【1000文字小説】空室の隣人

 古い鉄骨造りのアパートが並ぶ通りは、駅からも商店街からも程よく離れており、夜ともなれば街灯の光だけがぼんやりと路面を照らす。二月下旬の街は、日中の雪解けで路面が水浸しになり、それが夜になると凍りつく。通称「ひかり荘」は、そんな寂れた住宅街にひっそりと佇んでいる。錆びついた階段、剥げかけたクリーム色の外壁。新しく越して来る住人は、安さに惹かれてやってくる者ばかり。僕の両隣の部屋は、その安さに釣られる人もおらず空室のままだ。


僕は窓から外を覗き、何気なく通りを見やった。いつもの風景。しかし、その静寂を破るように部屋にチャイムの音が響いた。間延びしたのんきな音。宅配便だろうか? しかし、最近は何も注文していない。NHKの受信料だってキチンと払ってる。僕は息をひそめ、全身の神経を耳に集中させる。チャイムの音が鳴った後は、何も聞こえない。宅配業者ならば、またチャイムを鳴らすか不在連絡票を入れるはずだ。


気配を消しながら玄関に行き、ドアの覗き穴から外を窺う。ドアの前に男が立っている。背広を着て、手にはビジネスバッグ。セールスマンだろうか。ドアの覗き穴からもう一度外を窺う。男は冷たい光を宿した目でじっとドアを見つめている。それから男はゆっくりと手を上げた。そして、再びチャイムを押す。ピンポーン、と静かな音が響く。僕は、反射的に身を引く。どうすればいい。居留守を使うか。それとも、意を決してドアを開けるか。再びチャイムの音が響く。まるで、僕が中にいることを知っているかのように、さっきよりも少しだけ長く。ドアの向こうから、低い声が聞こえてきた。「お久しぶりです。佐藤さん」


その声に僕は凍りついた。佐藤。それは僕の名字だ。しかし、僕は表札を出していない。なぜ、この男が僕の名字を知っているのだ。「隣の部屋に引っ越してきた者です。ご挨拶が遅くなってすみません」男は少し声のトーンを下げ、申し訳なさそうに言った。僕は混乱する。隣の部屋はどちらも空室のはずだ。「先週引っ越ししてきたばかりで。お隣さんの佐藤さんにはすぐにでもご挨拶を、と思っていたんですが、遅くなってしまい申し訳ありません」


僕は混乱する。さっきはお久しぶりと言っておきながら、今度は引っ越してきた挨拶だと言う。名前まで知っているとはどういうことだ。男は僕が疑っていると気づいているはずなのに、なおも信じ込ませようとするようにまたチャイムを押した。(文字数:1000)


<1000文字小説目次>



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