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【1000文字小説】今日からあなたは吸血鬼

朝、洗面所の電気をつけて、私はいつものように鏡の前に立った。 「あれ……?」 鏡の中には、洗面台と白い壁だけが映っていた。眠そうな顔も、肩までの髪も、そこにあるはずの私だけが、きれいに消えている。 心臓が一拍遅れて、どくんと鳴った。 「……いや、嘘でしょ」 鏡に近づき、横を向き、跳ねてみる。それでも何も映らない。まるで私は、最初から存在していなかったみたいだ。 「おかーさん……」 声がかすれる。 「おかーさん! 顔が、映らない!」 キッチンから足音がして、母が現れた。眠そうな顔のまま鏡を見る。そして、その表情が一瞬で強張った。 「……やっぱり」 「やっぱりって何!? 知ってたの!?」 私は母の腕を掴んだ。手は確かにそこにあるのに、鏡には映らない。その事実が、余計に怖い。 母はしばらく黙ってから、静かに言った。 「いい? 落ち着いて聞いて。あなたはね……吸血鬼なの」 「……は?」 頭がついてこない。 「吸血鬼って、血を吸って、日光浴びたら灰になるやつ?」 「血は吸わなくても生きていけるし、灰にもならないわ。進化したタイプなの」 「進化って、なにそれ……」 冗談にしか聞こえないのに、鏡は何も答えてくれない。 「どういうことなの? お母さんも?」 「違う。吸血鬼なのはお父さん。あなたは人間と吸血鬼のハーフなの」 「そんな……今まで普通だったじゃん!」 声が大きくなる。胸の奥が、じわじわ熱くなる。 「なんで今まで何もなかったの? なんで今日なの?」 「多分、成長よ。体が変わる時期でしょう?」 私は鏡を叩いた。 「ふざけないでよ!」 鈍い音が洗面所に響く。 「学校は!? 今日、クラス写真あるんだよ! 私、写らないんでしょ!」 言ってから、息が詰まった。 写真の中で、私の場所だけが空白になる。 卒業アルバム。集合写真。証明写真。 思い浮かんだものが、次々と壊れていく。 「友達に、なんて言えばいいの……?」 母は何も言わず、私の手をそっと包んだ。 「大丈夫。全部、一緒に考える」 カーテンが少し開かれ、朝日が腕に当たる。 「……あつ」 「ほら。日光を浴びても灰にはならない。でも、すぐ日焼けするの」 赤くなった腕を見て、現実がじわじわ染み込んでくる。 「血は……?」 「吸わなくてもいい。でも、吸える。選べるの」 私は鏡の前に立ち尽くす。そこには何も映らない。それでも、胸の鼓動だけはは...

【1000文字小説】七階の数字

 蒸し暑い六月の午後、高木悠斗は額の汗を拭いながら、ビルの七階にある株式会社セントラル・エンジニアリングの応接室を出た。手には、今週三度目の訪問でようやく得られた、前向きな検討を約束する名刺が握られている。転職して三ヶ月、初めて掴みかけた大きな契約案件だった。 担当者の藤田部長は、昔気質の職人タイプで気難しかったが、製品の技術的な優位性を熱心に訴えるうちに、少しずつ心を開いてくれたようだ。「高木君の熱意は分かった。最終的な条件を詰める場を設けよう」と言われたときの高揚感は忘れられない。 意気揚々と上司である佐野課長に報告した。佐野は、営業部のエースであり、常に冷静沈着な人物だ。 「佐野課長、セントラル・エンジニアリングの件、いけそうです。次の打ち合わせで決まりそうです」 佐野は書類から目を離さず、「そうか、よくやったな」とだけ応じた。そして、「次の訪問は私が行く。決めるのは私に任せろ」と続けた。悠斗は反論しようとしたが、佐野の冷たい視線に言葉を飲み込んだ。 翌週、佐野と共にセントラル・エンジニアリングを再訪した。 「藤田部長、佐野でございます。この度は、高木がお邪魔しておりまして、申し訳ございません」 佐野課長は開口一番、そう言い放った。悠斗は耳を疑った。「申し訳ない」とは何事だ。 「彼はまだ経験が浅いもので、至らぬ点もあったかと思います。私が責任を持って、御社の懸念を全て解消いたします」 佐野は、悠斗が三週間かけて築き上げた信頼関係や引き出した情報を、まるで自分が最初から把握していたかのように淀みない口調で語り始めた。彼は、悠斗が作成した資料を自分の手元に引き寄せ、顧客の質問に対しても、全て自分が答えていった。時折、悠斗の方を見て「おい高木、その資料はもういい」「データくらいすぐに準備しろ」などと、まるで新人の雑用係に対するような高圧的な指示を出した。 三十分後、藤田部長は満足げな表情で頷いた。「やはり、最終的には佐野さんのようなベテランの方と話ができて安心しましたよ。契約書をお願いします」 帰り道、課長が声をかけた。 「高木、よくやったな。お前の初期アプローチのおかげで、スムーズに最終決裁者のところまでたどり着けた。感謝するよ」と佐野は笑顔を見せた。「これで我が部署の今期の目標達成が見えてきたな。この功績はきちんと部長に報告しておくよ。君の数字はまだゼロ...

【1000文字小説】ミドリちゃん

 高校の教室は、午後の日差しで僅かに蒸していた。古びた扇風機が虚しく首を振る中、東雲茜は窓際の席で微動だにせず、ただ数学の教科書を見つめていた。彼女の着ているくすんだ緑色のカーディガンは、この学校の指定色ではない。一目で「浮いている」とわかるその姿は、周囲の生徒たちにとって、もはや日常風景の一部となっていた。誰も茜に話しかけず、茜もまた誰に話しかけることもない。 「ねえ」 その沈黙を破ったのは、隣のクラスの日向珠莉だった。珠莉は明るい茶髪を揺らし、茜の机の前に立った。茜は表情一つ変えず、視線だけを珠莉に向けた。 「あのさ、図書委員って今日集まりあったっけ?」 珠莉の質問は、明らかに不自然だった。図書委員の集まりは昨日だったはずだ。茜は無言で首を横に振る。 「そっか、昨日かぁ。私うっかりしててさ。ありがと」 珠莉はそう言って笑ったが、その場を立ち去ろうとはしなかった。 「いつもその色の服着てるよね。好きなん?」 茜は再び首を横に振った。好きではない。むしろ嫌いだ。物心ついた時から、母親の「ラッキーカラー」という妄信的な理由で、緑色以外の服を着ることを許されなかった。小学校のあだ名は「ミドリちゃん」。中学校では緑のジャージーを強制され、事なかれ主義の教師たちに黙認された。その結果、誰も彼女に関わろうとしなくなり、彼女自身も外見や他人に興味を失った。 「そっか。じゃあ、特に理由はないって感じ?」 茜は小さく頷く。 「ふーん。まあ、どうでもいいか」珠莉はあっさりと言った。「私もさ、この前のテスト、数学が全然ダメで。東雲さん、いつも真面目にノート取ってるじゃん? もしよかったら、今度見せてもらえないかな。放課後とか」 茜は初めて、僅かに目を見開いた。彼女に向けられた言葉は、彼女の「外見」や「浮いた格好」に関するものではなく、ごく普通の、日常的な「お願い」だった。友達がいない生活の中で、そんな言葉をかけられたのは初めてだった。しかし、長年の無感情はすぐには消えない。茜は表情を硬くしたまま、無言で頷いた。 「やった! ありがとう! じゃあまた放課後ね」 珠莉は満足そうに笑い、自分の教室へ戻っていった。 茜は再び教科書に視線を戻した。心臓がわずかに、奇妙なリズムで鼓動しているような気がしたが、それが「感動」や「喜び」であるのか、彼女自身には分からなかった。ただ、いつもより少...