【1000文字小説】静止軌道管制記録
静止軌道上、通信中継衛星《オルフェウス3》は、定常運用状態にあった。
管制卓に座る佐伯直人は、数値を確認しながら、異常が「起きないこと」を確認し続けていた。
衛星管制の仕事は、事件を起こさないことだ。問題が発生すれば即座に気づかなければならないが、理想的な一日は、何も起きずに終わる。
《オルフェウス3》は、地上局と低軌道衛星群、月周回通信網をつなぐ中継点として機能している。通信量は多いが、内容は彼の管轄外だ。管制官が扱うのは意味ではなく、状態である。温度、電力、姿勢、同期位相。すべてが規定値内にあるかどうか。
定時ログを確認していたとき、直人は一つの値に目を留めた。
姿勢制御用リアクションホイールの回転数が、平均値からわずかにずれている。誤差は許容範囲内。アラートは出ない。
「経年劣化か」
独り言のように呟き、過去ログを呼び出す。
三か月前から、同じ傾向がある。わずかずつ、確実に。
ホイールは消耗品だ。いつかは交換される。その「いつか」を判断するのが、彼の仕事だった。早すぎれば無駄になり、遅すぎれば衛星は制御不能になる。
交換は無人で行われる。
サービス機が接近し、停止中のホイールを切り離し、新しいものを取り付ける。その間、《オルフェウス3》は姿勢を失う。数分間、通信は途切れる。
世界中の通信が、その数分に影響を受ける。
直人は影響範囲をシミュレーションにかける。金融取引、航空管制、遠隔医療。代替経路は存在するが、完全ではない。冗長化は万能ではない。常に、どこかが薄い。
「今じゃない」
そう判断し、交換を先延ばしにする。
ログには理由を書かない。ただ、判断結果だけが残る。
数時間後、回転数は元に戻った。外乱か、内部補正か。理由は分からない。分からなくても、正常に戻った事実だけが重要だ。
勤務終了時刻が近づく。
次の管制官への引き継ぎメモを入力しながら、直人は考える。自分の仕事は、何を残しているのだろうか。
成果はない。論文も出ない。
あるのは、起きなかった事故の数だけだ。
交代の時間になり、管制卓を離れる。
背後で、《オルフェウス3》は静かに地球を見下ろし続けている。誰にも意識されることなく、通信を通し、世界をつないでいる。
直人は最後にモニターを振り返り、確認する。
すべて、規定値内。
それでいい。
今日も、世界は途切れなかった。