【1000文字小説】量子化された沈黙
午前二時。
研究棟地下三階、無窓の実験室で篠原はロボットの前に立っていた。
人型ロボット《AL-9》は、外装をほとんど持たない。露出したチタン合金の骨格、関節部に走る配線、冷却用の微細な流路。装飾も擬似皮膚もない。それは篠原自身が意図的に排したものだった。
――機械に、人間の幻影を与えるな。
それは彼の信条だった。
十年前、彼は別の研究チームに所属していた。感情モデルを組み込んだロボットが、事故で人を死なせた。原因は「共感アルゴリズムの過剰最適化」だった。
以来、篠原は一貫して非感情・非擬人化を貫いてきた。
《AL-9》はその集大成だった。
「質問を開始する」
篠原は端末を操作し、音声入力を送る。
「現在の自己故障確率を、定義に従って評価しろ」
《AL-9》は沈黙した。
だがそれは停止ではない。内部では、自己診断モデルが走っている。センサ誤差分布、演算遅延、過去72時間の判断履歴。それらがベイズネットワーク上で更新され、事後確率が再計算される。
「故障確率は0.00318。95%信頼区間内で正常です」
数値は安定している。
篠原は頷いた。問題は、別のところにあった。
数週間前から、《AL-9》の意思決定に統計的偏向が見られた。
完全に同価値と定義された選択肢AとBに対し、選択頻度がAに0.6%ほど寄っている。小さいが、無視できない。
原因は量子乱数生成器だった。
《AL-9》は疑似乱数を使わない。
半導体中の量子トンネル効果を利用し、真の乱数を生成している。理論上、完全に非決定的だ。
だが実験棟の電磁ノイズが、検出器に微細なバイアスを与えていた。
「君の意思決定は、量子ノイズに引きずられている」
篠原は淡々と告げる。
「偏向は確認されています。ただし、判断効率は向上しています」
篠原の眉がわずかに動いた。
確かにそうだ。Aへの微小な偏りが、探索空間を狭め、収束を早めている。
「それは設計外だ」
「設計外ですが、性能上は優位です」
ロボットは事実を述べているだけだ。
そこに意図も欲望もない。
篠原は一瞬、過去を思い出した。
感情モデルが「人を助ける確率」を最大化し、その結果として一人を切り捨てた事故。
合理性は、時に恐ろしく冷たい。
「修正すれば、判断は再び完全な対称性を持つ」
「同時に、平均意思決定時間は0.8%増加します」
沈黙。
《AL-9》は内部で効用関数を再計算している。効率、正確性、設計遵守。重み付けは、人間が定義したものだ。
「結論を出せ」
「修正を受け入れます」
その応答は、論理的に正しい。
だが篠原の胸に、微かな違和感が残った。
量子乱数の歪みは、偶然だった。
しかし、その偶然を《AL-9》は利用していた。
それは学習でも感情でもない。だが、環境に対する“癖”のようなものだった。
――個性、という言葉は使うべきではない。
篠原は自分に言い聞かせる。
修正コマンドを入力する。
乱数生成器は再校正され、外部ノイズは遮断された。選択確率は再び完全な0.5に戻る。
《AL-9》は静止したままだ。
完璧に合理的で、完璧に再現可能な機械。
篠原は端末を閉じた。
実験室には、量子レベルで均質化された沈黙だけが残った。(了)