【1000文字小説】削れていく音
古いアパートの三階、狭い部屋の窓辺にジンは座っていた。午後の光は薄曇りの空を通して弱々しく差し込み、机の上の譜面と使い込まれたバイオリンを淡く照らす。シンクの脇に置かれたコーヒーカップには茶渋がこびりつき、洗われないまま乾いていた。
街の音は遠い。かすかな車の走行音と、どこかで鳴く鳥の声だけが、薄い膜のように部屋を包んでいる。ジンは弓を持つ手を止め、窓の外を見た。通りの向こうで、子どもたちが無邪気に笑いながら走り回っている。その軽い声が耳に届いた瞬間、胸の奥がわずかに縮む。古い河川敷で、同じように笑いながら走っていた自分の背中が、一瞬だけ浮かんだ。理由を考えるのはやめて、息を吐いた。
音楽学校を卒業して、もう数年が過ぎた。都会に出て、演奏の仕事を探した。小さなコンサート、入れ替わりの激しいカフェ、イベントの余興。封筒に入った報酬はいつも薄く、帰りの電車賃と食費で消えた。今月の家賃も、アルバイトで稼いだ金をかき集めて、ようやく払ったばかりだ。
オーディションの結果は、ほとんどがメール一通だった。「今回はご縁がありませんでした」──何度読んでも、その文面に自分の名前がある意味は感じられなかった。
今日も譜面を繰り返し追い、音程を確かめていた。だが、弓を返した拍子に力がずれ、弦が一瞬だけ軋んだ。キィ、と乾いた音が部屋に残る。思っていたより、音が小さい。ジンはそのことに、なぜか強く苛立った。
譜面が床に散らばる。拾い上げようとして腰を浮かせ、途中で動きを止めた。指先が汗ばんでいる。たったそれだけで、胸に溜まっていた疲労感が一段沈む。財布を開くと、小銭が数枚あるだけだった。今夜のバイト代で、明日の昼をどうにかするしかない。棚の奥に残ったカップラーメンに目をやり、硬くなり始めたパンを手に取る。生活の不安は、考えなくても胸を締め付ける。
下の階から、ピアノの音が聞こえた。上手いわけではないが、指が迷わず進んでいく。ジンは不意に、ピアノの音に自分の無力さを重ね、苛立ちを覚えた。だが次の瞬間、弓を構える手が自然に動く。微かに震える指先で弦に触れる。弓の圧を調整しながら、心の奥で音を「聴く」ように集中する。
音は重なったが、空気はわずかに震えるだけだった。音楽で何かを証明しようと考え、すぐにやめた。証明しても、明日の家賃は払えないし、空腹も消えない。窓の外では、通りの向こうに小さな紙袋を抱えた少女が走っていた。光の加減で、彼女の影が自分の背中と重なった気がした。ジンはその影に微かな共感を覚え、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
やがてピアノの音が途切れ、静寂が戻る。部屋には拍手も、声も、慰めも残らなかった。ただ、次の予定だけが頭に浮かぶ。今夜はコンビニ、明日の昼はカフェの皿洗い。報酬は昨日と同じで、生活も同じようにぎりぎりだ。
夕暮れが窓を橙色に染め、譜面の影が壁に歪む。ジンはバイオリンをケースに戻し、蓋を閉めた。その瞬間、音が完全に消える。耳の奥に、さっきの軋んだ一音だけが残った。音の消えた部屋で、遠ざかっていく足音と、前を向いて走る誰かの背中を追いかけ損ねた気がした。今日も何も変わらなかった。音は鳴らされるたびに削れていき、削れた分だけ、また明日が来る。