【1000文字小説】三時
朝から雨だった。
定年退職して三か月になる。曜日はまだ分かるけれど、急いで確かめる必要がなくなった。今朝は布団の中で、しばらく雨の音を聞いていた。
妻は朝食を済ませると、いつものように傘を差して出かけていった。
「夕方には帰るね」
玄関の戸が閉まる音は、雨の日のほうがやわらかい。
私は食器を流しへ運び、そのまま窓際の椅子へ座った。
庭のアジサイは雨を受けるたび、色が濃くなるように見える。見えているだけなのか、本当に濃くなっているのかは分からない。
湯のみの茶はもう冷めていた。
新聞は最後まで読んだはずなのに、何が書いてあったのか思い出せない。もう一度めくる。天気予報だけが、さっきより信頼できる気がした。
昼になる。
冷蔵庫にあった昨夜のカレーを温める。電子レンジが止まるまでの一分半が、昔より長い。
食べ終わっても、洗い物をする気になれず、そのまま流しに置いた。
居間へ戻ると、妻が脱ぎっぱなしにしていた薄い灰色のカーディガンが椅子に掛かっていた。
手に取る。
少し湿ったような匂いがする。
雨の匂いのようでもあり、そうでないようでもあった。
畳んでやろうと思ったが、結局そのまま椅子へ戻した。
置いてあったほうが、帰ってきたときに探さないですむかもしれない。
そう考えたのは親切からなのか、それとも動かしたくなかっただけなのか、自分でもよく分からない。
午後になると雨脚が強くなった。
軒先から落ちる雨粒を見ているうちに、小学生のころ、雨どいの下へバケツを置いて水をためていたことを思い出した。何に使うでもない。ただ満ちていくのが面白かった。
あのバケツは、いっぱいになったあと、どうしたのだったか。
そこが思い出せない。
時計を見る。
まだ三時だった。
今日は針が進むのを忘れているのではないか、と少し疑う。
そんなことはないと知っていても、しばらく秒針を眺めていた。
夕方近く、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえり」
妻は濡れた傘を閉じながら、「よく降るね」と笑った。
私はうなずいて、窓の外を見る。