【1000文字小説】光の戻り方
梅雨が明けた、と朝のニュースが伝えていた。
平年より五日遅い梅雨明けです――。
音だけ聞き流しながら、千紘は洗面台の前で髪を結んでいた。
昨日までと何が違うのか、正直よく分からない。
空気は相変わらず湿っているし、シャツは少し歩くだけで背中に張りつく。
ただ、窓から入る光が妙に強かった。
通勤電車はいつもより少し明るく見えた。
窓の外のビルは、昨日より一つ奥まで見えている。
会社へ着くと、冷房の匂いがした。
乾いた風と、コピー用紙と、誰かのアイスコーヒーの匂い。
始業前のオフィスでは、何人かがすでに仕事を始めている。
キーボードの音が規則的に続いていた。
「暑いですね」
隣の席の後輩が言う。
「急に夏って感じです」
千紘は曖昧に笑った。
毎年同じ会話をしている気がする。
でも、その“毎年”の中に、自分があと何回いるのかは考えないようにしていた。
昼休み、コンビニへ向かう途中で、強い日差しに目を細める。
昨日まで見えていなかった遠くのビルまで見える。
歩道橋の途中で、千紘は立ち止まった。
下の交差点では、人が絶えず流れている。
信号が変わるたび、黒い傘の代わりに日傘が開く。
そのとき、不意に風が吹く。
熱を含んだ風だった。
けれど、どこか乾いていた。
夕方、窓の外がまだ明るいことに気づく。
退勤後、駅までの道を歩く。
アスファルトには、昼間の熱がまだ残っていた。
セミの声が聞こえた気がして立ち止まるが、気のせいだった。
コンビニの前では、高校生たちがアイスを食べている。
笑い声がやけに遠くまで響く。
千紘はそれを聞きながら、自分がもう夏休みを待つ側ではないことを思い出した。
昔は、夏には何かが起こる気がしていた。
海へ行くとか、旅行とか、恋愛とか、そういうことではなく。
季節が変わるだけで、自分まで変われる気がしていた。
けれど今は、夏になっても、次の日の予定を考えるだけだった。
仕事が終われば、明日の資料を確認して、また電車に乗る。
マンションへ着くころには、空が薄い群青色になっていた。
部屋に入れた熱気が、ゆっくり外へ逃げていく。
千紘は窓を閉めず、そのまま麦茶を飲んだ。風鈴の音が、部屋の奥まで届いてきた。