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【1000文字小説】夢の分かれ道

 旧式の薄暗い喫茶店でホンダは笑っていた。少しだけ顔が丸くなった笑顔で言う。 「まさか、お前がまだあの会社にいるなんてな」 ホンダは当時、事あるごとに言っていた。「宝くじが当たったら、こんな会社辞めてやる」と。俺たちの部署は、いつも上司の理不尽な指示に振り回されていた。だからホンダのその言葉は皆の共感だった。そして彼は有言実行。宝くじを手に三億円当たったぞと宣言し、にこにこした顔で上司に退職届を突きつけ、颯爽と会社を去っていった。俺は驚き、そして羨ましく思ったのを覚えている。 あれから一年後。街で偶然ホンダに会った。高級そうなスーツを着こなし、上機嫌だった。五年後にまた偶然出会った時、彼の様子は変わっていた。スーツは安っぽくなり、顔色も悪く、話すのは金の苦労話ばかりだった。宝くじの三億円はあっという間に使い果たし、慣れない投資で失敗し、結局何も残らなかったのだと知った。 「絶対に儲かるんだって。お前は慎重だから上手くいくさ」 そう言って、怪しげなパンフレットを差し出すホンダに、俺はただ苦笑いするしかなかった。 それから三十年。ホンダは相変わらず金に苦労しているようだ。 「まぁ、上手くやったのは最初だけさ。最後は、金も友人も失って、独りぼっちだ。宝くじが当たったことなんて、今となっては後悔しかないよ」 ホンダはそう言って、寂しそうにグラスの水を飲んだ。 「お前は、えらいよ。あの会社で三十年も頑張り続けたんだから」 ホンダの言葉に、俺は少し複雑な気持ちになった。 「いや、そんなたいしたもんじゃないよ」 三十年という月日が、俺とホンダを全く違う道へと導いたことを、改めて感じた。俺も実はあの時会社の帰りに買った宝くじで、三億円が当たっていたのだ。しかし、ホンダが辞め、もし俺も辞めたら三億円が当たったことがバレてしまう。宝くじが当たった後は、知らない親戚が次々に現れたり、金遣いが荒くなってかえって貧乏になったりするという話を聞く。俺は、そんな噂通りの人生を歩むのが怖かった。だから俺は宝くじのことは誰にも言わず、会社に残り続けた。イヤな上司も、三億円持ってると思うと、あまり気にならなくなった。心に余裕があるせいか、会社では出世して上司もいつの間にか部下になっていた。三億円はほとんど手付かずで残っている。いざとなればいつでも会社を辞めて使える、その心の余裕が、俺の人生を豊...

【1000文字小説】二人が見た猫

 真司は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。隣で眠る妻、麻衣の寝息が聞こえる。まだ夢の中で目を覚ます気配はない。冬用の分厚い羽毛布団が麻衣の身体をすっぽりと包み込んでいる。真司は会社の健康診断で「ちょっと体重を減らしましょう」と言われた。それを聞いた麻衣が「まずは散歩は?」と自身がダイエットに成功した朝のの散歩を勧めてきたのだ。 真司はそっとベッドから抜け出し、リビングの窓を開けた。3月の冷たい空気がまだ眠りから覚めない街の匂いを運んでくる。東の空には夜の帳がわずかに残る深い青色と、夜明けの淡いオレンジ色が混じり合い、神秘的なグラデーションを描いていた。 まだ街灯が消えきらない通りを、真司はゆっくりと歩き出す。仕方なく始めた散歩だったが、朝の静寂の中静かに揺れる木の葉が印象に残ったのをきっかけに、今では欠かせない日課になった。先週降り積もった雪はすっかり溶け、アスファルトの隙間から緑の芽が顔をのぞかせている。近所の公園に差し掛かる頃にポケットに入れていた手を抜き大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺の奥まで染み渡り、体に溜まった澱を洗い流してくれるようだ。 ふと視線を上げると、視界の隅で何かが動いた。住宅街の塀の上を、一匹の黒い猫が悠然と歩いている。猫は一度立ち止まり、真司の存在を確認するように振り返る。その瞳は朝焼けの光を映さず、漆黒の夜のままだった。猫は再び歩き出し、角を曲がって姿を消した。その後を追うように、小学生くらいの女の子が小走りでやってくる。「待ってよ、くろ!」女の子は塀の角で立ち止まり、消えた猫をしばらく探した。「もう、また逃げられちゃった」顔はよく見えないが、残念そうに呟く声が朝の静かな空気に吸い込まれていく。 自宅に戻ると麻衣が朝食の準備をしていた。「おかえり」と迎える麻衣の楽しそうな顔は、先ほど猫を追いかけていた少女の面影がどこかあるように思えた。 「ねぇ」麻衣が湯気の立つ味噌汁を差し出しながら、ふいに言った。「さっき夢を見たの。あなたに会ったわ。いつもの道で。猫を追いかけてたの」 「へぇ」いつもは夢の話など軽く流す真司だが、先ほどの少女は夢の中の麻衣が出てきたように思われて仕方がない。「でも逃げられちゃった」麻衣が残念そうに呟く声が先ほどの少女の声と重なる。残念そうな表情だが、どこか楽しそうな微笑みを浮かべている。味噌汁の湯気を見つめながら、...