【1000文字小説】灰色の九月

 都会の九月は、田舎とは違う匂いがした。アスファルトが発する熱と、排気ガスの混じった、乾いたような空気。今日の午後は予報通り、どんよりとした曇り空だった。


文は少しだけ足を延ばし、隣町の商店街を散策していた。その矢先、空は瞬く間に鉛色に変わり、激しい雨が降り出した。予報では雨は降らないと言っていたのに…。


咄嗟に駆け込んだのは、「山本食料品店」という看板の文字が剥げかけた個人商店だった。トタン屋根を叩きつける雨粒の音が、鼓膜を激しく揺さぶる。一歩外は白い水の膜で覆われ、まるで世界から切り離されたかのようだ。文は持っていたベージュの革製ショルダーバッグを胸に抱き寄せ、冷たい壁に背中を預けた。


視線を感じ振り返ると、老人がこちらを見ている。山本商店の山本だろうか。何か買わなきゃまずいかなと思い店内を見渡す。入り口近くに立てかけられたビニール傘が目についた。値札には「五千円」と書かれている。た、高い。都会の傘はなんて高いのだ。


文は慌てて視線を外したが、老人の視線は続く。「早く雨止まないかな」と心の中で呟く。老人は微動だにせず、文の様子をじっと伺っているようだった。


子供の頃だったら、この雨の中を「わあ!」と声を上げて飛び出していっただろう。水たまりにわざと足を踏み入れて、泥だらけになって笑っていた。でも、今は大人。白いスニーカーが汚れるのも、風邪を引いて明日の仕事に響くのも嫌だった。


ヤマモトの視線から「買っていきなよ」「ここで雨宿りするなら当然だろ」そんな声が聞こえてくるようだ。文はバッグをさらに強く握りしめる。五千円あれば、一週間分の食費が賄えるかもしれない。


この半年の社会人生活で痛感したのは、お金を稼ぐ事がどれほど大変かという事だ。会議での顧客データの入力ミス。先輩からの「社会人としてあり得ない」というきつい言葉。あの無機質なオフィスで得た給料は、傘一本で簡単に消えて欲しくはない。


軒下から、雨で濡れた道路をぼんやりと眺める。水たまりに映るネオンサインが、ぼやけて揺れている。故郷の雨は、土の匂いがして、裏山を流れる小川のせせらぎが聞こえた。赤とんぼが低く飛んで、雨上がりの虹を待つのが常だった。ここでは、故郷では当たり前だったものがない。


雨足が少し弱まったような気がした。文は意を決して軒下から一歩踏み出した。まだ雨は降っているけれど、あの視線の下にいるよりはましだ。雨の中を歩きながら、文はふと思った。この五千円をケチった自分、少しだけ強いかも。白いスニーカーは濡れてしまったが、心の中は少しだけ軽い。九月の夕暮れ、空はまだ灰色だった。(文字数:1077)


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