんだ紙にいくつもの小さなピンが刺さっている。それぞれに、年代も筆跡も異なる短いメモが添えられていた。 「1992年7月15日 ここで初デート」 「2005年4月1日 初めて自分の店を持った」 どの言葉にも、書いた人の息づかいが宿っているようだった。 「いい地図だろう」 背後から老紳士が新聞越しに声をかけた。 「人生には、こういう“一区切り”が大事なんだよ」 女子学生も微笑みながら言う。 「ここに来ると落ち着きます。勉強、うまくいかなくても」 タクミは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。 ——自分が作りたかったのは、流行を追いかける派手なデザインではなく、人の心の奥にそっと残るものだったのではないか。 タクミはペンを取り、地図の余白に小さく書き込んだ。 「2018年1月17日 大切なことを思い出した場所」 席に戻ると、珈琲の香り、木の温もり、窓からの柔ら...

【1000文字小説】小さな青の光

 セイランは都市の地下深く、無数のパイプと配線が迷路のように絡み合うメンテナンスエリアで働いていた。仕事は都市機能を支えるメインフレームの保守点検。高さ数十メートルのラックに並ぶコアユニットは、LEDインジケーターが絶え間なく点滅し、無限に近い電線の束が壁面を走る。その間を歩くたび、冷たい金属と潤滑油の匂い、ファンの唸り、リレーのカチッという音がセイランを包んだ。地下都市の鼓動が、まるで巨大な生物の心臓のように聞こえる。 セイランは毎日、膨大なデータログを監視し、電流計のわずかな振れや温度センサーの数値を丁寧に追う。稼働中のモーターや圧縮機の軸を注油し、配管の継ぎ目を締め、劣化したケーブルを交換する。警告音が鳴れば瞬時にパネルを開き、工具を手に修理に取りかかる。効率と正確さが求められる日々だが、セイランはその緻密な作業の中に、微かな美しさを感じることがあった。配線を束ねたとき、機械の光が反射して生まれる整然とした輝きが、暗い地下にひっそりと息づいていた。 休憩時間、セイランはポケットから小さなノートを取り出す。ペンを走らせ、想像の「ソラ」を描く。都市は巨大なドームに覆われ、外の世界は汚染され尽くしていると教えられている。しかし、彼の描くソラはいつも鮮やかだった。青、藍、そして淡い光を孕んだ夕暮れの色が、ノートの中で静かに広がっていく。 「また絵か、セイラン。そんなもの描いて何になる」 同僚のタケルが眉をひそめて言う。 「気分転換だよ」 セイランは笑い、ノートを閉じて次のラックへ向かった。だが、心の奥では、いつか本物のソラをこの目で見るという願いが、誰にも気づかれない炎のように揺らめいていた。 巨大なメインフレームのコアユニットに手を添え、複雑に走る配線の束に指先を滑らせる。警告灯の赤、ファンの低い唸り、冷却液が循環する音……地下都市の機械の声が、セイランの胸の中で想像するソラの色と静かに重なり合っていく。人々はこの閉ざされた世界に満足し、効率と秩序だけを頼りに生きている。しかし、セイランは知っていた。希望とは、目に見えない場所にこそ宿るものだと。 今日もノートに線を引き、色を重ねる。配管と配線の迷路を歩きながら、地下の冷たい光の中でソラを描く手を止めない。遠い未来、ドームの外に広がる本物の青を、自分の目で確かめる日が必ず来ると信じながら。 薄暗い地下世界の中...

【1000文字小説】日付の境目の自動販売機

 住宅街の外れに、一台の古びた自動販売機が立っている。 昼間はただの機械だが、日付が変わる瞬間──午前零時になると淡く光るという噂があった。 「日付の境目に立ち会った人は、少しだけ心が揺れる」 誰も本気にはしないが、今夜も三人がその噂を確かめに来ていた。 時計が真夜中を告げると、自販機の灯りが静かに点り、闇をわずかに押し返した。 最初に現れたのはタカシだった。 三度目の原稿のボツに直面し、夢を諦めるかどうかの端に立っていた。 「せめて、今日と明日の境くらい、違う気持ちで越えたい」 そうつぶやき、迷いながら「インスピレーション」を押す。 透明な瓶を一口飲むと、胸の奥で消えかけていた物語の光が微かに揺れ、 (ああ、まだ書きたいんだ) タカシはその小さな灯に、静かに息をついた。 そこへ、肩を落としたミカが足を止めた。 部署の人員削減、母の介護。 「もう全部無理かもしれない」という思いと「踏ん張りたい」という思いが胸の中でせめぎ合い、どちらへ踏み出すべきか分からなくなっていた。 手の中のスマホは、まだ上司の長文メールで震えている。 ミカは俯いたまま「安らぎ」を選んだ。 温かなココアを口に含むと、張り詰めた心がほどけ、涙が頬を伝う。 それに気づいたタカシは声をかけようとしてやめた。 代わりに瓶を胸元で軽く掲げる。 ミカもココアを掲げ、微かに笑った。 言葉は交わせなくても、互いの迷いが触れ合うのが分かった。 そのとき、自販機のすぐ横で急ブレーキの音が響く。 ユウタが自転車から飛び降り、荒い息をつきながら駆け寄ってきた。 恋人に別れを告げられ、気持ちをどこへ置けばいいのか分からないまま、静かな家に戻るのが怖かったのだ。 何か音のある場所に、誰かの気配が残る場所にいたかった。 「間に合った……」 ユウタは「明日への希望」を押した。 出てきたのは普通の炭酸飲料。 力なく笑ってプルタブを引くと、「プシュッ」という音が夜に広がった。 その音にミカが顔を上げ、タカシが小さく息を吸う。 三人の胸の奥で、それぞれ抱えていた重さがわずかに揺れた。 ユウタが震える声で言う。 「今日、振られました。でも……この音聞いたら、少し前に進んでもいいかなって」 タカシは瓶を見つめながら答える。 「僕も……諦めるところでした」 ミカもココアを胸に抱き、ゆっくりと言葉をつなぐ。 「私も……全部投げ出すか...

【1000文字小説】夜中の調べ

 築四十年の灰色の団地。その四階で、私は三十年近く一人暮らしをしている。隣の402号室には、小野さんという女性が住んでいた。娘さんが学生の頃、昼間にピアノを練習していたのをよく覚えている。鍵盤を叩くたびに団地の壁が微かに振動した。それでも誰も文句を言わなかった。若い音は団地に希望のように響いていたのだ。 娘さんが結婚して出ていってからは、ピアノも沈黙し、小野さんは静かに暮らしていた。しかしある深夜、突然ピアノの音で私は目を覚ました。午前二時。「エリーゼのために」がか細く、ところどころつまずくように響く。まるで鍵盤の上を記憶がたどっているかのような、不思議な音だった。 その音は一晩限りでは終わらなかった。翌日も、翌々日も、昼夜を問わず鳴り続けた。私は夜中のピアノに苛立ち、思わず壁を叩きたくなる衝動に駆られた。管理人に相談すると、少し言葉を選びながら説明してくれた。 「小野さん、最近よく昔のことを思い出して、ついあの頃のように行動しちゃうようなんだ。娘さんも来てるけど…」 その説明を聞き、私は胸が痛んだ。最近、小野さんは外で会っても話がとぎれがちだった。「あなた、二階の方?」と尋ねられたこともあったし、買い物袋を落として何を拾えばいいかわからず立ち尽くしていた日もあった。認知症、というものなのだろうか。 夕方、小野さんの部屋をノックすると、少し遅れて出てきた。鍵を外す手が震えている。「どうしたの?」と微笑む顔には、以前の面影が残っていた。私が「ピアノの音が…」と告げかけると、彼女は穏やかに遮った。「娘がね、明日コンクールだから。今も練習してるの。うるさかった?」部屋の奥を振り返るが、誰もいなかった。 私は言葉に詰まり、「いえ…少し驚いただけです」と答えた。小野さんは安心したように微笑み、「この子、頑張り屋でね。小さい頃から日が暮れるまで練習してたのよ」と話す。その言葉に、胸の奥が締め付けられた。 夜もピアノは鳴り続けた。音程は狂い、曲は何度も途中でつまずく。それでも、音の中には娘さんの記憶が息づいているのだろう。耳栓を手に取り迷う自分に、苛立ちと同情が交錯しながらも、結局布団に横になった。 「大丈夫、ピアノの音、聞こえていますよ」――誰に向けた言葉かわからなかった。小野さんの記憶の中で、娘さんは今日もピアノを弾いている。私はただ、その止まない調べを受け止めながら...

【1000文字小説】浮遊停留所の向こう側

 空に浮かぶ大小の島々を、虹色の光が縫うように架かる浮遊橋が繋いでいる。そんな街の唯一の公共交通は、錆びつき羽根が軋む古い飛翔車だけだった。一日に三便しか来ず、停留所には屋根もなく、雲の上にぽつんと浮かぶ浮遊ベンチが一つあるだけだ。そこは、ユルナが最も好きな場所だった。 毎朝、始発の飛翔車が来る前にユルナはそこへ来て、古い魔導書を開く。紙の匂いに淡い魔力の残香が混じり、風とともに頬を撫でる。島の外に出たことはまだない。それでも、空の上でページをめくるこの時間だけは、外の世界にすこし触れられるような気がした。 ある朝、浮遊ベンチに見慣れない青年が座っていた。深緑のマントに大きな魔法リュック。指先は落ち着きなく紐をいじり、視線は遠く漂う竜の群れへ向けられている。ユルナは迷いながらも隣に腰掛け、魔導書を開いた。 「これ、面白いですよね」 青年が柔らかく声をかけた。見ると、彼も同じ魔導書を手にしていた。 「ええ。世界が呼吸しているみたいで、好きなんです」 そう答えると、青年は少し安心したように微笑んだ。 「登場人物たちが…どうしてか、自分と重なる気がして」 その声には、挫折の影が淡く揺れていた。 青年の名はリオン。天空都市の魔導試験に失敗し、故郷の島へ戻ってきていたという。 話をするとき、彼の指先はそっとリュックの端を叩き、自分の不安を誤魔化すようだった。 「僕はこれから、もう一度挑戦しに都市へ戻るんです」 そう語る目には、諦めきれない光が宿っていた。 ユルナも、小さく胸の内を明かした。 島から出たことはないけれど、いつか空の向こうへ旅してみたい。 この場所で本を読みながら、知らない世界を思い浮かべてきたこと。 「出発前の短い時間ですが、このベンチにいると、少し心が整う気がします」 「……私もです。ここは、雲の上からそっと守ってくれているようで」 羽音と蒸気の匂いが近づいた。飛翔車が浮遊橋の向こうに姿を現す。 リオンは立ち上がり、深く息を吸ってリュックの紐を握り直した。 「じゃあ、行きます」 「魔の嵐にも竜の群れにも、気をつけて」 ユルナの声に押されるように、リオンは微笑みを残して走り出す。 振り返ると、軽く手を挙げてから飛翔車へ乗り込んだ。 羽ばたく音が空に溶け、機体はゆっくりと離れていった。 静寂が戻ったころ、ユルナは足元に小さな光を見つけた。 それは、リオンが...

【1000文字小説】紙の軌跡

 金曜日の夜十一時過ぎ。プラットホームは終電を待つ人々で混雑していた。私は端の古びたベンチに腰を下ろし、周囲のざわめきをぼんやり眺める。 隣に、私と同じくらいの年齢の女性が座った。スーツの肩は少し丸まり、カバンから一枚の紙を取り出すと、折り始めた。紙が折れる音が静かに響く。彼女の指先は迷わず動き、目は常に紙に注がれていた。 声をかけようかと思ったが、私は黙って見守ることにした。折り終えた紙飛行機を彼女は夜空に放った。小さく弧を描いた飛行機は、暗闇の向こうに吸い込まれていく。 「きれいな飛行機ですね」とつい声が出た。女性は微かに笑い、説明する。「嫌なことを書いて飛ばすんです。すると、少し軽くなる気がして」 彼女はもう一枚の紙を折る。私は隣で見守り、指先と紙の擦れる音、飛行機の軌跡を追った。短い行為が、確かに心を動かすことを知る。 電車が近づき、私は立ち上がり手を振った。女性はベンチに座ったまま、微笑みを返す。言葉は交わさず、ただ互いの存在を確かめる。電車が扉を閉め、ゆっくりとホームを離れる。振り返ると、女性はまだ静かに座っていた。 あの小さな紙飛行機たちが、彼女の心を少し軽くしたのだろうか。偶然の出会いは、日常の片隅に、ほんの少しだけ特別な時間を残していた。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】最後のコーヒー

 古びたマグカップを手に、僕はベランダへ出た。午前四時十五分。街はまだ眠りの底に沈み、遠くで新聞配達のバイクがかすかに響く。肌寒い空気に触れ、コーヒーの湯気が白くほどけていく。 このマグでコーヒーを淹れるのも、今日が最後だ。 彼女が家を出てから七日目。広すぎる部屋には、まだ彼女の痕跡が漂っている。キッチンの棚には、中煎りの豆が半端に残り、冷めたカップがひとつ、テーブルに置かれていた。あの日、僕が寝坊して彼女の朝を壊した日のままの形で。 「朝のコーヒーってね、生活のリズムを整えてくれるんだよ。気持ちまで明るくなるの」 彼女はよくそう言った。休日には「一緒に飲もうよ」と誘ってくれたこともある。でも僕は布団に潜り込み、二度寝の誘惑に負け続けた。目覚ましを三つもセットしたあの日も、結局昼まで寝てしまい、キッチンに残された冷めたコーヒーと小さなメモ。「起こさなくてごめんね。仕事行ってきます」胸の奥がきゅっと締まる感覚を、今も覚えている。 ベランダの手すりに肘をつき、東の空を見上げる。白み始めた空は、ほんの少しずつ朝色に染まっていた。コーヒーを口に含む。苦い。あの日の彼女の味そのままだ。 僕はタバコに火をつけ、苦い煙を肺に沈める。意識が少しだけ澄んだ瞬間、心の奥の迷いが顔を出した。まだ、あの時の失敗を引きずっている自分。彼女の時間と僕の時間のズレ、それを埋める努力を怠った自分。 ふと思い出す。休日の朝、彼女が小さな声で「ほら、一緒に飲もう」と微笑んでいた瞬間。僕は布団の中でその手を握ることもせず、ただ眠りに沈んでいた。その時の後悔が、胸を重く締めつける。 残ったコーヒーをゆっくり飲み干す。苦い。でも、この苦味を抱え続ける必要はない。新しい街では、ちゃんと朝を迎える生活を始める。朝陽に照らされたキッチンで、ミルクをたっぷり入れた甘いコーヒーを淹れよう。あの苦味は過去の僕のもの。甘さは、“ここからの自分”を象徴する味になるだろう。 マグカップを軽く握りしめ、僕は最後の荷物を箱に詰める。胸の奥に小さな温度が灯るのを感じた。迷いはまだ完全には消えていないけれど、確かに朝の光は、新しい一日の合図だ。 新しい生活は、甘い香りから始めよう。もう迷わない。僕は、僕の朝を自分の手でつくる。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】月光の下で生き延びる

 深夜二時、病院はほとんど眠っていた。ナースステーションの蛍光灯だけが白く光を放ち、私と先輩の二人だけが、カルテを睨みつつキーボードを叩いていた。外の静けさとは裏腹に、フロア内では時計の秒針がやけに大きく響く。 「疲れたね」と先輩が小さく呟く。「仮眠、取ってくる?」 私は首を横に振った。まだ終わらない仕事が残っている。 「大丈夫です、もう少し」と返すと、先輩はため息をつき、仮眠室へ消えた。 一人残された私は、モニターの淡い光に照らされながら思う。こんな時間まで働いて、給料は雀の涙。腰も肩も痛む。頭の中では転職のことがちらつくが、現実は簡単じゃない。次のナースコールはいつ鳴るかもわからない。 「カチッ…」 ナースコールが鳴った。三〇五号室。足を骨折して動けないおばあちゃんだ。 「はい、三〇五号室です」 「看護婦さん…外が…すごく綺麗なの」 声は小さく震えている。私は時計を見る。深夜二時、外は真っ暗だ。 「外は真っ暗ですよ。眠れませんか?」 「違う違う。満月がね、いつもより大きいの。一人で見るのもったいなくて」 半信半疑で窓から外を見ると、冬の冷たい空に冴え冴えとした満月が浮かんでいた。病棟の白い壁を淡く染め、深夜の静けさの中で、ほんの少し特別な光を放っている。 「本当ですね、綺麗なお月様ですね」と答えながらも、心の奥ではつい思う――「月見てナースコール押すなよ。こっちは忙しいんだって」 受話器を置き、窓越しに月を見上げる。確かに美しい光だ。でも、ほかの患者は大丈夫だろうか? 急変してもおかしくない。眠れない患者もいる。疲れた体と頭は休みを求めているのに、現実は待ってくれない。 小声で「もう限界かも」と呟き、背中を伸ばす。腰も肩も痛む。深夜の静けさの中で、愚痴だけがまとわりつく。 月は私を見守るでもなく、待つでもなく、ただ変わらずそこにある。世間の「白衣の天使」像は、ここには存在しない。 パソコンに戻り、カルテを片付ける。モニターに映る自分の疲れた顔を見て、ふと笑った。今日もなんとか生き延びた。明日も多分、同じ時間に、同じ愚痴を呟きながら働くだろう。 深夜二時、現実の重さだけが、静かに私を抱きしめていた。 そして、満月だけは、少しだけ優しく照らしてくれていた。 <1000文字小説目次> リンク

昭和60年に発売されたソニーのステレオラジカセ

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昭和60年 中森明菜が依然として絶好調でヒット曲を連発。 昭和40年生まれの中森明菜は私と同年齢。 『飾りじゃないのよ涙は』は私のカラオケの定番だ。 そんな昭和60年に発売されたソニーのステレオラジカセ。 CFS-W50 Wキッド 32,800円 CFS-W80より価格の安い弟機というよりは子供。 『Wキッドのスリムなベイビー』とカタログには書かれていて、イラストも鳥の雛っぽい。 ●最大外形寸法:幅434x高さ118x奥行77mm(EIAJ) ●重さ:2.1kg(乾電池含む) CFS-5000 32,800円 いつの間にか発売されていた、CFS-9000、7000の弟機。 カタログでも同じページに載っているが、愛称もないし、兄弟機だという記載もない。 でも弟機だろうな。 CFS-9000やCFS-7000では搭載されていない短波放送が聞ける。 時折こうやって短波の聞けるステレオラジカセが出たが、最上位機種には搭載されないのは何故だ。 ●最大外形寸法:幅482x高さ179x奥行168mm(EIAJ) ●重さ:3.5kg(乾電池含まず) CFD-5 108,000円 ついにラジカセにCDが搭載された。 いつか出るとは思っていたが、これが第1号機だ。 CDは昭和57年に発売された。 2年後の昭和59年にソニーからポータブルCDプレーヤーD-50が発売。 小型軽量なだけでなく、値段が49,800円。 ソニーのCDプレーヤーの1号機CDP-101が168,000円、それに比べると一気に半分以下の低価格だ。 これが大ヒットしてCDの普及に弾みがついた。 レコードプレーヤーはちょっと無理だが(それでも他社製で搭載された機種はある)、CDは小型なのでラジカセに搭載はおあつらえ向きだった。 で、このCFS-5。ラジカセの部分は大した事はない。 CFS-7000にCDプレーヤーD-50をくっつけた感じだ。 どうせなら上位機種のCFS-9000に搭載して欲しかったな。 当時の最上位機種にCDを搭載すれば最高のCDラジカセの完成だ。 だが、そうすると値段が13〜4万になってしまうので見送ったのだろうか。 あるいはデジタブルに搭載。 元々デジタブルは小型なので、CDを搭載しても普通のラ...

【1000文字小説】路地裏の忘れ物係

 帰り道の角を曲がった瞬間、古びた路地裏に小さな看板が揺れているのを見つけた。「忘れ物係」とだけ書かれた歪んだ手書き文字。錆びた郵便受けがその下に沈むように置かれている。 立ち止まったとき、風が一瞬だけ止んだ。まるで僕がここに来るのを待っていたかのように。 ——最近、何かを置き去りにしたまま生きている気がしていた僕は、その静けさに妙に胸をつかまれた。 次の日、郵便受けを覗くと、古いブリキの缶が一つ入っていた。蓋は少し歪んでいて、開けると油の匂いが微かに漂った。中には、光を当てると深い緑や琥珀色に輝くビー玉が五つ。 添えられたメモには、ぎこちない文字でこう書かれていた。 「昔、宝物だったものです。今はもう必要ないので、誰かが見つけてくれると嬉しいです」 その日から、僕は毎日「忘れ物係」を訪れるようになった。 ある日は片方だけの白い手袋。湿ったような冷たさが掌に残り、冬の匂いを思い出させた。 またある日は使い古された万年筆。キャップを外すと、古いインクの甘い金属臭がふっと立ち上がった。 そしてある日、止まったまま時間を抱え込んだ懐中時計が置かれていた。手に乗せると金属の重みが、生き物の鼓動のようにじんと伝わってきた。 そんな小さな記憶の断片に触れるたび、胸の奥が静かに温かくなる。 誰が置いたのか、何のために手放したのか——その答えはいつも霧のように掴めない。 それでも僕は、曖昧なままのその気配を嫌だと思わなかった。 ある雨の日、小さなカセットテープを見つけた。薄いプラスチックが濡れた光を反射していた。メモには「僕の歌」とだけある。 家に帰り、古びたラジカセに入れると、音程の外れた、息を吸い込むタイミングさえぎこちない歌声が流れた。 けれど、その拙さの奥にある必死さが、不意に僕の胸を締めつけた。 ——こんなふうに自分の声を残そうとした誰かがいた。かつての僕も、誰かに届くと思った言葉を、言えないまま置き忘れたことがあった。 忘れ物は、ただの物ではなかった。 置く人の思い出であり、拾う人の物語のきっかけだった。 僕はビー玉を窓辺に、万年筆を机に、手袋を玄関に飾った。 それらは、色褪せつつあった僕の日常に、静かで確かな色を加えていった。 ある夜、郵便受けを覗くと、何も入っていなかった。 ひんやりした空気が流れ込んできて、少しだけ胸がすくような寂しさを覚えた。 けれど不思...

【1000文字小説】世界が少しだけ傾いた日

 その日、僕の部屋だけ世界から少し置いてけぼりを食らったように静かだった。いつもなら朝のニュース番組の騒がしい音声が隣の部屋から聞こえてくる時間なのに、今日は気配がまったくしなかった。窓の外の景色は見慣れたままで、特に変わった様子はないのに。 ベッドから起きて洗面所へ向かう。鏡に映る自分は、寝起き特有の少し気の抜けた顔。蛇口から飛び出した冷たい水で顔を洗い、タオルで拭きながら、この静けさが妙に気になった。隣の部屋の気配が、今日は不気味なほど消えている。耳を澄ませても、やっぱり何も聞こえない。 リビングに戻り、古いラジオのスイッチを入れる。普段ならすぐにニュースが流れるはずなのに、今日は「サー」「ガー」というノイズ音しか聞こえない。何度つまみを回しても同じだった。 「故障か」と呟き、スマートフォンを手に取る。ニュースアプリを開こうとしたそのとき、カタン、と小さな音がした。振り返ると、壁に掛けた額縁が、ほんの少しだけ傾いている。大したことのない出来事なのに、この静けさの中では、世界のバランスを崩しているかのように感じられた。 僕は額縁をまっすぐに直す。すると、ラジオからニュースの声がいつも通り流れ、隣の部屋からも日常の音が戻ってきた。額縁の傾きが、世界を元に戻したのではなく、僕自身の心が動いたことで、日常がいつも通りに感じられるようになったのだと気づく。 改めて額縁を見る。特別な絵ではない、ただのポストカード。けれど、日常はこんな些細な出来事に左右される、僕の心の感覚で成り立っているのかもしれない。 トーストを焼く香ばしい匂いがキッチンに広がる。僕は軽く息を吐いた。世界は今日も、ちゃんとまっすぐ立っている。そして、僕の目に映る景色は、少しだけ色鮮やかになったように思えた。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】思い出せない

 静かな雨音が、木造アパートの薄い屋根を叩いていた。 片付けをしていると、一番下の箱から、交換日記が出てきた。 表紙に「シンヤ」「ミナミ」とある。拙い字だ。当時の自分の字がこれほど幼いのかと、少しだけ驚いた。 ページをめくると、中学二年の他愛ないやり取りが並んでいる。テストの点、部活、昼休みのどうでもいい話。その中に「今日のシンヤ、疲れてた」というミナミの文字があった。 へえ、と小さく声が漏れた。 ミナミのことは、別に特別だったわけではない。 よく笑う子で、人の話によく頷いてた。思い返せば、誰かに必要以上に気を配るタイプだったのかもしれない。 卒業の頃に何か言われた気もするが、内容はもう覚えていない。 雨音が単調に続く中、なんとなくスマホを手にした。 検索窓に名前を入れると、似たような人がいくつも出てくる。ぼんやり眺めていると、一つのアカウントの写真で記憶と一致する輪郭を見つけた。 笑っている。昔と同じかは知らない。 プロフィール欄には「保育士」 そういえば子どもが好きだったような気がする。 メッセージを送るつもりは最初からなかった。 連絡しても、会話が成立する気がしない。二十年前の断片を持ち出されても、彼女も迷惑だろう。誰かの生活に唐突に割り込むほど、こちらの人生も切迫してはいない。 スマホを伏せる。画面の光が消え、雨音だけが残る。 雨が弱まり、外が少しだけ明るくなった。 玄関を開ける。冷たい空気が流れ込む。 過去に触れても、別に何も変わらない。 そんなものだろうと思い、傘も差さずに歩き出した。 数歩進んだところで、ふと気づいた。 ――ミナミの声だけは、思い出そうとしても出てこなかった。 不思議でもなく、惜しいとも思わない。ただ、消えるときはこういうものか、とだけ思った。 胸に空いたその空白に、雨音がすっと染み込んでいく。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】月の落ちる街

 古い石畳の坂道を夕日がゆっくりと染めていた。喫茶店「月兎」の看板が風に揺れ、小さな金属音が空気に溶ける。この街に越してきて三週間、僕はここを訪れるのが習慣になっていた。どこか時間の流れが遅いようで、息をつく余裕が生まれる場所だった。 店に入り、いつもの席に腰を下ろす。マスターは新聞を畳まず、「いらっしゃい」と低く言うだけ。だがこの素っ気なさが心地よい。 コーヒーを待ちながら、ふと窓の外の風景に違和感を覚えた。夕暮れの光が橙から青へ変わる境目に、街灯が早くも灯り始めている。その灯りが妙に頼りなく見えた。 湯気の立つブレンドが運ばれた頃、外を一台の自転車が通り過ぎた。荷台には白布に包まれた丸い荷物。昨日も見た気がする。胸の奥で小さな不安が揺れた。 「最近、ああいうの運ぶ人、多くないですか?」 僕が尋ねると、マスターは新聞を閉じて頷いた。 「月の欠片だよ。まだ乾いていないやつだ」 冗談に聞こえたが、彼の口調は妙に真剣だった。 その瞬間、窓の外がざわめいた。人々が空を見上げ、声がひそひそと重なっていく。胸がざわつき、僕も店を飛び出した。 空には、巨大な月があった。普段の何倍も近い。欠けた縁の暗い影までもが手に取るように見え、冷たい光が街を覆っていく。息が止まるほど美しいのに、背筋が粟立った。落ちてくるのではという恐怖と、ただ見ていたいという矛盾した感情が同時に押し寄せる。 隣に来たマスターが言った。 「落ちはしないさ。あれは、機嫌を損ねると寄ってくるだけだ」 その言葉は冗談にも聞こえず、不可解な説得力を持っていた。思えばこの街の夜空はいつも異様に澄んでいた。初めて来た晩、月の輪郭が揺れて見えたのも気のせいではなかったのかもしれない。 月はしばらく静止したまま街を見下ろしていた。人々は誰も動かず、時間までもがどこかへ行ってしまったようだった。やがて、何かに納得したように、ゆっくりと元の高さへ昇り始めた。 光が薄れ、街に夜が戻る。ざわめきが解け、誰かが震える声で笑った。僕の手は少し汗ばんでいた。 「……本当に、不思議な街ですね」 「だろう?」マスターはにやりと笑った。「常識の外で息をしてるんだよ、ここは」 冷めたコーヒーを飲み干して店を出ると、空は静かに星を瞬かせていた。だが、僕にはもう普通の夜空には見えなかった。白い布に包まれた荷物の正体も、この街の秘密のほんの一片...

【1000文字小説】抱負は明日から…たぶん

 2018年1月1日~5日(元旦~仕事始め) 元日は1時間、参考書を広げて机に向かった。 「今年こそ英語をマスターして、海外案件に挑戦する!」と意気込む。 でも手が重く、ページをめくる指は鈍い。「順調なスタート? 気持ちは元旦から寝てるよ…」と心の中でツッコミ。 2日目も30分だけ机に向かった。 単語を眺めるだけで頭がぼんやりする。「あれ、昨日覚えたはずの単語、もう忘れてる…?」と早くも焦る。 それでも、「明日はもっとやろう」と小さな決意を胸にしまった。 3日目、1月3日。 この日は、結局テキストに触れることができなかった。 机の上には参考書が置かれたまま、私はテレビの前でごろごろ。お昼寝もしてしまった。 「…もう三日坊主の予感しかしない」と自己ツッコミ。 心の片隅で「明日こそ」とつぶやきながらも、単語帳の存在がじっと私を見つめる。 4日の仕事始めは現実的だった。メール処理や打ち合わせに追われ、帰宅は夜の10時。 疲労で頭がぐるぐるする。テキストを開こうとしたが、手は止まった。「今日も無理か…」とため息。 5日、金曜日。週末の解放感が胸をざわつかせる。 「三日坊主…いや、もう五日坊主?」計画表は乱れ、英語学習の抱負は霞む。 午後3時、課長の山村が声を上げる。 「皆、仕事始めだし、今夜は一杯どうだ? 新年会も兼ねてさ!」 胸がぎゅっと締め付けられる。帰宅は終電コース。今日も勉強できない。二日連続で休めば、再開は難しい。「私の抱負、早くも沈没か…」 「田辺さんも来るよな?」 喉に言葉が詰まる。手が膝の上で小さく震える。 山村はニヤリ。「デートの予定か? ふふ、まあまあ、正月早々堅いこと言うなよ。仕事の付き合いも大事だろ?」 同僚たちも囃す。「来いよ」 抗えず、頷いた。肩が自然に落ちる。「結局、社会の圧力には勝てない…」 居酒屋への足取りは鉛のように重い。 ビールを前にしても心は晴れない。「これじゃ英語どころじゃないじゃん…」と、また自己ツッコミ。 深酒して帰宅は深夜1時。 泥のように眠る。 それでも、眠りの中で「明日こそテキストを開こう」という小さな決意が芽生えた。 2018年最初の週末は、ほろ苦いスタート。 でも、自己ツッコミを入れながら前向きに考えれば、少しは気が楽になる。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】はじめの日

 2018年1月4日、仕事始めの日。三が日の余韻がまだ体温に残る午前8時30分、私は少し早めに出社し、デスク周りを整えた。会社の空気は新鮮で、張り詰めた緊張と期待が混ざり合っている。「今年こそは落ち着いた一年に」と心の中で呟き、パソコンを立ち上げる。画面の隅に表示された日付は、淡々と今日を告げていた。 朝一番の朝礼が終わり、皆が業務に移ろうとした矢先、課長の山村が突然声を上げた。「皆、ちょっといいか」その声には、普段よりも強い冷えがあった。年末の小さなミスの話だ。私たちのチームではすでに対策も済み、共有も終えている。しかし山村は構わずに続けた。「年末のA案件だが、あれは本当にひどかった。信頼を失いかねない初歩的なミスだ」 互いに顔を見合わせる社員たちの中で、山村の視線だけが私を正確に捉えていた。「特に君、田辺。なぜもっと早く気づけなかった」私はサブ担当で、確認の最終責任は主担当の先輩にあった。しかもその先輩は今日、有給で不在だ。「あの、私の担当範囲では……」と言いかけた瞬間、山村は私の言葉を切り捨てた。 「言い訳はいい。プロとしての自覚が足りない。新年早々こんな話をさせないでくれ」 フロアには、重たい沈黙だけが落ちた。他の社員は目を伏せ、誰も間に入ろうとしない。私は、年末に抱いたささやかな達成感や、新年に掲げた小さな目標を思い返しながら、その全てが音もなくしぼんでいくのを感じていた。 一通り言い終えると、山村は何事もなかったように席へ戻った。残された私はしばらく立ち尽くし、ゆっくり椅子に腰を下ろした。PCのファンが静かに回る音が、妙に遠く聞こえる。画面には再起動後のウィンドウが次々と開き、淡々と今日の業務を並べていく。まるで私の気持ちとは無関係に、時間だけが前に進んでいるかのようだった。 今年がどんな一年になるのかは、まだわからない。ただ、胸に残ったざらつくような違和感だけが、今日の始まりの色を決めてしまったように思えた。深く息を吸い、背筋を伸ばす。指先はまだ少し震えていたが、それでも私はキーボードへ手を伸ばし、静かに仕事を始めた。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】正月の余白

 2018年1月3日、水曜日。午後6時。 窓の外は藍色に染まり、街のネオンが静かに瞬く。部屋の白い照明だけが、不自然なほど明るく浮かんでいた。ソファに沈み込み、手にしたスマートフォンを眺める。正月休みの思い出を楽しそうに投稿する友人たちの写真が、画面いっぱいに広がる。 「また明日から仕事か……」 吐き出すたびに、言葉が重く腹に沈んでいく。正月は、親戚と笑い合い、美味しいものを食べ、何もしない贅沢を味わった数日間だった。けれどその安らぎは、すぐに現実の重みに押し潰されそうになる。満員電車、無愛想な上司、終わらない会議資料。思い描くだけで、胸が締めつけられた。 冷蔵庫を開けると、正月に買った少し高級なビールと、残ったお雑煮が並んでいた。プルタブの音が、静かな部屋に響く。パソコンデスクの上には、年末に持ち帰った仕事用ノートパソコンが鎮座している。視線を逸らし、テレビをつけると、「正月病」の特集が流れていた。まさに自分のことだと思い、肩が少し沈む。 午後8時。明日の準備をしておこう。洋服を選び、カバンの中を整理する。一つ一つの動作が重く、体が言うことを聞かない。 「もう少し、あと少しだけ休めればいいのに……」 シャワーを浴び、パジャマに着替え、ベッドに潜り込む。枕元のスマートフォンは無言で待ち構え、アラーム音を想像するだけで頭が痛くなる。 目を閉じても、通勤ラッシュや山積みの仕事が次々に浮かび、寝付けない。布団の柔らかさ、ひんやりした空気、遠くで聞こえる車の音だけが、今の現実を支える。時間よ、このまま止まってくれ。永遠に続く日曜日であれば、心の重さも少しは和らぐのに。 結局、寝不足のまま朝を迎えるだろう。作り笑顔で「おめでとうございます」と挨拶し、憂鬱な一日を始める。それでも窓の外の月は変わらず輝き、静かに私を見守っている。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】微かな境界

 正月休みで実家に帰省して三日目。私は高校時代の友人のミカと、駅前のファミレス「ガスト」で待ち合わせていた。よく行っていた個人経営の喫茶店が休みで、開いているのはチェーン店くらいのものだ。店内は家族連れや帰省中の若者たちで賑わい、少しだけ騒がしい。 「相変わらず、全然変わってないね、サキちゃん」 ミカは笑いながら、私の肩を軽く叩いた。彼女もまた、高校時代と変わらない、ショートカットに明るい笑顔だ。私たちは近況を報告し合った。東京での忙しいOL生活、職場の人間関係、相変わらずの独り身。ミカは地元で働きながら、彼氏とのんびり過ごしているらしい。ドリンクバーのメロンソーダを片手に話を続け、あっという間に時間は過ぎていった。 「そういえばさ」と、ミカが少しだけ声を潜めた。「最近、この街おかしいと思わない?」 「え、何が?」 ミカは窓の外を指差した。「なんかね、向こう側とこっち側で、空の色が微妙に違う気がするの。境界線があるというか」 私はミカの指差す方を見た。窓から見えるのは、いつも見慣れた故郷の街並み。駅前のロータリー、正月飾りのついた書店、そして遠くに見える高校。空は一面の灰色の雲で覆われている。どこにも違いなんてない。 「気のせいじゃない?」と私が言うと、ミカは少し不満そうな顔をした。「そうかなあ。私にははっきり見えるんだけど。ほら、あそこ。ちょうど郵便局の上あたり」 私はもう一度、目を凝らしてみた。郵便局の上。確かに、言われてみれば、ほんの微かに、空の色が違うような気がしないでもない。片方は少しだけ青みがかっていて、もう片方は鈍い灰色。まるで、世界の境目がそこにあるみたいだ。 「まあ、ミカは昔から感受性が豊かだったもんね」と、私は笑ってごまかした。 ミカと別れ、一人で街を歩く。私はふと思い出して、郵便局の上を見上げてみた。やはり、空の色は違うように見えた。けれど、どちらが「こっち側」で、どちらが「向こう側」なのかは分からない。 もしかしたら、東京で忙しく働いている「私」と、地元で穏やかに過ごしている「私」の間にも、目に見えない境界線があるのかもしれない。故郷に帰ってくるたびに、少しずつその境界が曖昧になっていくような気がする。 夜、実家の自分の部屋のベッドに横になる。窓の外の空は、もう真っ暗だ。今日見た空の境界線も、ミカの言葉も、夢のように思えてきた。けれど...

【1000文字小説】正月のスケッチ

 街はまだ夢の余韻に包まれ、主要な道路には車の影もまばらだ。冷たく澄んだ空気が肺を満たし、吐き出す息が白い靄となって宙に溶けていく。昨日までの喧騒は遠く、街はゆっくりと目を覚ましていた。 僕は近所の商店街をあてもなく歩いた。ほとんどの店はシャッターを下ろし、正月用のポスターが控えめに貼られているだけだった。魚屋の店先には、普段なら威勢のいい大将の声が響くはずだが、今日は「謹賀新年」の貼り紙が風に揺れるだけだ。八百屋の軒先には、門松の代わりに古びたミカン箱が積まれている。 駅前のコンビニだけは静寂の中で明かりを灯していた。赤や緑のネオンサインが周囲の静けさの中で目立ち、街にちょっとした彩りを添えている。中に入ると、おせち料理のパックや普段見かけない高級な日本酒が棚に並んでいた。その姿に、今日が特別な日であることを改めて感じる。レジではアルバイト店員が無表情で会計をしていた。 大通りに出ると、初詣に向かう人々の姿がちらほら見える。皆、真新しいコートや着物に身を包み、凛とした空気を纏っている。家族連れ、友人同士、通り過ぎるたびに微かに香るおせちやコートの匂いが、冬の街に柔らかく溶け込む。小さな子供が「あけましておめでとう」と声をかけてくれ、思わず笑顔で返す。こんな些細なやりとりが、長い間忘れていた新鮮さを僕に思い出させた。 公園の前を通ると、ブランコが冷たい風に揺れ、砂場も滑り台も静かに凍てついている。誰もいない遊具はまるで冬の静物画のようだ。小鳥のさえずりや落ち葉が舞う音が、静けさにわずかな動きを添えていた。僕はベンチに腰を下ろし、空を見上げる。雲一つない青空が広がり、まぶしい日差しが街角に長い影を落としていた。 家路につきながら、ポケットの中のスマホを取り出す。今日は文字のメッセージではなく、目に映った景色をそのまま写真に収めることにした。手元の画面には、公園のベンチにかかる長い影、凍てついたブランコ、静かに舞う落ち葉、そして小さな子どもが指先で落ち葉をはじく瞬間が映っている。冬の光に照らされて輝くその手は、まるで街の静けさをそっと伝えているようだった。 自然と微笑みがこぼれる。写真を通して、僕の目に映った穏やかな朝の空気が、妻の手元に届くはずだ。「今日の街は、ほんの少しだけ優しく見えた」――そんな気持ちを、写真がそっと伝えてくれるような気がした。 街の静けさ...