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【1000文字小説】辞表の連鎖

 製造業向けシステムを扱う中堅IT企業で、佐藤誠一は開発課の課長をしている。四十五歳。肩書きは人を守るようで、実際には体をすり減らす位置だ。 この一年で、部下が四人辞めた。 一人目は新卒三年目の山下。人当たりはいいが、常に肩が上がり、仕様変更の通知が来るたびに喉を鳴らした。佐藤は声を荒げなかった。隣に座り、手順を細かく切り、進捗を一緒に確認した。それでも山下は「スピードが合わない」と言って去った。送別会の帰り、佐藤は胃が重く、駅の階段で息が切れた。 二人目は派遣の中村。会議では黙り、キーボードの音だけが確かだった。佐藤は無理に発言を求めず、成果で評価したつもりだった。だが契約更新の時期に「先が見えない」と言われた。佐藤はその夜、目薬を差し続けても画面が滲み、老眼鏡を引き出しの奥から出した。 三人目は育休明けの木下。在宅を認め、残業を外した。配慮は正しいはずだった。それでも「迷惑をかけ続けるのがつらい」と言われた時、佐藤の背中に汗が伝った。空調は効いているのに、体だけが熱を持っていた。 四人目が、高橋だった。三十歳。技術も説明力もあり、次のリーダー候補だと本気で思っていた。佐藤は期待を言葉にしすぎないよう気をつけたが、高橋の仕事は自然と集まった。退職届は淡々としていた。「成長できる環境を求めたい」 その言葉を聞いた瞬間、佐藤の胸に、反射のような苛立ちが走った。――それなら、ここは何なんだ。ここでやってきた時間は。 だがその考えは、喉の奥で引っかかったまま、音にならなかった。佐藤は頷きながら、膝の裏が小刻みに震えるのを止められなかった。 若い頃、佐藤は怒鳴られて育った。机を叩く音、人格を削る言葉。それに比べれば、今はましだ。だから違うやり方を選んだ。丁寧に、穏やかに、合理的に。だが夜遅く、オフィスに残ると、首の後ろが固まり、立ち上がるたびに腰が鳴る。優しさは、体力を消耗する。 原因は分かっている。人が足りない。案件が重い。評価は上がらない。変えられないことも分かっている。上からは「現場で工夫して」下からは「もう限界です」その間で、佐藤の心拍だけが早まる。 空いたデスク。触れられない観葉植物。補充は来ない。残った者に仕事が割り振られ、佐藤は「無理しないで」と言う。その言葉が嘘になるのを、喉の奥が知っている。 明日も彼は会議に出る。改善案を出し、検討中にされる。怒鳴...

【1000文字小説】灰色の九月

 都会の九月は、田舎とは違う匂いがした。アスファルトが発する熱と、排気ガスの混じった、乾いたような空気。今日の午後は予報通り、どんよりとした曇り空だった。 文は少しだけ足を延ばし、隣町の商店街を散策していた。その矢先、空は瞬く間に鉛色に変わり、激しい雨が降り出した。予報では雨は降らないと言っていたのに…。 咄嗟に駆け込んだのは、「山本食料品店」という看板の文字が剥げかけた個人商店だった。トタン屋根を叩きつける雨粒の音が、鼓膜を激しく揺さぶる。一歩外は白い水の膜で覆われ、まるで世界から切り離されたかのようだ。文は持っていたベージュの革製ショルダーバッグを胸に抱き寄せ、冷たい壁に背中を預けた。 視線を感じ振り返ると、老人がこちらを見ている。山本商店の山本だろうか。何か買わなきゃまずいかなと思い店内を見渡す。入り口近くに立てかけられたビニール傘が目についた。値札には「五千円」と書かれている。た、高い。都会の傘はなんて高いのだ。 文は慌てて視線を外したが、老人の視線は続く。「早く雨止まないかな」と心の中で呟く。老人は微動だにせず、文の様子をじっと伺っているようだった。 子供の頃だったら、この雨の中を「わあ!」と声を上げて飛び出していっただろう。水たまりにわざと足を踏み入れて、泥だらけになって笑っていた。でも、今は大人。白いスニーカーが汚れるのも、風邪を引いて明日の仕事に響くのも嫌だった。 ヤマモトの視線から「買っていきなよ」「ここで雨宿りするなら当然だろ」そんな声が聞こえてくるようだ。文はバッグをさらに強く握りしめる。五千円あれば、一週間分の食費が賄えるかもしれない。 この半年の社会人生活で痛感したのは、お金を稼ぐ事がどれほど大変かという事だ。会議での顧客データの入力ミス。先輩からの「社会人としてあり得ない」というきつい言葉。あの無機質なオフィスで得た給料は、傘一本で簡単に消えて欲しくはない。 軒下から、雨で濡れた道路をぼんやりと眺める。水たまりに映るネオンサインが、ぼやけて揺れている。故郷の雨は、土の匂いがして、裏山を流れる小川のせせらぎが聞こえた。赤とんぼが低く飛んで、雨上がりの虹を待つのが常だった。ここでは、故郷では当たり前だったものがない。 雨足が少し弱まったような気がした。文は意を決して軒下から一歩踏み出した。まだ雨は降っているけれど、あの視線の下にいるよ...