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【1000文字小説】いつもの上司

 課長が鼻歌を歌いながらオフィスに入ってきた。 失敗した日ほど機嫌がいい――その性質を、私はもう知りすぎていた。 「東海林さん、ちょっと会議室までお願いね」 声は柔らかいが、その奥に“片づけておいてね”の合図が混じっている。 会議室に入り、ドアが閉まった瞬間、課長の表情が切り替わる。 机の上に叩きつけられたのは、昨日送付した営業資料だった。 「取引先から苦情が来てる。数字、また違ってるよ。こういうの困るんだよね」 “また”。その一言に、胃がきゅっと痛んだ。 この資料は課長が「俺が修正するよ。性格的にこういうの早いからさ」と言って取り上げたものだ。 確認しようとした私に、彼は笑いながら押し返した。 “任せておいてよ。細かいとこは俺より君のほうが得意だけどね” 中途半端に褒め言葉を混ぜながら、責任だけは押しつける――それが彼の常套手段だった。 「ここ、君が最終確認したってことでいいよね?」 課長の目が、答えを強制している。 喉の奥まで「課長が直したんです」と言葉がこみ上げた。 言おうとした。 ほんの一瞬、唇が動いた。 でも、前に言い返したときの記憶が、私の口を強く押さえつけた。 “責任は共有だからね”“誤解させたなら申し訳ないけど君も悪い” 結局、すべて私のせいにされるだけだった。 その瞬間、またひとつ何かが折れた。 「……対応します」 自分の声なのに、まるで別の人の声みたいだった。 席へ戻ると、佐伯さんが眉を寄せた。 「また押しつけられたの?」 私は笑みを作ろうとしたが、うまく顔の筋肉が動かない。 「大丈夫、大丈夫……慣れてるから」 その“慣れ”が自分を削っていることに気づきながら。 クレームを入れてきた取引先へ確認の電話をかけると、担当者はため息まじりに言った。 「これ、前回も同じでしたよね。課長さんにもお伝えしたんですが…届いてなかったですか?」 一瞬、呼吸が止まった。 「……申し訳ありません。こちらで確認します」 声が震えた。手も震えた。 資料を持ち直そうとして落としてしまい、拾う指先がかすかに痙攣した。 “前回も同じ”。 “課長に伝えてある”。 すべてわかっていた。 それでも、私が悪いことにされる。 夕方、課長がコーヒーを片手に戻ってきた。 「いやぁ、今日も助かったよ。俺って数字苦手なんだよね。性格だからさ、どうしようもないんだよ。 でもさ、東海林さん...

【1000文字小説】冬の帰り道

 冬の北風がビルの谷間を吹き抜け、車のライトが凍った路面に散って揺れた。健司はコンビニのアルバイトを終え、フードを深くかぶりながら帰路についた。四時間のシフト、時給八百二十円。今月の給与を頭の中で計算し、白い息を吐く。 「お疲れさまです」 若い店員の軽い声が耳に残っている。二十代前半の彼と、自分のあいだにある三十年の差を思うと、胸の奥が重く沈んだ。十五年前に勤めていた印刷会社が倒産してから、職を転々とし、気づけば五十歳のアルバイトになっていた。 大通りを外れ、薄暗い路地に入ると雪が容赦なく吹き付けてくる。壁の落書きも、曇ったガラス窓も、街灯の光でぼんやり浮かんで見えた。その景色は、かつて憧れた映画のようでありながら、今はただ冷たかった。 橋の上では、川面に街灯が揺れ、氷片が静かに流れていた。スマートフォンが震えたような錯覚を覚え、ポケットから取り出す。だが画面には何も表示されていない。 ――今日だけで三度目だった。 歩道に落ちた手袋を見つける。拾い上げると、前から学生が駆けてきた。 「あ、それ、僕のです!」 差し出すと、彼は軽く会釈して去っていった。温かい言葉だったのに、心には何も残らなかった。 古いアパートに戻ると、隣室から若いカップルの笑い声が漏れてきた。未来に向かって進んでいく人の音だとわかる。その明るさから、健司は目をそらした。 部屋に入り、暖房をつける。スマートフォンを机に置き、画面をじっと見つめた。通知は一つもない。姪からも、昔の同僚からも、誰からも。 今日どころか、ここ数日ずっとそうだった。 窓の外では雪が静かに降り積もっている。白い粒が街を覆い隠し、形あるものをすべて均していく。過去も未来も区別なく。 健司は窓辺に座り、手を伸ばしてみた。だが、冷たい硝子がそれを拒むように返してくるだけだった。 吐いた息はすぐに消えた。 自分の人生も、こんなふうに跡形もなく消えていくのだろう。 その思いだけが、静かに胸に沈んでいった。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】空白の葉書

 渚は寒さが苦手だったが、春が近づき、ようやくほっとしていた。そんな朝、郵便受けに一通の葉書を見つける。宛名は渚の名前。丁寧な手書きだ。差出人はなく、裏面も真っ白。消印もない。直接入れたのだろうか。胸の奥が少しざわついたが、忙しさに紛れて忘れた。 数日後、二枚目の葉書が届いた。裏面はやはり白紙で、消印もない。誰かが自分の名前を書き、ひそかに投函している。考えると心臓がぎゅっと締め付けられる。渚はただ葉書を眺めていた。恐怖より奇妙な好奇心のほうが勝り、視線をそらすことはできなかった。 夏の暑さが厳しくなる頃、葉書は捨てられずにたまり、机の上にまとめて置かれるようになった。何も書かれていないのに、手元にあることが気になってしまう。友達に見せることも考えたが、話せば送り主に気づかれるかもしれない——その可能性を思うだけで、声にできなかった。誰が、何のために——問いだけが頭の中で反響する。 秋が過ぎ、冬の気配が近づく頃、葉書は机の片隅に積まれ、いつでも目に入るようになった。裏面は白紙、宛名だけが浮かぶ。恐怖も好奇心も、いつの間にか薄れ、渚はただその異様な日常に順応していた。誰もいないはずの時間に、自分の名前を書いた紙が滑り込む。存在の気配はあるのに、形は掴めない。 ある夜、窓の外の風が強く、郵便受けがかすかに揺れた。翌朝、また一枚の葉書が入っていた。宛名は同じ字だが、微妙に歪み、インクがわずかに滲んでいる。渚は息を呑み、手を伸ばすのもためらった。手に取った瞬間、冷たい紙の感触が指先からじんわりと背筋に広がる。意味も差出人もわからない。届くこと自体が日常の一部になった今でも、その冷たさだけは変わらず、渚の胸の奥で小さくざわめき続けた。 白い葉書は今日も、郵便受けの奥で待っている。誰が、何のために。渚には答えが出せない。ただ、次にどんな形で現れるのか——想像しただけで、肌の奥がひんやりする。 <1000文字小説目次> リンク