投稿

1月, 2026の投稿を表示しています

【1000文字小説】早送りの人生

 一月の冷たい雨が降る午後、七緒は自室の机に向かっていた。テストは何曜日だったか、ふと思い出せなくなる。この静かな時間を期末試験の勉強に充てるはずだったが、七緒の意識はすでに遠く離れていた。 「ああ、全然頭に入ってこない」 しとしとと降る雨音は、雑念を増幅させていく。他愛のない妄想が次々に頭をよぎるが、一つだけ奇妙な雑念があった。それは自分の意思で考えているというより、誰かが勝手に自分の頭の中で映画を上映しているような、止めようのない映像だった。 ガラス張りの高層ビルのオフィスで働く自分。それは教科書の二次関数のグラフよりも、遥かに現実味を帯びていた。映像は止めどなく続く。今度は三十歳ごろの自分だ。薬指には結婚指輪。隣には見知らぬ男性が笑っている。楽しそうに笑っているはずなのに、彼の顔はなぜかぼやけて見えた。小さな子供を抱いた自分の姿。柔らかい光が差し込むリビングで、子供と遊ぶ自分。 映像は未来へ向かってどんどん進んでいく。まるで人生を早送りで見せられているようだ。時折、映像は砂嵐のように乱れ、次の場面へと唐突に切り替わる。このまま、自分が年老いて死んでしまう最後まで、この映像は続くのだろうか? 映像の中の子供が、無邪気な笑顔を七緒に向けた瞬間、七緒の口から自然と「翔太」という名前がこぼれた。なぜか子供の名前を知っていた。見たことのない未来の映像のはずなのに、深い既視感が伴っていた。 映像は続く。翔太がランドセルを背負い小学校に入学する姿。夫と二人で旅行に出かけ、海辺を歩く姿。様々な季節の移り変わり、友人たちとの別れと出会い、そして親しい人の葬儀。人生の喜怒哀楽が、まるで早回しのスライドショーのように次々と映し出されていく。どの場面にも、七緒は確かに「存在」していた。その記憶の断片は、初めて見るはずなのに、確かに自分のものだった。 これは未来の映像? いや、これは自分が経験してきた、過去の人生の映像を見ているのだ。高層ビルのオフィスも、結婚も、子供も、すでに経験した過去の出来事。今の自分は、遠い過去、高校時代に戻ってきているのだ。 七緒は、ぼんやりと開かれた数学の教科書に目を落とした。その瞬間、部屋のドアがノックされ、すぐに開いた。若い女性が顔を覗かせる。 「おばあちゃん、今日の夕飯はカレーだよ」 七緒は、誰かも分からないその人物を、茫然と見つめた。「……何...

【1000文字小説】一月に走る

 一月の空は透き通った青。北風が頬をくすぐるけど、寒さもなんだか気持ちいい。私は誰もいない球場の周りの道を、ひたすら走った。まだキャンプは始まっていないが、チームメイトも家でぬくぬくはしてないだろう。 男子のプロ野球、早く再開されないかな。今年も行われなさそうだし。帰ってきた人はコーチをしてくれるのはありがたいが、いったいいつになったら始まるんだろう。なんて考えながらも、私はペースを崩さず足を前に運ぶ。 去年は打率が三割に届かなくて、得点圏で打席に立つたび心臓がぐっと沈んだ。凡打を重ねたあの夜の悔しさは、まだ胸の片隅で小さく鳴っている。でも、思い出すだけで落ち込むのはもうやめ。だって今年こそは、絶対にレギュラーになりたいんだから。 息が白く上がるのを見ながら、「よし、今日も元気にいこう!」と自分に声をかける。足元に残る霜や凍った水たまりを避けながら、フォームや呼吸を意識してみる。走ることで体も温まるし、頭の中も整理できる。あの外野の守備ミスや凡打も、今なら少し笑える気がする。「去年の自分、ちょっと鈍すぎだよね」と、思わず笑いそうになる。 遠くに見える小さな神社の鳥居に目をやる。去年の春、ここを通りかかるたび「どうせ自分なんて」とへこんでいた私がいた。でも今は、誰もいない冬道を一人で走れるくらいには元気だ。寒さも孤独も、そんなに悪くない。むしろ、誰も見ていない時間にこそ、少しずつ強くなれる。 「おーい、がんばれー!」 突然、通り沿いの家から声がかかった。振り返ると、小学生くらいの女の子が手を振っている。思わず笑顔で手を振り返しながら、元気よく答える。 「応援ありがとー!」 足を止めるわけにはいかないけれど、声を交わすだけで少しだけ楽しくなる。冬の道も、ちょっと明るく感じた。 夕陽が街の瓦屋根をオレンジ色に染め、長い影の道を私は笑いながら走った。去年の自分を追い越す感覚が少しずつ体に染み込む。呼吸が苦しいときもあるけど、「男子のプロ野球、再開されたらどうする?」なんて考えて、気を紛らわせる。いずれ男子のリーグと女子のリーグで試合が出来たらどうだろうな。 冬の空気が肺を満たすたび、胸の奥にちょっとした熱が広がる。白い息をひとつ、風に溶かしながら、私は再びペースを上げた。キャンプが始まる頃には、去年の私を完全に追い越すつもりだ。誰よりも明るく、元気に、そしてちょっと...

【1000文字小説】消えない不機嫌な顔

 一月中旬の凍てつく寒さが肌を刺し、吐く息が白く染まる。再開発されたビル群の間に、古びた定食屋だけが取り残されたように佇んでいる。「めし処 とみや」の暖簾をくぐると、から揚げと味噌汁の匂いが懐かしく鼻腔をくすぐった。冷え切った身体に、店内の温もりがじんわりと染み渡る。無精ひげを生やした俺は、昔と変わらぬカウンターの端に座った。 「いらっしゃい!」威勢の良い声に顔を上げると、見慣れた顔が入って来た。元同僚の佐藤だ。少し癖のある髪と人懐っこい笑顔は、昔と変わらない。少しだけ頬の肉が落ちたように見えた。「あれ? もしかして、上田さん?」。彼は目を丸くしている。俺は驚きで声が出なかった。会社を辞めて十年、一度も会っていなかった。 「元気だったか。まさかここでまた会うとはな」 「ほんとにな。なんて偶然だ」 俺が会社を辞めた後、あの会社はしばらくして潰れたらしい。「もうとっくになくなったよ」と佐藤はあっさり言う。潰れたと聞いても今となっては遠い過去の出来事だ。 「こういう偶然って重なるもんだよな」と佐藤はニヤリと笑った。 その言葉に俺は店内に視線を巡らせた。そして、座敷席の隅に座っている男に目が止まった。嫌いだった元上司だ。白髪が目立ち、深い眉間のシワが、昔と変わらぬ険しい表情をさらに強調している。いつも不機嫌で、理不尽な要求ばかりしていた。今も変わらず、険しい顔で定食を食べている。 彼はこっちに気づいているだろうか。もう一度、そちらに視線を戻した。もしかしたら、上司の姿が消えてしまうのではないかと思ったのだが消えずにいた。幻ではないらしい。昔の会社にいた人間三人が偶然同じ時間に同じ店にいる確率は一体どれくらいだろう。 あの頃は、毎日のようにこの店で食事をしていたが、まさかまた同じ店で同じ時間を過ごすだなんて。佐藤との再会は温かい偶然だったが、上司との再会は冷たく奇妙な偶然だ。胸の奥に、あの頃の嫌な記憶がよみがえってくる。 食事を終えて店を出て、佐藤と別れ再びビル街の中を歩く。定食屋の温かい匂いは、冷たい風に掻き消されていった。懐かしい思い出と、不愉快な思い出。偶然が重なり合った今日の出来事を、俺はしばらく忘れることは出来ないだろう。その時、背後から声をかけられた。 「おい、上田。久しぶりじゃないか」 振り返ると、そこにいたのは元上司だ。俺は驚きで言葉を失った。人の嫌が...

【1000文字小説】連絡のある孤独

 宇宙ステーション「アルテミス」は地球から見れば小さな光点に過ぎなかった。冷戦後の技術競争は緩やかになり、民間資本と各国協力で建設されたこの施設は、まだ試験運用の域を出ていない。金属のフレームと灰色の内装材で組まれた通路には蛍光灯が淡く光る。窓の外には漆黒の宇宙、青白く光る地球。あと十年もすれば二十一世紀だと思うと、不思議な未来感が胸に広がる。 青年技術士の村上は、狭い通路を無重力で漂いながら、今日のメンテナンス手順をチェックしていた。ヘルメットは外している。手袋越しに握るレンチの冷たさが、孤独と緊張を伝えた。 半年間の生活に慣れたはずだが、胸の奥の不安は消えない。通信が途絶えたら?小さな機械の異常が命取りになったら?無重力での移動中、指先のわずかな滑りが事故につながる。心臓が早鐘を打つたび、地球の雨の匂いや彼女の手の感触が浮かぶ。深呼吸しても、胸の張りはすぐに戻る。 今日の任務は酸素循環装置のフィルター交換。手順は単純だが、一つのミスで酸素圧が危険水域に落ちる。レンチを取り出した指先が微かに震える。無重力では、わずかな油断が即座に事故に直結する。 突然、赤い警告灯が点滅した。酸素圧がわずかに低下している。胸が跳ね、呼吸が浅くなる。村上は考えた――通常なら通信で確認すべきだが、通路の長さと無重力移動のタイムロスを考えると、即座の判断が必要だ。 深く息を吸い、工具を握り直す。ネジを回す手が滑り、手袋の端から小さな血が滲む。指先に痛みが走る。しかし酸素圧は徐々に回復し、赤い点滅が消えた瞬間、村上は小さく息を吐く。肩の緊張は解けないが、心拍がようやく落ち着いた。 窓の外を見れば、黒い宇宙に瞬く星々と青白い地球。遠くの民間宇宙船が光を反射し、ゆらめく。通信装置のCRTディスプレイが光り、文字が手元の作業を正確に指示する。振動で表示が少し揺れるのも、無重力空間ならではだ。 地球から短いメッセージが届いた。 「作業は順調?無理せず、気をつけて」 文字だけのやり取りだが、胸の奥で安心が広がる。見守る誰かがいるという確信が、孤独を押し返した。 村上は工具を戻し、無重力の通路を慎重に移動する。空気循環の微かな振動、遠くで響く機械音、金属の冷たさ――すべてが生きている証だった。過去の恐怖も慎重な行動も、今日の生を支え、希望は小さくとも確かに、村上の手の中に残っていた。 <10...

【1000文字小説】彼女が大統領

 凍てつく真冬の夜、僕は駅前の繁華街を歩いていた。新年会帰りの人々で賑わう通りには、煌々と灯るハンバーガーショップ「ロンド」もあった。暖かい光の中から、見覚えのある顔が出てきた。元アルバイト仲間のリナだ。声をかけると、驚きの表情の後に、昔のような笑顔がすぐに戻った。 「久しぶり」 「新年会帰りなんだ。そっちは仕事帰り?」 「ええ、そう。懐かしくて、店に入ってみたの」 僕たちは近くの喫茶店に入り、コーヒーを注文した。窓の外には雪がちらつき始め、カップから立ち上る湯気が、胸の奥に温かさを運んでくる。目の前に広がる光景は、かつてバイト仲間と過ごした日々を、まるで呼び覚ますかのようだった。パティを焼く音、フライヤーの熱気、注文を叫ぶ声──あの小さな戦場で、僕たちは毎日を必死に駆け抜けていた。 「ねえ、ミオのこと覚えてる?」リナが突然口にした。もちろん覚えている。あの頃、僕の彼女にしたい娘No.1だったミオだ。休憩時間には世界旅行の本ばかり読んで、僕は一緒に世界を巡る妄想にふけっていた。 「ミオ、大統領になったわよ」 思わず吹き出しそうになった。でもリナの瞳は真剣で、嘘ではないことが伝わってくる。確かに、そんなネットニュースは見た記憶がある。遠い異国のニュース記事の向こうに、あのミオが存在している──信じがたくも、妙に納得できる事実だった。 バイト初日、慣れない制服を着たミオは、マニュアル通りにチーズを刻む僕たちの手元をちらりと見た後、無言でナイフを取り上げた。そして滑らかにチーズを薄く、均等に、完璧な厚さにスライスした。注文を間違えそうなお客には、すっと駆け寄り、「こちらがご希望ですよね」と笑顔で差し出す。その自然な気配りに、僕たちは心を奪われた。 「ロンド」には業務改善案を提出できる「アイデアボックス」という制度があった。ミオは初日からフル活用し、ポテトの塩加減や新メニューの提案、シフトの効率化、販促戦略まで次々にアイデアを出した。僕はその姿に、ただ圧倒されるばかりだった。 「変なハンバーガーも作ってたな。鯨バーガーとか」 「苦瓜バーガーは不味かったわ」 試作品が不味くても、ミオは「アフリカでは飢えて死ぬ子もいるのよ」と言って、すべて平らげる。小さな店での力強さが、今の大きな成果につながる予感さえあった。 コーヒーが冷めていくのも忘れ、僕たちは思い出話に没頭する。...