【1000文字小説】タイムコードの終わり
アリサは軌道上の時空圧縮ラボで、端末に座り、無機質な光に顔を照らされていた。
スクリーンにはユウジの通信ログが再生される。笑い声、言い争い、些細な約束。だが、ログはランダムにちらつき、文字列も音声もわずかにずれている。
「こうなることはわかっていたのに…」
微小重力下で吐息が揺れる。
ユウジは火星軌道近傍の通信ステーションにおり、距離は約7.8×10⁷km。光速通信では片道260秒の遅延。さらに時空圧縮により、彼の時間軸は1:1.5に伸縮している。
端末に映るユウジの笑顔は、断片化された時間の影のように跳ね、音声は微妙に早送りと巻き戻しを繰り返す。
「…あ…りさ…?」「笑っ…うの…止め…」
文字列も声も微細に欠け、時間差の痛みがスクリーンのノイズとして立ち上がる。
アリサは指先でログを巻き戻す。断片が跳ねるたび、胸が痛む。
科学者として合理的に分析すれば、リアルタイムの会話は不可能だ。
恋人として、これは現実だと信じたかった。
「実験を優先した…のに、なぜ恋人のままだったんだろう」
心理時間と物理時間の差が彼女の心を裂く。
ラボは完璧に安定している。気圧101.3kPa、酸素濃度21%±0.2%、温度22℃±0.1℃、CO₂吸着フィルターと酸素循環装置が規則的に振動する。
正確に刻まれる物理時間の中で、心理時間だけが暴走していた。
ログはさらに断片化し、ちらつきが増す。
「…待って…」「声…届かない…」
言葉は破片となり、笑顔は視覚的ノイズになって胸に突き刺さる。
アリサはそれを握りしめ、痛みを抱き続ける。
ついに彼女はログを削除した。
スクリーンが暗転し、声も笑顔も消えた。
だが、心理的時間の残響は消えない。
端末の残照とラボ内の微細な振動が、孤独と時間差の痛みを正確に反射する。
科学者としての合理と恋人としての執着が交錯する世界で、アリサは、消えた声の残滓を抱え、時間の裂け目に取り残されたまま、軌道上に浮かんでいた。
ランダムにちらつくログの残像が、彼女の胸の奥でずっと揺れている。
削除されたはずのログは、バックアップに一行だけ残っていた。
それはユウジの声ではなく、アリサ自身の「また明日」という言葉だった。