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【1000文字小説】初恋と未来のせめぎ合い

 二月下旬の空は灰色だった。それでも夕方五時を過ぎた頃にはビルの隙間から細く差し込む光が、アスファルトに残る雪解けのシミをきらきらと光らせていた。真理子はコートの襟を立て、一日の疲れを吐き出すように小さくため息をついた。 駅前の大通りは人でごった返している。友人との約束もない、恋人と会う予定もない。まっすぐ家に帰れば、待っているのは冷え切った部屋だ。そんな孤独を少しでも和らげたくて、真理子は時折このペットショップに立ち寄っていた。決して飼おうと思っているわけではない。ペットを飼い始めると結婚が遠ざかる、というまことしやかな噂も耳にしたことがある。癒しと引き換えに何か大切なものを手放すような気がして、踏み出せないでいた。  ガラス越しに猫たちがじゃれ合っている。真理子はうっとりとその光景に見入る。この子を連れて帰りたい衝動。しかし、ふと我に返った瞬間に冷めてしまう。毎日の残業、突然の出張。週末だって疲れ切って寝て過ごす。そんなことを考えているうちに、愛おしさは諦めに変わっていく。  次に見たのは尻尾がかすかに揺れている柴犬。まん丸で、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳で真理子を見上げている。目が合った瞬間、真理子の視界が一瞬だけ白く光った。と同時に小学生の頃の記憶が蘇る。誰かとアイスを食べながら笑っている。無邪気で、楽しかった、何もかもが輝いて見えたあの頃の記憶。誰かとは初恋の君だ。記憶は一瞬で消えたが、子犬は初恋の相手そっくりに見えた。 「まさか、生まれ変わり……?」 そう呟くほどそっくりだ。が、そんなわけがない。初恋の相手はついこの間の同窓会で再会したばかりだ。立派な会社員になって、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべていた。お互い近況を話すだけの、ごく普通の再会だった。それなのに子犬の顔を見るたびに、あの日の彼の笑顔が重なってしまう。この子犬がもたらした不思議な体験は、真理子の心にさざ波を立てていた。この子を連れて帰ったら、毎日初恋の彼に会える? でも世話の時間、お金、そして何より、未来のパートナーとの関係。もしこの子を飼ったら、もう本当に結婚できなくなるかもしれない。新しい出会いを求めて頑張る自分と、過去の思い出に浸る自分が、真理子の中で激しくせめぎ合う。やがて「初恋は、初恋のままだから綺麗なの」そう結論した真理子はペットショップのドアを開けた...

【1000文字小説】毎年恒例、本命チョコがないのが寂しい

 会社のドアを開けると、いつも一番乗りの社長の田中がいた。朝から大きな声で挨拶をして、オフィスに明るさをもたらす田中社長。「おお、真琴ちゃん、おはよう!いつもご苦労様」 「おはようございます、社長」 真琴は紙袋から渋めのパッケージのチョコレートを取り出す。 「皆さんでどうぞ、ささやかですが」 「わざわざ悪いねぇ!真琴ちゃん、毎年律儀だなぁ」 大切そうに受け取る田中は心底嬉しそうだ。 続いて出社してきたのは、三歳年上の先輩デザイナー木下だ。普段は寡黙だが、仕事に対しては真摯な姿勢を見せる。 「おはようございます、木下さん」 「おはよう、小野寺さん。早いね」 真琴は、木下には別の種類のチョコレートを渡す。 「あぁ、ありがとう。悪いね」 木下は少し照れくさそうに受け取った。 三人目は真琴と同期入社の営業担当、佐藤だ。明るい性格でムードメーカー的な存在。 「真琴、おはよう!今日も美人だね!」 「もう、佐藤さん、からかわないでください。いつも言われますよ。はい、どうぞ」 「おっ、ありがとう!愛してるぜ、真琴!」 佐藤は冗談を交えながらチョコを受け取る。 最後に新人デザイナーの伊藤。入社二年目の二十三歳。真面目で素直な好青年だ。 「おはようございます、小野寺さん」 「おはよう、伊藤くん。はい、どうぞ」 真琴は、伊藤には可愛らしいパッケージのチョコレートを渡す。 「えっ、小野寺さん、ありがとうございます!」 伊藤は目を輝かせて喜んだ。 真琴は自席に戻り一息つく。今年の義理チョコ配りも無事に終わった。この一連の作業は手間もお金もかかるけれど、決して嫌ではなかった。むしろ、年に一度、普段あまり口に出せない感謝の気持ちを伝える良い機会になっている。けれど自席に戻り自分のデスクに目を落とすと、そこにあるのは自分へのご褒美として買った高価なチョコレートだけ。そう思うと本命チョコがないことが、じんわりと胸に染みる。 チョコレートの甘い香りが、ほんのりとオフィスに漂っている中、ふと紙袋の中に見覚えのない、リボンのついた一箱が残っていることに気づいた。確かに、男性陣四人分しか買っていないはずなのに。真琴は首を傾げ記憶をたどったが、もう一個買った覚えはどう探してもない。 朝出る時に個数は確認した。ということは、この会社の中の人が私にくれた? それも黙って。真琴は、まるで秘密の謎を解き明かし...

【1000文字小説】また雪が積もった朝に

 ニ月上旬、朝靄が立ちこめる前に、莉子はアパートのドアを開けた。吐き出す息が白く、一瞬で消えていく。夜の間に降り積もった雪は、街全体を柔らかく包み込んでいた。アスファルトの冷たい質感も、車のボンネットに積もった埃も、すべてが白い粉の下に隠され無垢な世界を創り出している。 頬を刺すような冷たい空気が、吐く息の温かさと鮮やかな対比をなしていた。その冷たさが心地よく、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。街は白一色の世界と化し、見慣れた景色は霞みがかって柔らかく見えた。いつも賑やかな通りも、この静けさの中ではまるで別世界のようだ。歩道に足を踏み出すとその静寂は、莉子の長靴が純粋な雪を踏みしめる鈍い音によってだけ破られた。 莉子は小学校低学年の頃、雨や雪の日に長靴を履いて登校することが、何よりの楽しみだった。いつもの履き慣れたズックではない、雨や雪の日にしか会えない、お気に入りのピカチュウが入った長靴だ。だが新雪の中に足を埋めることは、どこか心もとなさを感じていた。雪が長靴の中に染み込むのではないか、転んで雪まみれになるのではないかという不安があった。しかし何度も冬を越し、身長も足も大きくなった今履く長靴は、どんな雪道でも、どんな凍った道でも、どこへでも行けるような気がする相棒だ。 莉子はいつもの通り道である公園の前を通り過ぎるときに雪だるまを見かけた。早起きして誰かが作ったのだろう。莉子は小学校へ向かう道を急いだ。いつもの時間よりもだいぶ早く家を出たのは、まだ誰も足を踏み入れていない校庭に、一番乗りで自分の足跡をつけたいという思いがあったからだ。校門をくぐると、誰もいない校庭が目に飛び込んできた。そこには、ただ一面の真っ白なキャンバスが広がっている。誰の足跡もないが、車の轍が一台分だけあった。でもまあ、人間は一番乗りだ。 しかし、校庭の中央に小さな女の子が立っているのを見つけた。どこかぼんやりと霞んで見え、彼女の周りには、一切の足跡がついていない。まるで雪の上に浮かんでいるかのようだ。 遠くから別の子供たちの声が聞こえてきた。莉子がそちらに気を取られた隙をつくように、女の子はふっと姿を消していた。元々いなかったのだろうか。いや、そんなことはない。自分は確かに見たのだ。もしすると雪の妖精?莉子はまた雪が積もった日に、誰の足跡もついていない校庭で、再びあの子を見ることが出...