【1000文字小説】根のない庭
ユミは軌道上植物実験モジュールの中央に座っていた。
窓の外には地球の青い曲面が広がる。光は冷たく反射し、彼女の視線はその青を透かして、モジュール内の植物群に触れられないままだった。
モジュールには自律成長型の苔類と微小植物が数百株、密閉された培養液タンクで育っている。
温度22.0℃±0.5℃、湿度55%±2%、CO₂濃度400ppm±3、pH6.8±0.05、微量栄養素濃度も計算通り。すべて精密に管理され、根も土も存在しない。
ユミは指先を苔の表面にかすかに触れた。
苔は微細に振動し、触覚センサーは反応する。だが、柔らかさも湿り気も、匂いも存在しない。指に返るのは、冷たく規則正しい電気信号だけ。その規則が、ほんの一瞬だけ乱れ、指先に「湿り気に似た誤差」が残った。
目を閉じると、地球の庭の記憶が浮かぶ。湿った土、絡みつく蔓、葉先に落ちる雨粒。
現実にはない。触れられない。
計算通りに生きる苔だけが、光を吸収し、数字として点滅している。
「…生きている…のに、触れられない…」
声はマスクのスピーカーを通して反響するだけで、誰にも届かない。
培養液の循環パイプは静かに唸り、微細な水流が苔を揺らす。
だが、揺れは予測可能で、すべて計算されている。偶然も感触も存在しない。
ユミの指先が苔に触れるたび、心理的時間が乱れ、胸の奥の欠落が波打った。
数字が正確に点滅し、光合成効率が計測される。
苔は“生きている”。
でも、生の感触はない。
彼女は苔の列の間を歩き、指先で光合成センサーに触れる。
視界の端に、光がちらつく。数字が乱れる瞬間、微細な光の欠片が揺れる。
それは、かつての庭の記憶の残像のようで、胸をかすめるだけで消える。
匂いも風も湿り気もない、ただ光の残像と、冷たい計算だけ。
ユミは最後に培養液循環を止めず、その場を離れた。
苔は光を吸収し、数字は点滅し続ける。
根はなく、匂いはなく、温もりはない。
ただ、彼女の胸の奥にざらつきと切なさだけが残った。
時間が経っても、その痛みは消えない。
計算された「生」の横で、心理的な欠落だけが、軌道上のモジュールに漂っていた。