【1000文字小説】四月の冬

 駅前の風にはまだ冬の名残が混じり、若葉の匂いが少しだけ生温い。凛はギターを抱え、大学帰りの足でいつもの場所に立つ。今日も客はほとんどいない。でも歌っている間だけは、自分が消えてしまわない気がした。

深夜の公園で、指先が切れるまでコードを押さえ続けたあの冬の日々が、ふと胸をかすめる。


サビに入ろうとしたとき、目の前で足音が止まった。

凛はわずかに期待を込めて視線を上げる。


「ねえ……それ、本気でやってるの?」

声だけが春の風より冷たかった。

同い年くらいの女の子が、腕を組んで立っていた。淡い桜色のコートなのに、視線だけが氷の色をしている。


「ごめん、責めたいわけじゃないんだけど……こんな場所で歌ってて平気なの? 周りのみんな、ちょっと困ってるよ」


胸の奥がきゅっと縮む。

だけど同時に、凛の内側で何かが熱く跳ねた。


(困ってるって……何を知ってるのよ。私がどれだけ練習したかなんて、知らないくせに)


「……何あんた」

震える声で絞り出すと、女の子は薄く笑った。


「私には、好きなことに時間使える余裕ないから、羨ましいって思っただけ。……なのに、音はまだ……ね」


周囲の人は気まずそうに視線をそらして通り過ぎていく。

誰も庇わない。その沈黙がまるで賛同のようで、凛の怒りはさらに膨らんだ。


(勝手に“みんな”を使わないでよ。誰からも頼まれてないくせに)


胸の内で火花が散るように怒りが燃える。

でも外に出るのは、かすれた小さな声だけ。

声にすれば、全部ぶつけてしまいそう……怖くて出せない。


女の子は凛のギターを見た。

その一瞬、憎々しげでも羨ましげでもある、説明し難い影が瞳をよぎる。

すぐに消えたが、その気配は確かだった。


「……止める人いないんだね。ほんとは私だって——」

言いかけて、彼女はすぐに表情を閉ざした。

「でも、上手くなってからやれば? 今のは……少しきついかな」


四月の風より鋭いヒールの音を響かせて去っていく。


凛は唇を噛んだ。

血の味がわずかに広がる。

怒りで体が熱いのに、手だけが冷たく震えていた。

気付けば、手が弦を強く握りすぎていた。

弦に触れても音は濁った。


どれだけ怒っていても、胸の奥の傷のほうが深い。


凛はギターをケースにしまった。

若葉の匂いも、春の光も、苛立ちと惨めさを薄めてはくれない。


「……今日は、もう無理」


呟きは駅前のざわめきにあっさりかき消えた。

新しい季節のはじまりなのに、凛の心は再び冬に逆戻りしていた。(文字数:994)

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