【1000文字小説】脱線
参考書を開いてから三十分ほど経つのに、問題集の端に小さな丸をひとつ書いただけだった。
窓は開いている。カーテンがときどきふくらみ、そのたびに机の上のプリントが少しずつずれていく。どこかで風鈴が鳴った。誰の家のものなのか、毎年わからないままだ。
英単語を覚えようとする。
*accept*。
受け入れる。
その言葉を見た途端、外国の空港でスーツケースだけが流れ続ける映像を思い浮かべた。自分はなぜか空港職員になっていて、流れてくる荷物に一つずつ名前をつけている。赤い鞄は「暑い日」、黒い鞄は「月曜日」。そこまで考えて、小さく笑ってしまう。
参考書に視線を戻す。
*receive*。
受け取る。
今度は、郵便受けいっぱいに海が届く。蓋を開けた瞬間、青い水だけが静かにあふれて、玄関で熱帯魚が泳ぎ始める。靴はどうするんだろう、と真面目に考えたところで、自分がまた勉強していないことに気づく。
母が廊下を歩く音がした。
「休憩したら」
扉の向こうから、それだけ聞こえた。
「うん」
返事はしたけれど、席は立たなかった。
机の木目を眺めていると、小さな川のようにも見える。もしこの上で紙の船を流したら、消しゴムのかすは白い島になるだろうか。島には猫がいる。そんなことを考えている自分に、少しあきれる。でも、そのあきれ方は嫌いではない。
問題集を一ページだけ進める。
解答欄に丸を書く。
次の問題を読む。
途中で、蝉が一斉に鳴き始めた。
文字が少しだけ揺れた気がして顔を上げると、庭のアサガオが支柱に巻きつきながら、昨日よりほんの少し高いところで咲いていた。
どこまで伸びるつもりなんだろう。
鉛筆を回しながら、すぐに別のことを考え始める。