【1000文字小説】積もりゆく物語
木々を濡らしていた雨が、いつの間にか雪になっていた。窓の外に目をやると灰色だった街路樹の枝が、うっすらと白く染まっている。アスファルトの黒も次第に白い粒に覆われていく。ぼんやり眺めていた亜美は、休日の静けさに身を委ねながらスマホに手を伸ばした。十二月中旬、三十歳になったばかりの、何の変哲もないOLの休日だ。
天気予報は、午後から雪が強まることを伝えていた。画面をスワイプする。予定のない週末。積もれば買い出しに行くのが少し面倒になる。それだけの話だ。
画面をスクロールすると、友人たちのSNS投稿が流れてくる。「週末は旦那さんと温泉旅行」「結婚記念日のお祝いディナー」どれもが幸せそうで、きらきらと輝いて見える。もちろん、心の底から祝福している。でも、どこかで自分と比べてしまう自分がいることも否定できない。
窓の外では、雪が本格的に降り始めていた。白いカーテンが視界を遮り、街の音を吸い込んでいく。遠くの幹線道路を走る車の音が、いつもよりかすかに聞こえるだけになった。
亜美は、ふと昔の恋人とのことを思い出した。初めて雪が積もった日に、二人で夜の公園を歩いたこと。凍える手をお互いのコートのポケットで温め合ったこと。あの頃の自分は、こんなに穏やかで静かな雪景色を、寂しいと感じただろうか。きっと、寒さよりも誰かといる温もりを感じていたに違いない。
キッチンのほうへ向かい、コーヒーを淹れる。湯がゆっくりと注がれ、豆の膨らむ音、ぽたぽたと滴る音だけが、静かな部屋に響く。立ち昇る湯気と香りが、ささやかな温かさを運んでくる。
少し前に、同僚がSNSで「アラサー女子のリアルな恋愛小説」を書いていたことを思い出した。雨がいつの間にか雪に変わる、そんな一日の話を、誰にも知られることのない、ささやかな物語を、自分も紡いでみようか。主人公は、三十歳になったばかりのOL。予定のない休日に、積もりそうな雪を眺めている。そんな、誰にも知られることのない、ささやかな物語。
スマホを置いて、パソコンに向かう。キーボードに指を置き、カタカタと打ち始める。キーボードの音が、雪の降り積もる音に重なるように思える。空の雪も、心の中の言葉も、今はただ静かに降り積もっている。どれくらい積もるだろうか。
白い街並みを、ひとりのOLが窓から見つめている。彼女の部屋には、やがて始まる物語の始まりを告げる、キーボードの軽やかな音が響いていた。(文字数:1000)