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【1000文字小説】バトンタッチ

 「おい、飯はまだか」 戸口に顔を出した常連客に大将は手をひらひらさせた。 「もうちょっとだ、待ってろ」 カウンターの向こうで和泉が苦笑いする。大将こと鈴木吾郎はいつも油染みだらけの作業着、頭にはいつもハチマキを巻いている。食材は業務用スーパーでまとめ買いし、特別凝った調理法はない。誰もが、吾郎さえもがこの食堂はいつ潰れてもおかしくないと思っていたが、なぜかしぶとく営業を続けていた。 厨房の片隅で、和泉は黙々と仕込みをしていた。大将はいつものように、新聞を読みながら客の相手をしている。 「親父、今日はなんか違うな」 常連の一人が、カウンター越しに大将の顔を覗き込む。 「なにがだよ」 「いや、いつものボサボサが、なんかちょっとだけシュッとしてる」 吾郎は苦笑いして、ハチマキを締め直した。 「気のせいだ」 最後の出勤だから、と和泉が新しいハチマキを贈ったのだ。吾郎は「なんだこれ」と照れくさそうに言ったが、素直にそれを巻いている。 今日の店はいつも以上に活気づいていた。常連客たちが、別れを告げに来たのだ。 「本当に辞めちまうのかい」 「ああ、今日で最後だ。お前さんたちとは、もう三十年か。長いこと付き合ってくれてありがとうな」 吾郎は、そう言って笑った。 「店がなくなるわけじゃねぇ。和泉が引き継ぐんだ。よろしくな」 その言葉に和泉は「変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願いします」 「なんだか固いなぁ」と吾郎。 和泉は以前食事に来ていただけの唯の客だった。疲れ切ったサラリーマン。ある日、和泉が電話で話しているのが聞こえた。 「ええ、転職を考えているんですけど…」 電話を切った和泉に吾郎はぽつりと尋ねた。 「お前さん、転職するのかい」 「ええ、まあ…」 「ふーん。だったら、この食堂、やってみねえか」 和泉はきょとんとした顔で吾郎を見た。 「俺もいい歳だし、体がキツくてな。そろそろ潮時だと思ってるんだ」 和泉は会社という組織に疲弊しきっていた。そして、戸惑いながらも、その申し出に心が動かされた。そして、一ヶ月間吾郎と一緒に働いて今日を迎えた。 「三十年か。まさか、こんなに続くとはな」 和泉が訪ねる。 「どうして俺に声をかけたんですか」 「実を言うとな、しょっちゅう声はかけてたんだ。いつもいつも断られてたんだけどな。お前で十人目だったよ」 そうか、自分が特別だったわけではなか...

【1000文字小説】ブラック企業が始まらない

 おかしい。始業三時間前なのに、誰も来ていないなんて。 山田健一、三十歳。新卒で入って十年勤めた会社が倒産、今日から働くことになった新しい職場にはまだ誰も出社して来ていない。掃除を全て終わらせ社員たちの出社を待っているが未だ誰も来ないのだ。ようやく上司の佐藤が来たのが始業十五分前。六時に来ていた健一にちょっと呆れている様子だ。   「山田さん、お昼休憩、もう行かれますか?」 隣の席の先輩、田中が声をかけてきた。まだ十一時半。前職では、休憩時間などあってないようなものだった。昼食はいつもカップ麺をかきこむか、デスクで片手におにぎりを頬張る程度。定時で帰るなんて夢のまた夢。終電間際まで働くのが当たり前で、休日出勤もざらだった。 「いえ、まだ仕事が残っているので…」 田中はきょとんとした顔で、手元の腕時計を指さす。 「まだ十一時半ですよ。それに、仕事はきちんと時間内に終わらせるようにしましょうね。無理は禁物です」 無理は禁物?何を言っているのだ。無理をして無理をして無理をするからこそ給料がもらえるのではないのか? 健一は内心毒づいた。まるで違う世界の住人になったような居心地の悪さを覚える。 健一は些細なミスをしてしまった。これは朝まで残業のパターンだ。しかし佐藤は健一の失敗を責めることはなかった。 「山田君、この件、どうしてこうなったのか、一度落ち着いて原因を洗い出してみてくれないか?」 健一は戸惑った。怒られることを覚悟していたのに、佐藤は冷静に問題解決を促した。 「失敗は誰にでもある。大切なのは、同じ失敗を繰り返さないことだ」 その言葉は、健一には異国の言葉に聞こえた。聞こえてはいるが意味がわからなった。ここは本当に俺の住んでいた日本なんだろうか。 午後六時。定時を告げるチャイムが鳴った。健一はさあここからが本番だと身構えた。しかし、周りの社員たちは次々と帰り支度を始める。 「山田さん、ご苦労様でした。明日も頑張りましょう」 佐藤が爽やかな笑顔で声をかけ、オフィスを出ていく。健一は慌てて追いかけた。 「あの、仕事は…」 「え?もう終業の時間ですよ。後は飲みに行くなり趣味を楽しむなり家族と過ごすなりご自由に」 何だと。残業をしないだと?正気か。残業からが本当の仕事の時間ではないのか?残業してこそ家族を養えるのに。健一は呆然とした。このままでは前の会社の...