【1000文字小説】角度の記憶

 佐々木はハンドルに手を添えたまま、前方を滑るように走る銀色のアクアを凝視していた。

ナンバープレートの「12-12」が、街灯の反射でわずかに滲む。

今日の日付――そして、かつての妻の誕生日でもあった。


「……おめでとう」


呟きは車内にさえ残らず、空気に紛れて消えた。

記憶の底で、彼女が笑うとき左の口角が一拍遅れて上がった、あの癖だけが、指先をそっと掠めるように生々しく蘇る。


赤信号。

アクアが速度を落とし、ブレーキランプが柔らかく灯った。

その一瞬の“溜め”――歩みを止めるときの彼女の癖に重なり、佐々木の胸の奥で、沈んでいたはずの古い傷がゆっくりと目を覚ます。


街路樹はすっかり葉を落とし、黒い枝が風に揺れていた。

道沿いのイルミネーションは色だけが浮き立ち、どこか頼りなく滲んでいる。

華やぎとは程遠い、冷えた光。その粒が、冬の夜気の中で妙に心許なかった。


不意に、アクアが左ウインカーを出す。

同じ瞬間、佐々木の指も、ほとんど反射のようにレバーを倒していた。

カチ、カチ――二台の律動が重なり合い、静まり返った街に、規則的な拍動のように沁み込んでいく。

偶然か、それとも何かに導かれているのか。判断のつかない奇妙な同調だった。


見慣れた細い路地へ入る。

赤いテールランプが風に揺れて線となり、そのたび佐々木の胸で微かな波紋が広がった。


自宅マンションへ続く角。

アクアは何のためらいもなく曲がっていく。

喉の奥に、驚きとも不安ともつかぬ感情がひっかかったまま、佐々木はその後を辿った。


広い駐車場に入り、銀の車は一つの区画で静かに止まった。

佐々木も自分のスペースに車を入れるが、しばらくは動けなかった。

コンクリートの壁に風が触れていく音だけが、遠くでかすかに響く。


やがてアクアのドアが開き、降りてきたのは若い女性だった。

見覚えのない顔。

しかし彼女は佐々木の気配に気づくと、礼儀正しい小さな笑みを向けた。


――その瞬間だった。


首をわずかに傾けかけた、その一拍の角度。

ただそれだけが、元妻が微笑を見せるときの“入口”とまるで同じ形をしていた。


似ているかどうかを確かめるより先に、胸の奥に冷たいものがひとすじ落ちた。

記憶が現実を追い越していく。

名のつかない既視感が、静かに彼を包み込む。


女性は何事もなかったように視線を戻し、そのまま歩き去った。

残されたのは、ほんの一瞬の角度が置き土産にしていった影だけだった。


冬の夜は、音もなく深く沈んでいった。(文字数:1003)


<1000文字小説目次>

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