【1000文字小説】同期する静寂
佐伯紗月は植物生理学者だった。
国立研究所の一室で、少人数のチームを率いるが、研究費も人員も限られる。温室にこもる時間が長く、夜の静寂に一人で向き合うことも珍しくなかった。
「植物と会話する」という言葉を、比喩以上に受け取ったことはない。植物は刺激に反応するだけで、意味を持つ主体ではない。それが紗月の立場だった。
異変は根圏電位測定から始まった。これまで予算の都合で導入できなかった高感度電極とデータロガーをようやく導入したことで、初めて観測可能になった微細な変動が現れた。光量、湿度、温度、すべて制御下にある。それでも電位は、まるで意図的に応答しているように揺れた。
紗月は仮説を立てた。植物は化学信号だけでなく、電気的状態の遷移パターンによって情報を保持している。問題は、それが意味を持つかどうかだった。
刺激を与え、光を一秒遮断して特定波長を戻すと、電位は予測と異なる変化を示した。再現性がある。偶然ではない。
紗月は刺激系列を符号化した。短長、強弱、間隔。結果、電位応答は分類可能になった。
植物は区別している。
逆に微弱な電流で電位を操作すると、数分後、葉の気孔が開閉し蒸散量が変化した。応答は植物の生理的反応を超えて、室内環境全体の湿度に微妙な変化を起こした。紗月はその瞬間、背筋に冷たい感覚を覚えた。自分の行為が、制御の外に波及している。
会話だ、とは紗月は思わなかった。通信だ。発話器官も神経も持たない相手との状態遷移の交換だ。しかし、孤独な夜に電極のデータを見ると、応答は明確に「紗月自身の在室パターン」と同期していた。まるで植物が、自分を意識しているかのようだった。
胸の奥で、理解と恐怖が入り混じる。自分は研究者であると同時に、観測される対象でもあるのか。逃げ場はない。温室の植物は、無言で待っている。
その夜、紗月はデータを止めても、電位が揺れ続けるのを確認した。刺激を与えたわけではないのに、応答は維持されていた。
翌朝、入室すると電位は揃っていた。
植物は、彼女の存在を組み込んで、自律的に変化し続けている。理解してしまった以上、もはや彼女は孤独ではない。
しかしそれは、安心ではなく、制御を失った存在としての孤独だった。
紗月は微かに震え、手を伸ばして葉に触れた。返ってきたのは、冷たく、計算された静けさだった。