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【1000文字小説】時空の針

 観測施設は地球の極地、永年氷床の下に隠されていた。全長500メートルの地下複合施設は、厚さ3メートルのチタンと複合炭素材の壁に囲まれ、放射線や微小重力波の漏洩を防いでいる。施設内には制御室、冷却プラント、実験用クリーンルーム、緊急隔離区画が並び、常時50名の科学者・技術者・安全担当者が交代で勤務していた。私はその中で、人間として「最終承認者」に指定された唯一の存在だ。 人工ブラックホール生成実験のすべてはAI〈カルマ〉が制御する。レーザー干渉計の調整、重力波解析、ミニブラックホールの安定化計算──それは人間には到底追いつけない精密さだ。私は実験承認と、ログ確認、緊急時の停止ボタン操作だけを担当している。通常の操作はすべてAIが完璧に行うため、私が手を動かす機会はほとんどない。しかし、緊急停止ボタンを握る手には、無意味でも重圧がかかる。 「ブラックホール生成、準備完了。0.0001秒単位で安定化しています」  AIの声が室内に響く。私は端末に表示された微細な誤差に目を凝らす。もし干渉レーザーの角度が0.02ミリラジアンでもずれれば、ブラックホールは不安定化し、施設全体に放射線が拡散する可能性がある。安全プロトコルは複数層に分かれ、緊急隔離区画への遮蔽扉、クリーンルームの自動封鎖、そして外部への即時警報が組み込まれている。しかし、これらすべてのシステムに頼っても、私の手のひらの汗は止まらない。 生成ボタンを押す。数マイクロ秒の間、世界が止まったように感じられた。光子は干渉パターンを描き、時空はわずかに湾曲する。観測器の数値が跳ね、AIが解析を開始する。私は心臓の鼓動が自分の体内で増幅されるように感じ、呼吸を整える。極限状態での時間感覚は歪み、私の思考は数字と体感の間で揺れる。 「局所時間の歪み、0.000001秒。理論値と一致」  AIの報告は冷静そのものだ。しかし、私はそれを見つめながら、瞬間的に極地の氷床の寒気や、施設全体の微かな振動まで意識に入る。もし何か誤差があれば、地下500メートルの空間が一瞬で危険になることを想像し、背筋が凍る。 観測を続けるうち、微小ブラックホールは安定を保ちながら光子を曲げ、重力波を放出する。施設内の同僚たちは各自のモニター越しに数字を見守っているが、AIの解析が正しい限り、手は動かさない。私はログに署名し...

【1000文字小説】雪の出勤

 雪が積もった朝独特の、しんと静まった物音のなさが逆に目を覚まさせた。窓の外は白く染まり、屋根や庭の植木が静かに雪を抱えている。前日からの天気予報で覚悟していた通り、車は使えない。スタッドレスタイヤに交換しそびれたせいだ。仕方なく歩いての出勤になる。七時半、ゆっくり身支度を済ませ、靴紐を確かめて家を出た。 住宅街の細い道に足を踏み入れると、息が白く浮かび、冬の冷気が肌に触れた。雪はまだ柔らかく、踏むたびに小さなきしみを返す。隣家の屋根に積もった雪は縁まで張り出し、植木は白い重みで枝を垂らしている。角を曲がると、一台分の車の轍があり、排気が白い霞のように漂っていた。真新しい雪面に自分の足跡が一本、まっすぐに続いていく。 雪道を歩くと、いつも思い出すことがある。子どものころ、大雪で学校が遅れて始まった朝、兄と一緒にまだ誰も踏んでいない通学路を歩いたことだ。足跡をつけるたびに、世界に最初の印を押しているようで、胸が少し誇らしかった。今朝の静けさは、そんな小さな冒険心をふと呼び覚ます。 住宅街を抜けるころには、通勤通学の人々とすれ違うようになる。雪の日でもスマホを見たまま歩くサラリーマン、学校へ向かう子どもたち、リュックを揺らす学生。柔らかな足音と会話が雪の静けさにわずかな温度を加える。車も速度を落とし、赤いテールランプが雪にぼんやりと反射していた。 歩くほどに手足の先が温まり、体は雪景色とは別のリズムで動き始める。駅前の広い通りでは人の流れが増え、踏み固められた雪は少し乾いた硬さに変わる。赤や白のランプが雪面に揺れ、光を吸った道路は普段より深い陰影をつくっていた。駅を過ぎると再び人影は少なくなり、静けさが戻る。雪道を歩いていると、普段はただ車で通り過ぎるだけの街が、どこかよそゆきの顔を見せる。軒先の植木、家の壁の色、通りの広さ――どれも同じはずなのに、雪に覆われるとまるで知らない街のように見え、少しだけ旅に出たような気持ちになる。 八時半、会社の建物が影のように姿を現した。歩いて近づくと、車で見るより大きく、そして静かに感じられる。入口前の敷石には薄く雪が残り、踏むたびに乾いた音が響いた。手袋を払い雪を落とし、冷たいドアノブに触れる。ひやりとした金属の感触が掌に伝わるが、歩いてきた体はほどよく温まっている。今日の一日がゆっくり動き始めるのを感じながら、背後ではまだ...

【1000文字小説】午前二時の静かな悲鳴

 「もう限界」―心の中でそう呟きながらも、聡美はパソコンの画面を見つめ続けていた。大手食品メーカーの営業事務として働く三十一歳。会社は都内の一等地にオフィスを構えているが、きらびやかなイメージとは裏腹に、社内は常にピリピリとした空気に包まれていた。 今日のタスクは、月末締めの売上データのクロスチェック。細かな数字の羅列が目をチカチカさせる。一つでも間違えれば、営業担当からきつい言葉が飛んでくる。「嫌なことをしてるから、給料がもらえるんだ」。これは、入社時に先輩が教えてくれた言葉で、聡美の座右の銘でもあった。みんな一緒。我慢して、嫌なことに耐えて働いている。自分だけが辛いわけじゃない。 午前二時。カチカチとキーボードを叩く音だけが、静まり返ったオフィスに響く。残業は当たり前。終電を逃すことも日常茶飯事だ。家に帰っても、コンビニで買った弁当をかきこみ、シャワーを浴びて寝るだけ。自分の為の時間なんて、もう何年も持っていない。肌荒れはひどくなり、目の下のクマは消えることがない。鏡を見るたび、そこに映る疲れ切った自分の顔にぎょっとする。 それでも、聡美は我慢した。与えられた仕事は完璧にこなした。取引先からの無理な要求にも、営業担当の理不尽な怒りにも、笑顔で応えた。それは、優秀な社員であろうとする意地と、ほんの少しのプライドがあったからかもしれない。 「高元さん、このデータ、明日朝一で修正できる?」 背後から声がして振り返ると、そこには鬼のような形相をした課長の顔があった。もうすでに今日の業務は終わるはずだったのに、更なる仕事を押し付けられる。 「はい、承知いたしました」 条件反射で返事をする。断るという選択肢は、聡美の辞書にはなかった。課長が去った後、大きくため息をつく。体は鉛のように重く、頭痛がひどい。視界がぼやけているような気もする。 「もう少し、頑張れば……」 自分に言い聞かせ、再びパソコンに向き直る。しかし、指先がキーボードの上で止まった。ふと、遠い昔に読んだ絵本の一節が頭をよぎる。「本当に大切なものは、目には見えない」今の聡美にとって、本当に大切なものは何だろう。健康? 自分の時間? それとも、ただ誰かに認められたいという承認欲求? ディスプレイに映る数字の羅列が、突然無意味な記号に見えた。このままでは、自分が自分自身でなくなってしまう。ここから、離れなけれ...