【1000文字小説】影を踏む夜

 雨は常に酸の匂いがした。高架下の市場で、彼は義眼を売っていた。光学規格は三世代前、網膜に広告を流すだけの簡素なものだが、路上ではまだ需要がある。彼――名は誰も呼ばない――は値段を告げる前に、必ず指で棚の角を二度叩いた。叩かずに声を出すと、言葉が崩れる気がした。都市は層でできている。上層は企業の空、下層は人の空。彼が立つのはいつも下層だった。ドローンの影が走るたび、群衆は一瞬だけ静かになる。検閲アルゴリズムが感情を測り、反抗の兆しを刈り取るからだ。

彼のポケットには、密かに改変したチップが一枚あった。個人の記憶を短時間だけ共有する。違法だが、売らない。彼自身のためだった。夜になると、彼は廃駅の端でチップを起動し、誰かの幸福を数分だけ借りる。花火の音、誰かの笑顔、手のひらの温度、髪に触れる風の感触。借り物は必ず返すと決めていた。それらの感覚が、心の中で規則正しく並ぶ。

ある夜、少女が現れた。片目は布で覆われ、もう片方は彼の売る義眼よりも古い光を宿している。少女は歩み寄る途中で一度だけ立ち止まり、床に落ちた自分の影を、靴先で踏み直した。それから義眼を指ささず、チップを見た。彼は反射的に棚を叩こうとして、やめた。その理由は彼にもわからない。わからないまま、首を振った。

「返さなくていい記憶があるの」

共有されたのは、停電した街で人々が肩を寄せ、歌った夜だった。なぜ監視が沈黙したのか、なぜ誰も罰せられなかったのか、そこだけが思い出せない。空は暗く、しかし温かかった。再生が終わると、少女はいなかった。

代わりに、彼の胸には借り物ではない熱が残った。指先に微かに震えを感じ、掌に温かさが広がる。胸の奥で鼓動が弾むのを確かめ、唇に小さな笑みを浮かべた。

翌朝、彼は義眼の箱を畳み、上層へ向かうエレベーターを見上げた。指が無意識に棚の角を探し、何もない空を叩いた。都市は層でできているが、歌は層を越える。彼は初めて、自分の体の中で温かさを感じながら、名前を名乗る準備ができた気がした。


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