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【1000文字小説】たまる水

 九月に入ってから、雨の降らない日がなかった。 朝食の片付けを終え、洗濯機を回した。窓の外では、細い雨がベランダの手すりを濡らしている。 夫は出かける前に、「今日も降ってるな」と言った。 「うん」 それだけだった。 脱水の終わる音がして、私は洗濯物を部屋の中に干した。シャツの袖が少し重い。除湿機をつけると、低い音が部屋の隅から聞こえ始めた。 結婚して三年になる。 三年という時間を、私は最近よく考える。長いのか短いのか分からない。去年の九月にも雨が多かったことは覚えている。でも、そのとき何をしていたかは、あまり思い出せない。 昼前、夫からメッセージが届いた。 《帰り、何か買ってくる?》 冷蔵庫には夕食に使えるものが残っていた。 《大丈夫。雨ひどそうだから》 そう返して、スマートフォンを伏せた。 午後になっても雨は止まなかった。 私は読みかけの本を開いた。数ページ読んだところで、同じ行を三度読んでいることに気づいた。 本を閉じる。 部屋の中には、除湿機の音と雨の音があった。 夕方、夫が帰ってきた。 「ただいま」 「おかえり」 濡れた傘を玄関の隅に立てる音がした。 私は台所で味噌汁を温めた。 窓の外は暗くなっていた。 雨はまだ降っていた。 除湿機の水が、いつの間にかいっぱいになっていた。 リンク

【1000文字小説】針先

 九月の雨が、朝から降っている。 男は七時に起き、珈琲を淹れた。パンを焼き、目玉焼きを作る。食べ終えると、食器を洗ってからレコード棚の前に立った。 何十枚もある。 しばらく眺めて、いつもの一枚を抜いた。ジャケットを裏返し、曲目を確かめる。針を落とす。 男は椅子に座り、目を閉じた。 一曲目が終わるころには、窓の外が少し明るくなっていた。 雨は止まなかった。 昼は近所の蕎麦屋へ行くつもりだったが、出かける頃になって雨脚が強くなったので、やめた。 冷蔵庫を開ける。 豆腐と卵、それから昨日買った葱がある。 鍋に湯を沸かし、豆腐を入れた。卵を落とし、葱を刻む。 食べながら、午後は釣り道具を手入れしようと思った。 食器を片づけ、押し入れから道具箱を出した。 竿を伸ばし、糸を確かめる。古いリールには細かな傷がいくつもついていた。指で触れると、釣りに行った日のことがいくつか浮かんだ。 どの日のことだったかは、もう区別がつかない。 糸を巻き直し、針を新しいものに替える。 夕方になった。 風呂を沸かし、湯に浸かる。 上がると、またレコードをかけた。 朝と同じ一枚だった。 ウイスキーを少しだけ注ぐ。 誰かと飲むことを考えたことは、ほとんどなかった。 男はそう思ってから、なぜそんなことを考えたのか分からなくなった。 雨の音がしている。 レコードの音もしている。 男はグラスを手にしたまま、窓の外を見た。 暗くなったガラスに、自分の姿が映っていた。 しばらく見ていると、向こう側の雨と自分の姿の境目が分からなくなった。 男はカーテンを閉めた。 レコードはまだ終わっていなかった。 リンク

【1000文字小説】向かい側

 九月に入ってから、雨の降らない日はなかった。 朝、目を覚ますと、窓の向こうが白く濡れている。カーテンを開ける前から、それがわかるようになった。雨の音は、眠っているあいだにも部屋の中まで入り込んでくる。 実家を処分したとき、いくつかのものを持ち帰った。食器や古い写真、それから母の湯呑みと父の湯呑み。 食器棚には、二つ並べてある。 私は母のものを使っている。 雨が強くなると、窓を閉める。鍵を確かめる。ベランダの排水口を見る。何度見ても、水が増える速さは変わらない。 テレビをつけると、川の水位を知らせている。 私は音を小さくする。 画面の中の数字が、はっきり見えた。 夕方、買い物から戻る。 玄関で傘をたたんでいると、廊下の向こうで子どもの声がした。母親らしい声が、それを追いかけている。 私は靴を脱いだ。 部屋の中は暗かった。 明かりをつけると、食器棚の湯呑みが目に入った。 母が生きていた頃、雨の日には電話がかかってきた。 「そっちは大丈夫?」 いつも同じだった。 私は大丈夫だと答えた。 母が亡くなってから、雨の日の電話はなくなった。 当然のことなのに、ときどき雨が降ると、電話の鳴る気配だけが残っているように思う。 夜になって、雨脚がさらに強くなった。 窓ガラスに水が叩きつけられている。 私は布団に入った。 眠れなかった。 水の音を聞いていると、自分のいる場所が少しずつ低くなっていくような気がした。 午前二時を過ぎた頃、雨が一度、弱くなった。 私は起き上がった。 暗い部屋で、台所まで歩いた。 食器棚を開ける。 母の湯呑みは、いつもの場所にある。 その隣の父の湯呑みに手を伸ばした。 指先に、わずかな湿り気が残った。 しばらく、そのまま触れていた。 それから、父の湯呑みを取り出した。 水を入れることもなく、テーブルの向かい側に置いた。 雨は、まだ降っていた。 リンク

【1000文字小説】薄い水

 九月に入っても、空気の底に生ぬるい塊が沈んでいた。 午後三時のオフィスは、薄水色のカーペットが敷き詰められている。エアコンの風が首筋を撫でるたび、皮膚の表面だけがちくちくと冷え、奥のほうが熱を溜め込んでいた。 指先をキーボードに乗せたまま、画面の数字を見つめる。数字はただそこに並んでいるだけで、意味を持った列としては胸に落ちてこない。喉の奥がカラカラに乾いていた。デスクの隅に置いたステンレスボトルを傾ける。中身は今朝淹れた麦茶だったが、氷はとうに溶け切り、生ぬるく薄まった液体が舌を滑るだけだった。 「佐伯さん、これ、今日の分」 隣の席の課長が、受領印を押した書類の束を置いた。 「ありがとうございます」 声を出した瞬間、自分の声がずいぶん遠くから聞こえた。課長はすでに画面へ視線を戻しており、私の声が届いたのかどうかすら確かではない。 定時を少し過ぎた頃、ビルを出る。 地下鉄の駅へ続く階段を下りる途中で、風がぬっと頬を撫でた。湿気を多く含んだ、ぬめりのある風だ。改札を抜けてホームに立つと、線路の向こう側の壁に貼られた旅行会社のポスターが目に留まる。青い海と白い砂浜。先月までなら羨ましく思えたかもしれない色彩が、今はただ、眩しすぎて目を背けたくなるようなプラスチックの板に見えた。 部屋に帰り、部屋着に着替える。 電気をつけないまま台所に立ち、冷蔵庫を開けた。白い光が暗い部屋に細長く漏れる。ポケットから取り出したトマトを一つ、水道の水で洗った。掌に包むと、冷たさが少しだけ心地いい。そのまま皮ごと噛みつくと、酸っぱい汁が唇を濡らした。甘みはほとんど感じられなかった。 ベランダに出て、手すりに両腕を乗せる。 向かいのマンションの部屋には、いくつかの明かりが灯っていた。テレビの点滅する光、黄色い温かみのあるランプ、誰もいないように見える部屋。風が吹くたび、遠くの幹線道路を走るトラックの不連続な重低音が響く。 喉がまた乾いた。 コップに水道水を注ぎ、半分ほど飲む。胃のあたりに溜まった冷たい塊が、ゆっくりと体の輪郭を内側からなぞっていく。 九月の夜は長い。明日も同じ時間に起きて、同じ電車に乗るのだろう。 手すりから顔を上げると、雲の切れ間に一つだけ、色の薄い星が光っていた。光っているというよりは、そこに小さな穴が開いているようだった。私は残った水を、ごぐりと飲み干した。 ...