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【1000文字小説】緑色の時間

 「緑の庭」のベルが鳴る回数は、すっかり減ってしまった。軽やかに響くベルの音は、静まり返った緑の中にゆっくりと溶けていく。壁際の雑貨には埃が薄く積もり、代わりに観葉植物がその存在感を増していた。千円カットができてから客足は徐々に減ったが、それでも足を運んでくれる人はいる。 ベルが鳴り、店に入ってきたのは商店街の八百屋の親父、田辺さんだ。白髪混じりの髪はきっちりと刈り上げられ、清潔感は昔と変わらない。鏡越し、葉子は鋏を握る。田辺さんの髪を切る手つきは、昔と同じ角度、同じリズム、同じ緊張感を帯びている。しかし、頭頂部の毛は確実に薄くなっていた。「どうか、これ以上減りませんように」と、葉子は心の中でそっと祈る。 少し離れたところに住む小柄な老婦人、山田さんもやって来た。客がいるときに次の客が訪れるのは今では珍しい。山田さんはいつも決まって奥の雑貨コーナーで、小さなガラス細工をじっと見つめている。田辺さんを見送った後、葉子は山田さんの白く細い髪を梳かしながら、この人にとってこの店が床屋であり、雑貨屋であり、そしてなにより静かな安らぎの場所なのだろうと感じる。葉子のわずかな収入は夫の給料に比べれば微々たるものだが、この時間を大切に思う山田さんにとって、店は欠かせない居場所なのだ。 夕方になり、客足はほぼ途絶える。店内は静かで穏やかな時間に包まれる。葉子は奥の住居スペースからハーブティーを持ち、緑に囲まれた小さなテーブルで一息つく。引き戸はいつからか閉めることがなくなり、店と生活空間の境界は曖昧になった。差し込む光の中で、埃の粒がゆらゆらと光り、葉子は現実の雑事や経済のことを忘れる。この時間だけは、夫の横で感じる罪悪感も、目の前のわずかな収入の重さも頭に浮かばない。 一枚一枚、葉っぱを拭き、枯れた部分を摘み取る。手を動かすたびに心が落ち着き、この静かな観葉植物たちとの時間は葉子にとって何よりも大切で、失ってはいけないもののように思える。 ふと、日中山田さんに言われた言葉が蘇る。「この店は世界で一番観葉植物が多い床屋だね」――本当かもしれないし、そうでないかもしれない。けれど、世界一なら嬉しい。葉子は微かに笑みを浮かべ、夕暮れの光に照らされた緑の中で、今日も静かに手を動かすのだった。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】平凡OL、六つ子になる

「くしゅん!」 二宮環、二十六歳OL、独身。ごく普通のくしゃみだったはずなのに、環の隣の席にもう一人の環が現れた。淡いブルーのブラウスにネイビーのタイトスカートという服装も、手入れの行き届いたボブヘアも全く同じ。驚きに目を見開いた環が二人。 「え、どういうこと?」 「あたしがもう一人いるんだけど?」 二人は同時に声を上げた。鏡を見ているような奇妙な感覚。夢かと思って頬をつねるが、痛い。目の前にいる環も同じように頬をつねり、痛みに顔をしかめている。 信じがたい状況だったが、くしゃみが原因だったのか?最初の環は試しに机の引き出しからランチ用の小さな胡椒の瓶を取り出した。 「何する気?」 「試してみるのよ」 環は小瓶の蓋を開け、鼻先に振った。 「くしゅん!」 三人目の環が現れた。一度で止めようと思ったが止まらない。くしゃみが出るたびに、ポコ、ポコ、ポコと、まるで空気の塊が物質化したように環が増えていく。三人、四人、五人……あっという間に、デスク周りは六人の二宮環で埋め尽くされた。 「ちょっと、狭いんだけど」 「くしゃみ止めてよ!」 「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」 六人全員が同じ服装、同じ顔で、口々に不満を言い始めた。幸い、オフィスにはもう誰も残っていなかった。終業時間を過ぎていたのだ。 「えーと、私たちはどうすればいいの?」 「こんなにいたら、もうおそ松さんかよって感じよね」 「あたし、タマ松!」 「さっきから、お笑い枠がいる」 六人の環は、それぞれの個性を出し始めた。一人は冷静に状況を分析し、一人は今後の生活費の心配をし、一人はこの現象をネットに書き込もうとし、一人はお笑いネタを連発している。皆、同じ遺伝子を持つはずなのに、少しずつ反応が違うのだ。 「明日、会社どうする?」誰かが呟いた。 「六人全員で行くわけにはいかないでしょ」 「とりあえず、今日のところは私の家に全員集合よ」 最初の環がリーダーシップを握り、六人はオフィスを後にした。六人が並んで電車に乗り込むと車内がざわつく。並んで吊革に掴まると、他の乗客たちは何かの撮影だと思っているようだ。勝手にスマホで撮影している者もいる。 「晩御飯はどうする」 「食事の用意が大変」 「胡椒は振らないでよ」 六人分の食事を終えると、誰かがリビングで寝転がり、別の誰かが風呂を洗い始めた。ここで六人分の寝床を確保しなけれ...