【1000文字小説】二人が見た猫
真司は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。隣で眠る妻、麻衣の寝息が聞こえる。まだ夢の中で目を覚ます気配はない。冬用の分厚い羽毛布団が麻衣の身体をすっぽりと包み込んでいる。真司は会社の健康診断で「ちょっと体重を減らしましょう」と言われた。それを聞いた麻衣が「まずは散歩は?」と自身がダイエットに成功した朝のの散歩を勧めてきたのだ。
真司はそっとベッドから抜け出し、リビングの窓を開けた。3月の冷たい空気がまだ眠りから覚めない街の匂いを運んでくる。東の空には夜の帳がわずかに残る深い青色と、夜明けの淡いオレンジ色が混じり合い、神秘的なグラデーションを描いていた。
まだ街灯が消えきらない通りを、真司はゆっくりと歩き出す。仕方なく始めた散歩だったが、朝の静寂の中静かに揺れる木の葉が印象に残ったのをきっかけに、今では欠かせない日課になった。先週降り積もった雪はすっかり溶け、アスファルトの隙間から緑の芽が顔をのぞかせている。近所の公園に差し掛かる頃にポケットに入れていた手を抜き大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺の奥まで染み渡り、体に溜まった澱を洗い流してくれるようだ。
ふと視線を上げると、視界の隅で何かが動いた。住宅街の塀の上を、一匹の黒い猫が悠然と歩いている。猫は一度立ち止まり、真司の存在を確認するように振り返る。その瞳は朝焼けの光を映さず、漆黒の夜のままだった。猫は再び歩き出し、角を曲がって姿を消した。その後を追うように、小学生くらいの女の子が小走りでやってくる。「待ってよ、くろ!」女の子は塀の角で立ち止まり、消えた猫をしばらく探した。「もう、また逃げられちゃった」顔はよく見えないが、残念そうに呟く声が朝の静かな空気に吸い込まれていく。
自宅に戻ると麻衣が朝食の準備をしていた。「おかえり」と迎える麻衣の楽しそうな顔は、先ほど猫を追いかけていた少女の面影がどこかあるように思えた。
「ねぇ」麻衣が湯気の立つ味噌汁を差し出しながら、ふいに言った。「さっき夢を見たの。あなたに会ったわ。いつもの道で。猫を追いかけてたの」
「へぇ」いつもは夢の話など軽く流す真司だが、先ほどの少女は夢の中の麻衣が出てきたように思われて仕方がない。「でも逃げられちゃった」麻衣が残念そうに呟く声が先ほどの少女の声と重なる。残念そうな表情だが、どこか楽しそうな微笑みを浮かべている。味噌汁の湯気を見つめながら、真司も静かに微笑んだ。(文字数:1000)