【1000文字小説】目覚めの時刻

 早朝、いつもの控えめな電子音が――鳴らない。

白尾恵は、疲れが残る頭で手を伸ばしたが、空を切った。

ここ数日は残業続きで帰宅が遅く、自分の生活が少し崩れていることを恵自身わかっていた。だからこそ、目覚まし時計だけは毎晩きっちりセットする。それは彼女が乱れがちな日々の中で唯一守っている“生活の柱”だった。


なのに、目覚まし時計がない。


ベッドサイドにあるはずのそれが忽然と消えていた。昨夜、確かに位置を確認したのに。胸の奥に小さな嫌な重みが沈む。部屋を歩くたび、床がいつもより冷たく感じられた。枕の下、ベッドの下、窓際、本棚の裏――どこにもない。


「そんなはず、ないよね……」


窓は施錠され、玄関のチェーンもかかったまま。乱れた気配もない。それなのに、妙なひんやりした空気が部屋を撫でる。誰かがついさっきまでいたような、消えたばかりのような、そんな気配だけが残っていた。


出勤途中、恵は何度か振り返った。背後に誰かの視線が張り付いているような錯覚が離れない。会社に着いても集中できず、キーボードを叩く手が震えた。もし誰かが家に入れるとしたら。もしそれが“人”ではない何かだったとしたら。次に失われるのは、物ではなく、自分自身の何かだったら……?


夕方、薄暗い廊下を歩きながら、恵は胸が締めつけられるのを感じた。エレベーターの鏡に映る自分の顔が、いつもより少し痩せ、影が濃いように見える。


部屋に入ると、空気が静まり返っていた。けれどその静けさが、異様に深い。恵は明かりをつけ、部屋の隅から隅まで確認した。異常は、ない。

だが台所へ向かったとき、不意に昨夜の曖昧な記憶がよみがえる。夜中、喉が渇いて水を飲んだ……その時、ぼんやりと目覚まし時計を手にしていたような。


戸棚を開けると、奥に目覚まし時計がひっそり置かれていた。

「なんだ……寝ぼけてたんだ、ただの私のミス……」

安堵と恥ずかしさで恵は頬を押さえた。


けれど、ベッドサイドテーブルに戻った瞬間、恵の足が止まる。

そこには——既に目覚まし時計が置かれていた。


戸棚から持ってきた時計と、テーブルの時計。

二つは全く同じ。細かい傷の位置までも。


その時、部屋の空気がふっと揺れた。温度が一瞬だけ落ちたように感じた。

次の瞬間——


二つの時計がまったく同じ時刻を指し、同時に鳴り出した。

電子音は不気味に重なり合い、恵の胸に、説明のつかない確信が走った。

“もう一人の自分の時間”が、どこかで動き出している。


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