【1000文字小説】引っ越して来た九十歳
透吾はコンビニ弁当を買い、築年数だけが無駄に積み重なった安アパートに帰る。部屋で一人、投稿する為のマンガを描き始める。壁の薄い、隣人の生活音が筒抜けになるようなこのアパートは、住む人間にそれぞれの事情があることを暗示しているかのようだ。 四月の末、隣の部屋のドアが開け放たれ、引越し業者のトラックが停まっていた。新しい隣人は九十歳をとうに過ぎた老女だった。白く細い髪をきっちりと結い、背筋を伸ばし、皺の刻まれた顔に柔らかな笑みを浮かべている。老女は「ハル」と名乗った。風呂敷包みに入った菓子を差し出された。それはスーパーの安売りでよく見かける、個別包装された昔ながらのせんべいだった。 「ご挨拶が遅れて申し訳ないねぇ。この歳での引越しで、すっかりバタバタしちまって」 ハルはそう言って、風呂敷包みに入った菓子を差し出した。透吾は戸惑いながらそれを受け取った。九十歳を超えて、アパートで一人暮らし? 施設とかに入るのが普通ではないのか、という疑問が透吾の胸をよぎる。こんな安アパートに越してくるくらいだから、お金はないのだろう。大家もよくOKしたものだ。言っちゃ悪いが、ポックリいくことだって考えられる。孤独死でもされたら、このアパートの評判はガタ落ちだ。それでも貸したのか、余程の事情があったのだろうか、と透吾は思った。 ハルは、毎朝早くに起きて、ベランダで植木鉢の世話をするのが日課だった。透吾が朝顔の種をもらった日、ハルは楽しそうに笑った。 「ベランダでも、ちゃんと咲いてくれるもんだよ。日当たりも良いしね」 その言葉には、決して広いとは言えないベランダを、小さな庭として精一杯楽しもうとする、ささやかな希望が込められているようだった。透吾はもらった種を、ダイソーで買ってきた植木鉢に撒いてみた。朝顔を植えるなんて、小学校の時以来だ。 透吾が夜明け前に眠ろうかとする頃にちょうどハルは起きるようだ。大丈夫、まだ生きているなと透吾は安心して眠る。透吾は、ハルと生活のリズムが合わない割には結構言葉を交わすようになった。ハルが話好きのようで、隙あらば話かけてくるのだ。いつも部屋にいる透吾はいい標的なのだろう。昔の話をたくさん聞かせてくれた。戦争のこと、貧しかった子供時代のこと、夫との出会いのこと。ハルの話は、透吾が知らない時代の、彩り豊かな物語だった。マンガのネタにしてやろうと思いなが...