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【1000文字小説】夕食まで

  パートを終えて店を出ると、外の光は少し傾いていた。  六時間ほど冷房の効いた店内にいたせいか、外の空気が肌にまとわりついた。首の後ろに汗が浮かび、制服の袖口が少し重く感じられた。自転車置き場まで歩きながら、私は今日何度「ポイントカードはございますか」と言ったのか考えた。  帰り道の角にある公園では、子どもたちが遊んでいた。水筒がベンチの下に置かれ、砂場には小さな山が残っていた。  家に着くと、玄関には子どもたちの靴が並んでいた。小さいほうの靴が、斜めになっていた。  私は買い物袋を台所に置き、冷蔵庫を開けた。トマト、牛乳、卵。昼間、何度も見た商品だった。トマトを野菜室に入れ、牛乳を奥へ押した。  夕飯の支度を始める。包丁の音。鍋の湯気。洗面所から聞こえる子どもたちの声。夫からは昼過ぎに「少し遅くなる」と連絡が来ていた。  子どもたちがお腹を空かせていたので、先に食べることにした。三人でテーブルにつき、手を合わせる。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。子どもたちが顔を上げた。  「ただいま」  夫の声がした。  私は箸を置いて立ち上がった。夫は仕事の鞄を置き、ネクタイをゆるめながら笑った。  「先に食べててよかったのに」  夫が着替えている間に、私は炊飯器からご飯をよそい、味噌汁の鍋を弱火にかけた。湯気が立った。  夫が食べ始めると、子どもたちは学校であったことを話し始めた。  窓の外には、夏の夕方の明るさが残っていた。  食器を洗い終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。  茶碗を伏せ、水を止める。居間では、夫と子どもたちの笑い声が重なっていた。エプロンを外すと、背中に残っていた熱がようやく抜けていった。 リンク

【1000文字小説】脱線

  参考書を開いてから三十分ほど経つのに、問題集の端に小さな丸をひとつ書いただけだった。  窓は開いている。カーテンがときどきふくらみ、そのたびに机の上のプリントが少しずつずれていく。どこかで風鈴が鳴った。誰の家のものなのか、毎年わからないままだ。  英単語を覚えようとする。  *accept*。  受け入れる。  その言葉を見た途端、外国の空港でスーツケースだけが流れ続ける映像を思い浮かべた。自分はなぜか空港職員になっていて、流れてくる荷物に一つずつ名前をつけている。赤い鞄は「暑い日」、黒い鞄は「月曜日」。そこまで考えて、小さく笑ってしまう。  参考書に視線を戻す。  *receive*。  受け取る。  今度は、郵便受けいっぱいに海が届く。蓋を開けた瞬間、青い水だけが静かにあふれて、玄関で熱帯魚が泳ぎ始める。靴はどうするんだろう、と真面目に考えたところで、自分がまた勉強していないことに気づく。  母が廊下を歩く音がした。 「休憩したら」  扉の向こうから、それだけ聞こえた。 「うん」  返事はしたけれど、席は立たなかった。  机の木目を眺めていると、小さな川のようにも見える。もしこの上で紙の船を流したら、消しゴムのかすは白い島になるだろうか。島には猫がいる。そんなことを考えている自分に、少しあきれる。でも、そのあきれ方は嫌いではない。  問題集を一ページだけ進める。  解答欄に丸を書く。  次の問題を読む。  途中で、蝉が一斉に鳴き始めた。  文字が少しだけ揺れた気がして顔を上げると、庭のアサガオが支柱に巻きつきながら、昨日よりほんの少し高いところで咲いていた。  どこまで伸びるつもりなんだろう。  鉛筆を回しながら、すぐに別のことを考え始める。 リンク

【1000文字小説】光の戻り方

 梅雨が明けた、と朝のニュースが伝えていた。 平年より五日遅い梅雨明けです――。 音だけ聞き流しながら、千紘は洗面台の前で髪を結んでいた。 昨日までと何が違うのか、正直よく分からない。 空気は相変わらず湿っているし、シャツは少し歩くだけで背中に張りつく。 ただ、窓から入る光が妙に強かった。 通勤電車はいつもより少し明るく見えた。 窓の外のビルは、昨日より一つ奥まで見えている。 会社へ着くと、冷房の匂いがした。 乾いた風と、コピー用紙と、誰かのアイスコーヒーの匂い。 始業前のオフィスでは、何人かがすでに仕事を始めている。 キーボードの音が規則的に続いていた。 「暑いですね」 隣の席の後輩が言う。 「急に夏って感じです」 千紘は曖昧に笑った。 毎年同じ会話をしている気がする。 でも、その“毎年”の中に、自分があと何回いるのかは考えないようにしていた。 昼休み、コンビニへ向かう途中で、強い日差しに目を細める。 昨日まで見えていなかった遠くのビルまで見える。 歩道橋の途中で、千紘は立ち止まった。 下の交差点では、人が絶えず流れている。 信号が変わるたび、黒い傘の代わりに日傘が開く。 そのとき、不意に風が吹く。 熱を含んだ風だった。 けれど、どこか乾いていた。 夕方、窓の外がまだ明るいことに気づく。 退勤後、駅までの道を歩く。 アスファルトには、昼間の熱がまだ残っていた。 セミの声が聞こえた気がして立ち止まるが、気のせいだった。 コンビニの前では、高校生たちがアイスを食べている。 笑い声がやけに遠くまで響く。 千紘はそれを聞きながら、自分がもう夏休みを待つ側ではないことを思い出した。 昔は、夏には何かが起こる気がしていた。 海へ行くとか、旅行とか、恋愛とか、そういうことではなく。 季節が変わるだけで、自分まで変われる気がしていた。 けれど今は、夏になっても、次の日の予定を考えるだけだった。 仕事が終われば、明日の資料を確認して、また電車に乗る。 マンションへ着くころには、空が薄い群青色になっていた。 部屋に入れた熱気が、ゆっくり外へ逃げていく。 千紘は窓を閉めず、そのまま麦茶を飲んだ。風鈴の音が、部屋の奥まで届いてきた。 リンク

【1000文字小説】時々晴れ

 梅雨に入ると、自動ドアの音が少し鈍く聞こえる。 雨をまとった客が一人ずつ入ってきて、床に細い足跡を残していく。私はレジを打ちながら、モップを掛けるタイミングを考えている。 昼過ぎになると、決まってやって来る女子高生がいた。 おにぎりを一つと紙パックの紅茶。それだけを買う。会計が終わると、小さく会釈をして出ていく。 それでも毎日同じ時刻に現れる人は、いつの間にか私の中で時間の目印になっていた。 ある日、制服の肩まで濡らして店へ入ってきた。前髪から雫が落ちていた。私はレジ袋を渡しながら、思わず口を開いた。 「雨、強いですね」 彼女は少し笑った。 「すぐやむので」 その日は、閉店まで降り続いた。 翌日も彼女は来た。 その翌日も。 そして、来なくなった。 毎日見ていたはずなのに、思い出そうとすると顔がぼやける。笑ったとき、少しだけ目を細めたことだけ覚えている。 昼過ぎになると、会計の途中でも入口のほうへ目が向くようになった。自動ドアが開く音に、前より敏感になった。 休みの日、近所の公園まで歩いた。 屋根のあるベンチから雨を眺める。芝生を鳩がゆっくり歩いている。 帰り道、知らないコンビニへ寄る。 冷たい缶コーヒーを一本買う。 「ありがとうございました」 若い店員の声がする。 私は小さく会釈をして店を出た。 雨は少し弱くなっていた。 アパートへ戻ると、向かいの部屋の窓が少しだけ開いていた。カーテンが静かに揺れている。 私はしばらく窓を開けたまま、湿った風を部屋に入れた。 翌日も雨だった。 昼が過ぎた。 レジの前には別の客が立ち、別の硬貨が音を立てる。 私は会計を終え、「ありがとうございました」と言って顔を上げる。 開いた自動ドアから湿った風が入る。 雨音が聞こえなかった。 「いらっしゃいませ」 リンク

【1000文字小説】三時

  朝から雨だった。  定年退職して三か月になる。曜日はまだ分かるけれど、急いで確かめる必要がなくなった。今朝は布団の中で、しばらく雨の音を聞いていた。  妻は朝食を済ませると、いつものように傘を差して出かけていった。 「夕方には帰るね」  玄関の戸が閉まる音は、雨の日のほうがやわらかい。  私は食器を流しへ運び、そのまま窓際の椅子へ座った。  庭のアジサイは雨を受けるたび、色が濃くなるように見える。見えているだけなのか、本当に濃くなっているのかは分からない。  湯のみの茶はもう冷めていた。  新聞は最後まで読んだはずなのに、何が書いてあったのか思い出せない。もう一度めくる。天気予報だけが、さっきより信頼できる気がした。  昼になる。  冷蔵庫にあった昨夜のカレーを温める。電子レンジが止まるまでの一分半が、昔より長い。  食べ終わっても、洗い物をする気になれず、そのまま流しに置いた。  居間へ戻ると、妻が脱ぎっぱなしにしていた薄い灰色のカーディガンが椅子に掛かっていた。  手に取る。  少し湿ったような匂いがする。  雨の匂いのようでもあり、そうでないようでもあった。  畳んでやろうと思ったが、結局そのまま椅子へ戻した。  置いてあったほうが、帰ってきたときに探さないですむかもしれない。  そう考えたのは親切からなのか、それとも動かしたくなかっただけなのか、自分でもよく分からない。  午後になると雨脚が強くなった。  軒先から落ちる雨粒を見ているうちに、小学生のころ、雨どいの下へバケツを置いて水をためていたことを思い出した。何に使うでもない。ただ満ちていくのが面白かった。  あのバケツは、いっぱいになったあと、どうしたのだったか。  そこが思い出せない。  時計を見る。  まだ三時だった。  今日は針が進むのを忘れているのではないか、と少し疑う。  そんなことはないと知っていても、しばらく秒針を眺めていた。  夕方近く、玄関の鍵が回る音がした。 「ただいま」 「おかえり」  妻は濡れた傘を閉じながら、「よく降るね」と笑った。  私はうなずいて、窓の外を見る。 リンク