【1000文字小説】七階の数字
蒸し暑い六月の午後、高木悠斗は額の汗を拭いながら、ビルの七階にある株式会社セントラル・エンジニアリングの応接室を出た。手には、今週三度目の訪問でようやく得られた、前向きな検討を約束する名刺が握られている。転職して三ヶ月、初めて掴みかけた大きな契約案件だった。
担当者の藤田部長は、昔気質の職人タイプで気難しかったが、製品の技術的な優位性を熱心に訴えるうちに、少しずつ心を開いてくれたようだ。「高木君の熱意は分かった。最終的な条件を詰める場を設けよう」と言われたときの高揚感は忘れられない。
意気揚々と上司である佐野課長に報告した。佐野は、営業部のエースであり、常に冷静沈着な人物だ。
「佐野課長、セントラル・エンジニアリングの件、いけそうです。次の打ち合わせで決まりそうです」
佐野は書類から目を離さず、「そうか、よくやったな」とだけ応じた。そして、「次の訪問は私が行く。決めるのは私に任せろ」と続けた。悠斗は反論しようとしたが、佐野の冷たい視線に言葉を飲み込んだ。
翌週、佐野と共にセントラル・エンジニアリングを再訪した。
「藤田部長、佐野でございます。この度は、高木がお邪魔しておりまして、申し訳ございません」
佐野課長は開口一番、そう言い放った。悠斗は耳を疑った。「申し訳ない」とは何事だ。
「彼はまだ経験が浅いもので、至らぬ点もあったかと思います。私が責任を持って、御社の懸念を全て解消いたします」
佐野は、悠斗が三週間かけて築き上げた信頼関係や引き出した情報を、まるで自分が最初から把握していたかのように淀みない口調で語り始めた。彼は、悠斗が作成した資料を自分の手元に引き寄せ、顧客の質問に対しても、全て自分が答えていった。時折、悠斗の方を見て「おい高木、その資料はもういい」「データくらいすぐに準備しろ」などと、まるで新人の雑用係に対するような高圧的な指示を出した。
三十分後、藤田部長は満足げな表情で頷いた。「やはり、最終的には佐野さんのようなベテランの方と話ができて安心しましたよ。契約書をお願いします」
帰り道、課長が声をかけた。
「高木、よくやったな。お前の初期アプローチのおかげで、スムーズに最終決裁者のところまでたどり着けた。感謝するよ」と佐野は笑顔を見せた。「これで我が部署の今期の目標達成が見えてきたな。この功績はきちんと部長に報告しておくよ。君の数字はまだゼロだが、この経験があれば初契約ももうすぐだ」
「え?私の契約にはならないんですか…」
この契約は「佐野課長の数字」として扱われるのか。自分の手柄を横取りされたような、やりきれない灰色の感情が残った。夕日がビルの窓に反射して、やけに眩しかった。(文字数:1101)