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【1000文字小説】いない母

 奈々は、朝の光に目を細めながら台所に入った。 テーブルの上には、母の丸みのある字で書かれた置き手紙と、封筒に入れられた当面の生活費が並んでいる。封筒の端には、母がいつも書き添える小さな星印があった。 「少しの間、いなくなります。ちゃんと食べてね」 それだけだった。 奈々は立ち止まり、胸の奥がすっと軽くなるのを感じる。ほっとした、という感覚に近い。だがその直後、心臓が一拍、強く跳ねた。 母の二年ぶり、三度目の家出だった。 恋に落ちると、母は決まってこうなる。仕事も、家も、日常も、いったん脇に置いてしまう。それでも出ていく前には必ず冷蔵庫を整理し、調味料の残量を確かめ、封筒に星印をつける。その几帳面さだけは、恋に溺れても失われない。 ここ数年、母娘の関係は穏やかだった。一緒に夕飯を食べ、テレビを見て、他愛ない会話もしていた。だから奈々は、怒りよりも先に「またか」と思ってしまう自分に気づく。 制服に着替え、リュックを背負う。手紙をもう一度読む。文字は少し右に傾いている。母が急いで書いたときの癖だ。 奈々は知らず、自分の字も最近似てきたことを思い出す。 通学路を歩く。踏切の警報が遠くで鳴り、雨上がりのアスファルトには水たまりが残っている。光を跳ね返すそれを、奈々は避けるように歩く。友達とすれ違い、軽く会釈をするが、声は出なかった。心の半分は、すでに空になった台所に置き去りにされている。 教室の窓際に座り、ノートを開く。授業の声は耳に入るが、頭の奥で手紙の文字が何度も浮かび上がる。 幼い頃、母が読み聞かせをしてくれた絵本。日曜のまとめ買い。焦げた卵焼きを笑いながら食べた朝。 それらの記憶が、今の静かな不在と重なり、胸に小さな波を立てる。 昼休み。 弁当箱を開けた瞬間、奈々の指が止まった。 卵焼きが入っている。少し甘くて、端がほんのり焦げている。 母の味だった。 箸を取ろうとして、視界がにじむ。 こんなものを残していくなんて。 いつもみたいに「いってきます」も言わずに。 胸の奥に、今まで抑えていたものが一気にせり上がる。怒りなのか、寂しさなのか、自分でもわからない。ただ、喉が詰まり、呼吸が浅くなる。奈々は慌てて俯き、弁当箱を閉じた。 ――泣かない。 ここで泣いたら、全部崩れてしまう気がした。 午後の授業中、奈々は窓の外を見つめる。母のいない家は、少しだけ静かになるだろ...

【1000文字小説】聖夜の余白

 窓の外は、凍てつくような冬の夜。家々の窓から漏れる暖かな光が、ぽつりぽつりと闇に浮かんでいる。今日は十二月二十四日、クリスマス・イブだというのに、我が家はしんと静まり返っている。 時計の針は八時を回ったところ。夕食はとうに終え、食器も片付けた。夫は会社の忘年会で帰りが遅くなる。息子は春から就職して一人暮らしを始め、今日は仕事の後、会社の同僚達と過ごすのだろう。娘は大学の友人達とクリスマスパーティらしい。皆、それぞれの場所で、それぞれの「聖夜」を謳歌しているようだ。 一人、リビングのソファに腰を下ろし、壁にかかった小さなクリスマスリースを見つめる。きらびやかなイルミネーションもない、慎ましやかなものだ。この家でクリスマスを一人で過ごすのは、果たして何年ぶりのことだろう。息子が生まれる前、夫と二人で過ごしたあの頃以来かもしれない。 あの頃は、二人でレストランを予約したり、家でささやかなディナーを用意したりしたものだ。息子や娘が生まれてからは、ツリーを飾り付け、サンタクロースからのプレゼントに目を輝かせる子供達の笑顔が、何よりのクリスマスプレゼントだった。家族四人の笑い声が絶えなかった食卓も、今では夫婦二人分になり、今日は私一人。 寂しいと言えば寂しいのかもしれない。でも、不思議と悲壮感はない。むしろ、長年の主婦業で常に誰かのために気を張ってきた心が、この静寂の中でゆっくりと解けていくのを感じる。これもまた、人生の移ろいというものだろう。まるで独身時代にでも帰ったような、自由で清々しい気持ちがあった。子供達は巣立ち、夫は仕事に忙しい。それぞれの人生を懸命に生きている証拠だ。 ふと、キッチンから微かな甘い香りが漂ってきた。今日の昼間、時間を持て余して焼いたクッキーだ。冷めたクッキーを数枚皿に載せ、熱い紅茶を淹れる。ソファに戻り、クッキーを一口かじる。素朴で優しい甘さが口いっぱいに広がる。 この静かな時間も悪くない。子供達の成長を喜び、夫の健康を願い、そして何より、自分自身の心と向き合うための、かけがえのない余白なのかもしれない。 窓の外を、白いものが舞い始めた。積もるかもしれない。紅茶で温まった体と心で、私は静かに更けていく聖夜を見送った。明日は夫も早く帰ってくるだろう。年末に向けて、また忙しい日々が始まる。それまでの、ほんの少しの休息。この穏やかな孤独を、私は愛...

【1000文字小説】角度の記憶

 佐々木はハンドルに手を添えたまま、前方を滑るように走る銀色のアクアを凝視していた。 ナンバープレートの「12-12」が、街灯の反射でわずかに滲む。 今日の日付――そして、かつての妻の誕生日でもあった。 「……おめでとう」 呟きは車内にさえ残らず、空気に紛れて消えた。 記憶の底で、彼女が笑うとき左の口角が一拍遅れて上がった、あの癖だけが、指先をそっと掠めるように生々しく蘇る。 赤信号。 アクアが速度を落とし、ブレーキランプが柔らかく灯った。 その一瞬の“溜め”――歩みを止めるときの彼女の癖に重なり、佐々木の胸の奥で、沈んでいたはずの古い傷がゆっくりと目を覚ます。 街路樹はすっかり葉を落とし、黒い枝が風に揺れていた。 道沿いのイルミネーションは色だけが浮き立ち、どこか頼りなく滲んでいる。 華やぎとは程遠い、冷えた光。その粒が、冬の夜気の中で妙に心許なかった。 不意に、アクアが左ウインカーを出す。 同じ瞬間、佐々木の指も、ほとんど反射のようにレバーを倒していた。 カチ、カチ――二台の律動が重なり合い、静まり返った街に、規則的な拍動のように沁み込んでいく。 偶然か、それとも何かに導かれているのか。判断のつかない奇妙な同調だった。 見慣れた細い路地へ入る。 赤いテールランプが風に揺れて線となり、そのたび佐々木の胸で微かな波紋が広がった。 自宅マンションへ続く角。 アクアは何のためらいもなく曲がっていく。 喉の奥に、驚きとも不安ともつかぬ感情がひっかかったまま、佐々木はその後を辿った。 広い駐車場に入り、銀の車は一つの区画で静かに止まった。 佐々木も自分のスペースに車を入れるが、しばらくは動けなかった。 コンクリートの壁に風が触れていく音だけが、遠くでかすかに響く。 やがてアクアのドアが開き、降りてきたのは若い女性だった。 見覚えのない顔。 しかし彼女は佐々木の気配に気づくと、礼儀正しい小さな笑みを向けた。 ――その瞬間だった。 首をわずかに傾けかけた、その一拍の角度。 ただそれだけが、元妻が微笑を見せるときの“入口”とまるで同じ形をしていた。 似ているかどうかを確かめるより先に、胸の奥に冷たいものがひとすじ落ちた。 記憶が現実を追い越していく。 名のつかない既視感が、静かに彼を包み込む。 女性は何事もなかったように視線を戻し、そのまま歩き去った。 残されたのは、ほん...

【1000文字小説】カロリーなんて気にしてられない

 腹の虫がグーと鳴り、私はベッドから跳ね起きた。時計を見て驚く。アラームが鳴るまであと二時間もある。なのに、この突き上げるような空腹感は何? 「嘘でしょ…」 私は普段、朝食を抜くのが当たり前で、コーヒー一杯で昼まで余裕で持つタイプだ。ダイエットのためというよりは、単純に朝は食欲がない。それなのに今、私の胃袋はブラックホールのように食べ物を求めている。 キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。賞味期限ぎりぎりのヨーグルト、バナナ、そして昨晩の残りの唐揚げ二個。唐揚げなんて普段なら絶対朝には食べないメニューだが、めちゃくちゃ美味しそうに見える。 唐揚げをトースターで温め直し、まずはヨーグルトを流し込む。次にバナナを三口で平らげ、温まった唐揚げを頬張る。美味しい。あっという間に完食。 「ふぅ…」 軽く息をついたが、満腹感は全くない。むしろ、もっともっとと胃袋が叫んでいる。一体どうしたというのだろう。お腹がすごく空く夢を見たのが原因? 三十路前なのに成長期が始まった? 出勤までまだ時間がある。私は手早く支度を整え、家を出た。向かう先は近所のローソン。 店内の明るい照明の下、私は食べ物を探して目を皿のようにする。おにぎり、サンドイッチ、菓子パン、ホットスナック。目につくもの全てが美味しそうに見える。いつもはカロリーを気にして手に取らないような、こってりとした総菜パンや、あんこがぎっしり詰まった菓子パンを次々とカゴに入れていく。 レジに並びながら、ついでにホットスナックのケースに目をやる。揚げ物の油っぽい匂いがたまらない。普段なら絶対に避けるであろう「ピザまん」と「Lチキ」を注文した。店員さんが手際よく袋に入れてくれるのを、私はまだかまだかと待ちわびる。 店を出て、温かいピザまんを頬張る。ホカホカで美味しい。続いてLチキにかぶりつく。いつもの地下鉄の改札を抜ける時も、手に持ったスティックパンをモグモグと食べていた。周りの視線が痛い気もするが、今はそれどころではない。 電車に乗り込み、座席に腰を下ろす。カバンから新たに取り出したチョコクロワッサンを、周りの乗客なんてお構いなしに、急いで口に運ぶ。口の中は甘さとバターの風味でいっぱいだ。 まずい。会社に着くまでにお腹を膨らませないと、仕事どころじゃない。会社に着くまで空腹はおさまるのか。私はひたすらパンを咀嚼し続けた。カロリーなんて...