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【1000文字小説】八月の冒険

八月三十一日の夜、少年は読書感想文を書いていた。 机の上には、読み終えた本と原稿用紙がある。原稿用紙には題名だけが書かれていた。 『八月の冒険』 本当は、もっと早く書くつもりだった。 本を読み終えたのは二週間前だった。面白かったし、主人公が最後に知らない町へ行ってしまうところも覚えている。それなのに、感想を書こうとすると、どの場面について書けばいいのか分からなくなった。 少年は本をもう一度開いた。 主人公が家を出るところまで戻る。 少年はそのページを読み返した。 主人公は、家族に何も言わずに出ていく。玄関を出て、振り返らない。そのあと、知らない土地で暮らし始める。 最初に読んだときは、格好いいと思った。 今読むと、少し変だった。 家を出る理由が、よく分からない。 少年は本を閉じた。 原稿用紙に、 「主人公は勇気があると思いました」 と書いた。 すぐに消した。 それでは先生が言っていた「自分の考え」が足りない気がした。 少し考えてから、 「主人公は、帰る場所があるのに帰りませんでした」 と書いた。 これは消さなかった。 ただ、その続きをどうすればいいのか分からない。 少年は椅子から離れ、冷蔵庫から麦茶を取ってきた。 スマートフォンには、友だちのグループからいくつか通知が来ていた。 明日の持ち物の話だった。 誰かが「宿題終わった?」と書いている。 少年は画面を見たまま、返信しなかった。 宿題が終わっていないことを知られるのが嫌だったわけではない。 明日から学校だと思った。 それだけだった。 夏休みのあいだ、朝起きる時間は決まっていなかった。昼近くまで寝た日もあったし、夕方から友だちと遊んだ日もあった。 明日からは違う。 朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。 少年はそのことについて考えるのをやめた。 机に戻る。 原稿用紙を見る。 「主人公は、帰る場所があるのに帰りませんでした。」 その一文だけが残っている。 少年は本を開いた。 主人公が家を出る場面を、もう一度読む。 今度は、主人公が振り返らなかったことより、その前に靴ひもを結び直していることが気になった。 少年はページを指で押さえた。 靴ひもを結び直して、それから出ていく。 なぜそんなことをしたのか、本には書かれていない。 少年は少し考えた。 書かれていないなら、感想文に書いてもいいのかもしれない。 原稿用...

【1000文字小説】一枚だけ

  八月も半分を過ぎたのに、健太の机には宿題がそのまま残っていた。  算数のプリント。読書感想文。自由研究。  健太は算数のプリントを一枚だけ終わらせた。二枚目に取りかかる前に、冷蔵庫へ麦茶を取りに行った。  戻ってくると、一枚目がない。  机の下にも、椅子の下にもない。  布団をめくると、そこにあった。  どうしてこんなところにあるのか、健太には分からなかった。  母に聞こうとして、やめた。  台所から包丁の音が聞こえていた。  夕方、健太は読書感想文の原稿用紙を持ってベランダへ出た。  向かいの家の屋根がオレンジ色になっていた。蝉がまだ鳴いている。  本は読んでいない。  それでも一行目に題名を書いた。  次に自分の名前を書いた。  名前を書いたところで、手が止まった。  消しゴムをかけると、紙に白い跡が残った。  夕飯のあと、母が言った。 「宿題、やった?」  健太は少し迷ってから、うなずいた。  母は健太の顔を見た。 「そう」  それだけ言って、台所へ戻った。  夜、布団に入る。  机の上には、まだ宿題が残っている。  健太は、明日やればいいと思った。  電気を消して目を閉じる。  しばらくすると、机のほうから紙をめくる音がした。  一枚。  また一枚。  健太は目を開けなかった。  朝になれば、少し減っているかもしれない。  そう思いながら、健太は眠った。 リンク

【1000文字小説】八月も

八月の昼間、家には夫がいる。 長男が大学へ出て、次男が就職で家を出てから、夫と二人暮らしになった。 最初の頃は、冷蔵庫の食材がなかなか減らなかった。 牛乳を二本買う。 卵を十個入りにする。 帰宅してから気づいて、少し笑った。 今では、それもなくなった。 夫は定年してから、朝起きる時間が少しずつ遅くなった。 長い間働いたのだから、と最初は思っていた。 昼近くまで寝ていても、ソファで新聞を読んでいても、何も言わなかった。 夫の姿が、家の中の一部のように見える日が増えた。 時々冷蔵庫を開ける。 庭の植木に水をやったりする。 それ以外の時間は、ほとんど同じ場所にいる。 ある日、買い物から帰ると、夫が掃除機をかけていた。 「どうしたの」 夫は少し考えてから言った。 「床が汚れてたから」 夫は掃除機をかけながら、ゆっくり部屋を回っていた。 その姿を見て、子どもたちがまだ家の中を走り回っていた頃のことを思い出した。 夜、夫はいつものようにテレビの前で眠っていた。 私は台所で麦茶を作った。 食器棚を開けると、奥に昔使っていたマグカップが見えた。 子どもたちが家にいた頃、よく使っていたものだった。 取り出そうとして、やめた。 別に理由はなかった。 翌朝、夫は珍しく早く起きた。 「暑いな」 それだけ言って、窓を開けた。 蝉の声が部屋に入ってきた。 夫はしばらく外を見ていた。 何か考えているようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。 私は朝食の皿を並べた。 二人分。 向かい側に座った夫は、新聞を開いた。 紙の擦れる音がした。 その音を聞きながら、私は湯気の消えていく味噌汁を見ていた。 窓の外では、蝉が同じ場所で鳴き続けていた。 リンク

【1000文字小説】くらげ

八月の朝は、窓を開けるだけで部屋の温度がひとつ上がる。 休みを取って、息子と水族館へ行く約束をしていた。 前の晩、息子は図鑑を開きながら「クラゲって眠るの」と聞いた。私は曖昧に頷き、「明日、飼育員さんに聞いてみよう」と答えた。玄関には、小さな帽子と水筒が並べてあった。 妻はパートの日で、私と息子だけで出かける予定だった。 会社から電話が入った。 受話器を置いたときには、もう決まっていた。 「悪い。仕事になった」 息子は少し黙り、それから「ふうん」と言った。 その声は、いつもの朝と同じだった。 仕事は夕方には終わった。 駅前でイルカのぬいぐるみを見つけた。水族館で売っていそうなものだった。袋に入れてもらいながら、息子なら喜ぶと思って買った。 帰宅すると、息子は居間で宿題をしていた。 「これ、おみやげ」 袋を渡すと、中を覗いて「ありがとう」と言い、テーブルの端へそっと置いた。 妻は食器を洗いながら、何も言わなかった。 夕食のあと、庭で水の音がした。 窓から見ると、息子がホースで小さな水たまりを作っていた。 そこへ落ち葉を一枚浮かべ、しゃがみ込んで眺めている。 私も外へ出た。 「何してるんだ」 息子は葉っぱから目を離さないまま言った。 「クラゲ」 水は少しずつ土へ吸い込まれ、葉っぱは端に寄って止まった。 息子は指でそっと押して、もう一度だけ水の真ん中へ戻した。 私は何も言えず、その様子を見ていた。 西日が傾き、庭の水たまりはすぐに小さくなっていった。 リンク