【1000文字小説】雨の後に残る景色
雨が降る直前の空気は、いつも少しだけ鉄の匂いがする。
悠真は自転車置き場の屋根にもたれ、スマートフォンの画面を見下ろしていた。
『今日、行けなくなった』
短いメッセージの下に、既読だけが静かに残っている。
送り主は春樹だった。
文化祭まであと一週間。
二人で出す予定だった写真展示は、まだ半分も完成していない。
けれど最近、春樹は部活や模試を理由に、ほとんど準備に来なくなっていた。
空は灰色だった。
校庭ではサッカー部が練習を続けている。遠くでホイッスルが鳴るたび、風が少しざわつく。
悠真はスマートフォンをポケットへ戻した。
怒っているのか、呆れているのか、自分でもよく分からなかった。
写真部の部室へ入ると、薬品の匂いが微かに残っていた。
古いパソコンのファン音だけが部屋に響いている。
壁には現像した写真がいくつも吊るされていた。
夕暮れの商店街。
踏切。
雨の日のバス停。
どれも春樹が撮った写真だった。
人のいない景色ばかりなのに、不思議と温度があった。
悠真は椅子に座り、展示用のパネルを眺める。
本当は、春樹の写真が好きだった。
光の使い方も、構図も、自分には思いつかない視点ばかりで。
だから一緒に展示をやろうと言われた時、少し嬉しかった。
けれど最近の春樹は、カメラを持っていてもどこか上の空だった。
進学クラスに入ってからだ。
周囲はみんな志望校の話をしている。
部活を辞める生徒も増えた。
春樹も、何かを置いていかないといけないような顔をしていた。
窓の外で雷が鳴った。
その時、不意に部室の扉が開く。
振り返ると、春樹が立っていた。
制服の肩が少し濡れている。
「……来たんだ」
「ちょっとだけ」
春樹はそう言って、机の上の写真を見た。
沈黙が落ちる。
雨が屋上を叩き始めた音だけが広がった。
「怒ってる?」
先に口を開いたのは春樹だった。
悠真は少し考えてから答える。
「分かんない。でも、なんか……途中でいなくなられてる感じはする」
春樹は目を伏せた。
「最近、写真撮っても楽しくないんだよ」
ぽつりと落ちた声は、雨音に半分溶けた。
「みんな先のこと考えてるのに、なんかさ」
春樹は吊るされた写真を見る。
「こんなの撮ってて意味あるのかなって」
悠真は反射的に言い返そうとして、やめた。
正論をぶつけても、たぶん違うと思った。
代わりに、一枚の写真を手に取る。
駅前の歩道橋を写した写真だった。
夕焼けの中、誰もいない階段だけが赤く染まっている。
「俺、この写真好きだけど」
春樹は黙ったまま聞いている。
「なんでか分かんないけど、ちゃんと“そこにいた感じ”するから」
うまく説明できなかった。
でも、春樹の写真には、景色を見た人間の呼吸みたいなものが残っていた。
それは点数とか実績とかとは別のところにある気がした。
雨脚が少し強くなる。
春樹は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「……たぶん俺、写真やめる」
悠真は何も言えなかった。
その言葉が、思ったより静かに胸へ沈んだ。
「親にも言われたんだ。中途半端なら、ちゃんと勉強しろって」
春樹は苦笑する。
「まあ、正しいんだけど」
部室の隅で、プリンターが低く唸っている。
誰も触っていないのに、機械だけが働いていた。
「展示、どうする」
悠真が聞くと、春樹は少し間を空けて答えた。
「悠真一人で出してよ。写真、好きなの、お前の方だし」
違う、と言いかけてやめた。
それを否定したところで、春樹を引き止められる気がしなかった。
窓の外で、雨が白く街を霞ませている。
春樹は机の上のカメラに触れたあと、そのまま手を離した。
「じゃあ、俺もう行く」
扉へ向かう背中は、思っていたよりあっさりしていた。
悠真は呼び止めなかった。
呼び止めたところで、たぶん戻れないことを、どこかで分かっていた。
扉が閉まる。
部室には、雨音だけが残った。
悠真はしばらく動けずにいた。
やがて、壁に吊るされた写真へ目を向ける。
踏切。
夕暮れ。
人気のない歩道橋。
どの景色にも、確かに春樹の視線が残っていた。
悠真は一枚の写真を外し、静かに机へ置いた。
窓の向こうで、雨はまだ降り続いていた。