【1000文字小説】コーヒーを植えた頃
真希がキッチンの隅に置かれた植木鉢に水をやっていると、緑の葉の陰に小さな実を見つけた。実の色が葉と同じ緑色だったので、見落としていたのだ。十年前にダイソーで買ったコーヒーの木だが、いつの間にか真希が見上げる高さになっていた。
十年前の真希はまだ独身で、古い木造アパートに住んでいた。一人暮らしを始めてからずっと住んでいた狭い部屋だが、それでも小さな部屋には自分の居場所があると思えた。休日は、朝から海外の古典ミステリーを読んだり、コーヒーを淹れたりして静かに過ごした。真鍮製のアンティークのコーヒーミルは安アパートのテーブルには場違いなほど重厚で、ゆっくりと豆を挽く時間はそんな静かな日々の小さな彩りだった。
コーヒーの実を見つけた真希は、そんな十年前の日々を思い出した。「実がなったら、焙煎してコーヒーを淹れて飲もうね」コーヒーが嫌いだった彼に好きになってもらおうと買った木だった。彼と一緒にコーヒーの木が大きくなっていく姿も見たかった。結局、彼はコーヒーを好きになることはなく、二人の関係は、次第にすれ違うようになった。真希が結婚を口にしても、彼は言葉を濁すばかり。真希が休日にアンティークのミルで豆を挽き、丁寧にコーヒーを淹れる姿を、彼は「そんな無駄な時間と金があるなら、もっと将来に役立つことを考えろ」と笑った。そんな価値観のずれが積み重なり、二人は別れ関係は終わった。
今は、もうすぐ四十歳。結婚して、三つの部屋がある新しいアパートに住んでいる。あの頃よりずっと広いのだが、なんだか息苦しさを感じることがある。広い部屋のどこにも、自分だけの時間や空間がないように思えた。夫は、コーヒーが好きでも嫌いでもなく、ただの飲み物として時々飲む程度だ。最近は、転職したばかりの仕事に慣れず、帰宅すると、疲れた表情で黙ってテレビを見ていることが増えた。
コーヒーの木は、いつの間にか窓辺からキッチンの隅へと追いやられ、そこが定位置になっていた。水をやるのもただの義務だったが、無関心な日々にも関わらず実をつけた。
真希は十年前の自分の言葉を思い出し、かすかな寂しさを覚えたが、もう彼と一緒にコーヒーを飲むことはない。自分で焙煎して飲むことはできるだろうか。そんな考えが一瞬だけ真希の頭をよぎったが、すぐに消えた。面倒だ。今の自分にはそんな気力はない。緑色の実はただの過去の断片としてそこに存在しているだけだった。(文字数:1000)


 
 
 
