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【1000文字小説】ページの速さ

 高校一年の春、私は読書クラブに入部した。 理由は単純で、本を読むのが好きだったからだ。入学案内にあった「集まって各自好きな本を読むクラブ」という説明が、妙に誠実に思えた。 部室は校舎の三階、使われなくなった視聴覚室の隣にあった。初めて扉を開けたとき、先輩たちはすでに席についていて、全員が本を読んでいた。静かで、落ち着いた空気だった。 ただ、すぐに違和感に気づいた。 ページをめくる音が、やけに早い。 ぱら、ぱら、ぱら、と連続して紙が鳴る。誰かが読み終わったと思ったら、もう次の本を開いている。一冊にかかる時間は、体感で一分ほどだった。文庫でも新書でも関係なく、同じ速度で進んでいく。 先輩たちは、本を胸の高さで軽く立てるように持ち、背中を椅子に預けたまま、ほとんど動かない。目だけが、左右に細かく走っている。文字を追うというより、ページ全体を一度に見ているようにも見えた。瞬きの回数が少なく、視線は迷わず、紙面をなぞることもない。 ページをめくる指も独特だった。親指で一気に送るのではなく、人差し指で角を弾くように、最小限の動きで次のページを開く。読み終えた本は、迷いなく閉じられ、机の端に重ねられていく。その山が、じわじわと高くなる。 「……本当に読んでるのかな」 思わず、そんな疑問が浮かんだ。 私はまだ三ページ目で、登場人物の名前を覚えているところだった。 先輩の一人が本を閉じ、別の棚から次の一冊を取った。机の上の本の数は、すでに二十冊を超えていた。 私は思い切って休憩している二年生の先輩に聞いた。 「……読むの、早いですね」 先輩は少しだけ笑って言った。 「普通だよ。大会あるし」 大会、という言葉に、私は首をかしげた。 「五分間で、何冊読めるか競うんだ。速読大会。地区予選があって、全国大会もある」 そう言いながら先輩は、本を閉じるときに表紙を軽く撫で、次の一冊を同じ角度で構えた。動作に無駄がなく、慣れきっている。 「全国、狙ってる人もいるし」 特別な熱も誇らしさもない声だった。 ページはまた、信じられない速さでめくられていく。 その日、私は最後まで一冊を読み終えられなかった。 内容は面白かったはずなのに、周囲の速度が気になって集中できなかった。自分だけが、時間の流れから取り残されているような気がした。 帰り際、机の上に積まれた本の山を見て、少し考えた。 読書って、...

【1000文字小説】四月の冬

 駅前の風にはまだ冬の名残が混じり、若葉の匂いが少しだけ生温い。凛はギターを抱え、大学帰りの足でいつもの場所に立つ。今日も客はほとんどいない。でも歌っている間だけは、自分が消えてしまわない気がした。 深夜の公園で、指先が切れるまでコードを押さえ続けたあの冬の日々が、ふと胸をかすめる。 サビに入ろうとしたとき、目の前で足音が止まった。 凛はわずかに期待を込めて視線を上げる。 「ねえ……それ、本気でやってるの?」 声だけが春の風より冷たかった。 同い年くらいの女の子が、腕を組んで立っていた。淡い桜色のコートなのに、視線だけが氷の色をしている。 「ごめん、責めたいわけじゃないんだけど……こんな場所で歌ってて平気なの? 周りのみんな、ちょっと困ってるよ」 胸の奥がきゅっと縮む。 だけど同時に、凛の内側で何かが熱く跳ねた。 (困ってるって……何を知ってるのよ。私がどれだけ練習したかなんて、知らないくせに) 「……何あんた」 震える声で絞り出すと、女の子は薄く笑った。 「私には、好きなことに時間使える余裕ないから、羨ましいって思っただけ。……なのに、音はまだ……ね」 周囲の人は気まずそうに視線をそらして通り過ぎていく。 誰も庇わない。その沈黙がまるで賛同のようで、凛の怒りはさらに膨らんだ。 (勝手に“みんな”を使わないでよ。誰からも頼まれてないくせに) 胸の内で火花が散るように怒りが燃える。 でも外に出るのは、かすれた小さな声だけ。 声にすれば、全部ぶつけてしまいそう……怖くて出せない。 女の子は凛のギターを見た。 その一瞬、憎々しげでも羨ましげでもある、説明し難い影が瞳をよぎる。 すぐに消えたが、その気配は確かだった。 「……止める人いないんだね。ほんとは私だって——」 言いかけて、彼女はすぐに表情を閉ざした。 「でも、上手くなってからやれば? 今のは……少しきついかな」 四月の風より鋭いヒールの音を響かせて去っていく。 凛は唇を噛んだ。 血の味がわずかに広がる。 怒りで体が熱いのに、手だけが冷たく震えていた。 気付けば、手が弦を強く握りすぎていた。 弦に触れても音は濁った。 どれだけ怒っていても、胸の奥の傷のほうが深い。 凛はギターをケースにしまった。 若葉の匂いも、春の光も、苛立ちと惨めさを薄めてはくれない。 「……今日は、もう無理」 呟きは駅前のざわめきにあっさ...

【1000文字小説】毎日がNG大賞

 よく「美人は三日で飽きる」なんて言うが、俺の隣の席の氷見綾を見ていると、そんな俗説は真っ赤な嘘だと断言できる。長い黒髪、透き通るような白い肌、そして感情の読めないクールな表情。 そんな彼女は毎日、新しい「事件」を提供してくれる。隣の席になって二週間、俺だけが知る彼女の秘密。それは、彼女がとてつもない「ドジ」だということだ。 登校してきた綾は、なぜか隣のB組の教室に入っていく。そして、何事もなかったかのように出てきてA組に入ってきた。教科書を借りに行ったとかでは決してない。いつも隣の席から綾を観察している俺にはわかる。ただ単に教室を間違えただけに違いない。 一時間目の授業が始まる。彼女は教科書とノートを広げ、カバンからピンク色の可愛らしい弁当箱を出し机の上に置いた。 「堂々と早弁か」 俺が心の中でツッコミを入れていると、綾はその弁当箱をじっと見つめ、無表情のまま弁当箱を机の中にしまい、代わりに紺色の筆箱を机の上に置いた。 「入れ替えた!?」 俺はもう笑いを堪えきれず、下を向いた。彼女は至って真面目な、能面のような顔をしている。クールな表情とこの行動のギャップ。 四時間目は国語の授業。教師が「教科書32ページを開いて」と言うと、綾は素直にページを開く。しかし、開いた教科書を見て、俺はまたしても目を疑った。 彼女が開いているのは『数学Ⅰ』の教科書だった。しかも、真剣な顔でそのページを指でなぞっている。そこには二次関数か何かのグラフが描かれているはずだ。「おいおい」と声をかけようとした瞬間、彼女は国語の教科書に取り替えた。その間も表情は変わらない。ゆっくり丁寧な動作だったので俺以外に気づいた奴はいなかっただろう。 五時間目の授業終了のチャイムが鳴った直後、綾は帰りの支度を始めた。筆箱をしまい、カバンを肩にかけ、今にも立ち上がりそうな勢い。俺は思わず声をかけた。「もう一時間あるよ」 綾は無表情で時計を見て、止まった。表情は変わらないが、その場の空気が凍りついたような気がした。無言で、カバンから筆箱を取り出す。 六時間目の授業終了のチャイムが鳴り、今度こそ授業が終了だ。綾は立ち上がり「さよなら」と言いながら教室を出ていった。だがすぐに戻ってきてカバンを手に取り「さよなら」と言って教室を出ていった。 美人は三日で飽きるなんて嘘だ。彼女を見ていると毎日が新鮮で、何日たって...

【1000文字小説】作りすぎと満腹と

 「また作りすぎちゃったな」 花織の趣味は、凝った料理を作ること。しかし、食卓に並ぶ色とりどりの料理を前に、花織は寂しげな笑みを浮かべる。最近離婚し、それまで夫のために振る舞っていた料理を作る相手がいなくなってしまったのだ。越してきたマンションでの一人暮らしには多すぎる量ばかりで、料理への情熱も空回りしていた。 花織がため息をついていると、ちょうど隣の部屋のドアが開く音がした。見ると、疲れた様子の女性が部屋から出てきたところだ。 「あの、初めまして」意を決して花織は声をかけた。「お隣です。もし、お時間があれば……今、夕飯を作りすぎてしまって。一緒にどうですか?」 女性は目を丸くしたが、花織の切羽詰まったような表情を見て微笑んだ。「え、いいんですか?実は、ちょうどコンビニに行こうとしていたところで」 女性は木崎涼と名乗り、三十路前の花織と同じくらいらしい。「へぇー、木崎涼って、私の好きな漫画家さんの本名と一緒ですね」と花織が言うと、涼は遠慮がちに「それ、あたしですよ」「え、もしかして……あの『星降るカフェテリア』って、涼さんが描いてるんですか!?」 興奮する花織。大好きな漫画の作者が隣人だったなんて、奇跡としか思えない。 「星カフェの昴くん、推しなんですよ。出てくるカフェメニューも全部美味しそうで。あ、冷めないうちにどうぞ」 食卓に並んだローストビーフ、キッシュ、山盛りサラダを見て、涼は目を輝かせた。「わあ!すごいご馳走!」 そして、花織が驚くほどの食べっぷりを見せた。まるで戦場に赴く兵士のように、一切の迷いなくフォークとナイフを動かし、ローストビーフを次々と口に運ぶ。キッシュは一切れが二口で消え、山盛りのサラダも、まるで胃袋に吸い込まれていくかのように瞬く間に平らげられていった。 「ひ、人ってあんなに早く食べられるんだ」 料理はあっという間になくなっていく。 「た、足りないかな」 「……いつもはこれくらいで十分なんですけど、マンガ描くのってストレスで、ストレス溜まるといっぱい食べたくなっちゃうんです」 花織はまずは卵かけご飯を出して場を繋ぎ、追加の料理を作るがそれもどんどん平らげていく涼。 そしてようやく、「本当に美味しかったです!ありがとうございました!」お腹いっぱいになった涼の笑顔は、シリアスな恋愛マンガの作者とは思えないほど無邪気だった。こうして、二人...