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3月, 2014の投稿を表示しています

【1000文字小説】九階と別の階

 夏未はマンションの九階に住んでいる。エレベーターはいつも当たり前のように、その階まで彼女を運ぶ。特別な事ではない。当たり前。彼女の毎日は、いつも当たり前の事ばかりだ。朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行き、帰って、宿題をして、ゲームをして、テレビを見て、寝る。 でも、マンションのエレベーターに誰も乗っていないとき、彼女の毎日は特別な時間になる。今日も習い事から帰ってきた彼女の前に、エレベーターの扉が開いた。中には誰もいない。彼女はそっと乗り込み、九階のボタンを押す。本当の世界は、きっともっとわくわくするはずだ。少し躊躇してから、七階のボタンを押した。 エレベーターが動き出す。一階、二階、三階。数字がぽん、ぽん、と変わっていく。彼女は息をひそめて、七階に止まるのを待つ。七階のランプが点滅し、扉が開く。そこには誰もいない。夏未は、少しだけがっかりした。今日も、いつもの七階だ。エレベーターは九階に着いた。 次の日、今度は五階のボタンを押してみる。五階の扉が開くと、そこには、隣のクラスの男の子が立っていた。 「よっ」 男の子は夏未に気づいて、手を上げた。 「恐竜、好きなのか」 男の子がそう尋ねてきた。夏未がいつも恐竜の模様のキーホルダーをつけているからだ。 「…うん」 夏未は小さな声で答えた。男の子はにっこり笑った。 「俺も好き。いつか、本物の恐竜、見てみたいな」 自分だけの秘密だと思っていた扉の鍵を、彼がそっと回した気がした。だがここも、いつもの五階だ。 夏未がエレベーターで二つの階を押すようになったのは、友達から聞いた話がきっかけだ。 「エレベーターに一人で乗って、行き先の階ともう一つ別の階を押すと、異世界に繋がる」 胸がわくわくして、心臓がいつもより速く動いているような気がした。もし別世界があるのなら、大好きな恐竜が歩き回っている世界だといいな、と思っていた。九階のボタンを押したあとに、もう一つの階のボタンを押す。それは、異世界への扉を開ける為の、特別な呪文のようなものだ。 今日も、夏未は一人でエレベーターに乗った。九階のボタンを押してから、今度は四階を押した。エレベーターが四階に着くと、扉が開く。誰もいない。そこに広がっていたのは、いつもの、当たり前の、マンションの廊下だった。だが夏未は空いた扉の向こうに、五階の彼の笑顔が見えるような気がした。静かに、扉が閉ま...

【1000文字小説】ハチとお散歩

 曇天の空の下、結はアスファルトの歩道を歩いていた。まだ冷たい空気が肌を刺すが、日差しの強さが冬とは違うことを教えてくれる。グレーのダウンジャケットに身を包んだ結の足元には、茶色い毛並みの柴犬がついてくる。ピンと立った耳、くるりと巻かれた尻尾。犬は小刻みに歩幅を合わせながら、地面に鼻先をこすりつけていた。 「お小遣い、上げてくれるかな。高校生になるんだからね」 結は愛犬に話しかける。ハチと呼ばれた柴犬は、ちらりと結を見上げたかと思いきや、次の瞬間には道の脇に生えた枯れ草の匂いを嗅ぐのに夢中になり、まるで結の言葉など聞こえていないかのようだ。 「バイトでもするか。でも、怖いよなぁ」 結の声は、風に溶け込むように小さかった。ハチは電信柱の匂いを嗅ぎ、足を上げて用を足す。結は水を入れたペットボトルを準備し、淡々と後始末をする。ハチは満足したのか再び歩き始める。 公園に入ると、地面は一部が露出して土が濡れていた。ブランコは錆びつきシーソーは傾いたまま動かない。雪が解けきっていない芝生には、小さな足跡がいくつもついていた。ハチは芝生の上を駆けていくが、結が「ハチ、あまり遠くに行っちゃダメだよ」と声をかけても、自分の興味のある匂いを追いかけていく。 バイトの求人サイトで見た、明るく笑う高校生の写真。それは自分とは違う眩しい世界に見えた。面接でうまく話せるだろうか。初めての仕事で失敗しないだろうか。アットホームって何? 色んなことを考えていると足がすくむ。 「うちが大金持ちだったらなあ。お小遣いは百万円ぐらい。厚底スニーカーも、流行りの小さめのショルダーバッグも、限定色のリップも、コスメセットも、あと、あれ、みんなが持ってるハローキティのご当地キーホルダーも、この前SNSで見た、すごく可愛いスイーツも食べてみたいし、友達と遊びに行くための交通費も、カラオケ代も、映画代も、服も、服も、服も…。百万円じゃ足りないな」 冷たいベンチに腰を下ろすと、結は深くため息をついた。吐き出された白い息が、一瞬で空気に溶けていく。 「ハチ、お前もお金持ちの家の子だったらよかったよね」 だが、ハチは結の言葉に耳を傾けることなく、芝生の上をぐるぐると回り、残った雪に前足を突っ込んでじゃれついていた。その無邪気な姿に、結は少しだけ笑みをこぼし、ふっと力が抜けるのを感じた。ハチは地面の匂いを嗅ぐのを...

【1000文字小説】夢の分かれ道

 旧式の薄暗い喫茶店でホンダは笑っていた。少しだけ顔が丸くなった笑顔で言う。 「まさか、お前がまだあの会社にいるなんてな」 ホンダは当時、事あるごとに言っていた。「宝くじが当たったら、こんな会社辞めてやる」と。俺たちの部署は、いつも上司の理不尽な指示に振り回されていた。だからホンダのその言葉は皆の共感だった。そして彼は有言実行。宝くじを手に三億円当たったぞと宣言し、にこにこした顔で上司に退職届を突きつけ、颯爽と会社を去っていった。俺は驚き、そして羨ましく思ったのを覚えている。 あれから一年後。街で偶然ホンダに会った。高級そうなスーツを着こなし、上機嫌だった。五年後にまた偶然出会った時、彼の様子は変わっていた。スーツは安っぽくなり、顔色も悪く、話すのは金の苦労話ばかりだった。宝くじの三億円はあっという間に使い果たし、慣れない投資で失敗し、結局何も残らなかったのだと知った。 「絶対に儲かるんだって。お前は慎重だから上手くいくさ」 そう言って、怪しげなパンフレットを差し出すホンダに、俺はただ苦笑いするしかなかった。 それから三十年。ホンダは相変わらず金に苦労しているようだ。 「まぁ、上手くやったのは最初だけさ。最後は、金も友人も失って、独りぼっちだ。宝くじが当たったことなんて、今となっては後悔しかないよ」 ホンダはそう言って、寂しそうにグラスの水を飲んだ。 「お前は、えらいよ。あの会社で三十年も頑張り続けたんだから」 ホンダの言葉に、俺は少し複雑な気持ちになった。 「いや、そんなたいしたもんじゃないよ」 三十年という月日が、俺とホンダを全く違う道へと導いたことを、改めて感じた。俺も実はあの時会社の帰りに買った宝くじで、三億円が当たっていたのだ。しかし、ホンダが辞め、もし俺も辞めたら三億円が当たったことがバレてしまう。宝くじが当たった後は、知らない親戚が次々に現れたり、金遣いが荒くなってかえって貧乏になったりするという話を聞く。俺は、そんな噂通りの人生を歩むのが怖かった。だから俺は宝くじのことは誰にも言わず、会社に残り続けた。イヤな上司も、三億円持ってると思うと、あまり気にならなくなった。心に余裕があるせいか、会社では出世して上司もいつの間にか部下になっていた。三億円はほとんど手付かずで残っている。いざとなればいつでも会社を辞めて使える、その心の余裕が、俺の人生を豊...

【1000文字小説】二人が見た猫

 真司は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。隣で眠る妻、麻衣の寝息が聞こえる。まだ夢の中で目を覚ます気配はない。冬用の分厚い羽毛布団が麻衣の身体をすっぽりと包み込んでいる。真司は会社の健康診断で「ちょっと体重を減らしましょう」と言われた。それを聞いた麻衣が「まずは散歩は?」と自身がダイエットに成功した朝のの散歩を勧めてきたのだ。 真司はそっとベッドから抜け出し、リビングの窓を開けた。3月の冷たい空気がまだ眠りから覚めない街の匂いを運んでくる。東の空には夜の帳がわずかに残る深い青色と、夜明けの淡いオレンジ色が混じり合い、神秘的なグラデーションを描いていた。 まだ街灯が消えきらない通りを、真司はゆっくりと歩き出す。仕方なく始めた散歩だったが、朝の静寂の中静かに揺れる木の葉が印象に残ったのをきっかけに、今では欠かせない日課になった。先週降り積もった雪はすっかり溶け、アスファルトの隙間から緑の芽が顔をのぞかせている。近所の公園に差し掛かる頃にポケットに入れていた手を抜き大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺の奥まで染み渡り、体に溜まった澱を洗い流してくれるようだ。 ふと視線を上げると、視界の隅で何かが動いた。住宅街の塀の上を、一匹の黒い猫が悠然と歩いている。猫は一度立ち止まり、真司の存在を確認するように振り返る。その瞳は朝焼けの光を映さず、漆黒の夜のままだった。猫は再び歩き出し、角を曲がって姿を消した。その後を追うように、小学生くらいの女の子が小走りでやってくる。「待ってよ、くろ!」女の子は塀の角で立ち止まり、消えた猫をしばらく探した。「もう、また逃げられちゃった」顔はよく見えないが、残念そうに呟く声が朝の静かな空気に吸い込まれていく。 自宅に戻ると麻衣が朝食の準備をしていた。「おかえり」と迎える麻衣の楽しそうな顔は、先ほど猫を追いかけていた少女の面影がどこかあるように思えた。 「ねぇ」麻衣が湯気の立つ味噌汁を差し出しながら、ふいに言った。「さっき夢を見たの。あなたに会ったわ。いつもの道で。猫を追いかけてたの」 「へぇ」いつもは夢の話など軽く流す真司だが、先ほどの少女は夢の中の麻衣が出てきたように思われて仕方がない。「でも逃げられちゃった」麻衣が残念そうに呟く声が先ほどの少女の声と重なる。残念そうな表情だが、どこか楽しそうな微笑みを浮かべている。味噌汁の湯気を見つめながら、...