【1000文字小説】職場で笑え
「こんな間違いをするなんてねえ」
薄い髪をオールバックにした小心者そうな部長の席の前に、泣き出しそうな顔で鈴木さんがポツンと立っている。他の社員たちは各々パソコンの画面を見ているが、その耳だけは部長と鈴木さんのやり取りに傾けられていた。悠太もその他の社員の一員だ。
鈴木さんは、黒髪のボブカットがよく似合う、清楚な雰囲気の若い女性だった。地味だが清潔感のある服装をしている。大人しそうな鈴木さんは、部長にとって格好の標的なのだろう。これまでの悠太は何もできなかったが、今は「笑え」がある。一日一度しか使えない能力だが、今使わずにいつ使うのだ。
悠太は、自席から部長の姿を捉え、「笑え」を発動させた。部長は、鈴木さんに更に嫌味を言おうとした瞬間吹き出した。腹を抱え涙を流しながら笑い出す部長に、鈴木さんは呆然とする。その様子は滑稽で、鈴木さんは驚きながらも、その隙に自分の席に戻った。
「笑え」のきっかけは、2週間前、悠太が家の中で転んで頭を打った時だった。大したことはなかったが、母があまりにも心配するので、鬱陶しくなった悠太は無意識に心の中で強く願った。「笑ってくれよ、母さん」
その瞬間、母はおかしくてたまらないといった様子で笑い出した。笑えと思ったら笑ったかのようだ。だがその後試しに心の中で念じても母は一度も笑わなかった。
翌日、出勤中の電車内で、疲れた顔でスマホを見つめる女性が目に入った。心の中で強く「笑え」と念じてみると、女性は突然大笑いし始めた。おかしい記事でもあったのだろうか?
いや、偶然にしてはタイミングが良すぎる。車中の注目を一身に浴びて可哀想に思えたので、隣に座っていた男性も笑わそうとしたが、こちらには何も変化がない。数日、様々な相手で試してみて分かったのは、どうやら笑わせることができるのは一日一回一人だけらしいという事だ。
何度か呼び出され叱責される鈴木さん。仕事ができないわけではない。部長が虐めたいだけなのだ。その度に悠太は陰から「笑え」を発動させた。最初は困惑していた部長も、やがて異変に気付き始める。叱責しようとするたびに、意味もなく笑いがこみ上げてくる。それが何度か繰り返すうち、部長は鈴木さんと向かい合うこと自体に恐怖を覚えるようになり、鈴木さんを怒るのをやめた。社内であまり好かれていなかった部長だが、「笑え」の影響があるのかよく笑うようになり好感度が少しだけ上がった。(文字数:1000)