【1000文字小説】孤独の計算

 航法士の鴫野ミナは、窓の外に広がる無音の黒を見つめていた。

地球軌道を離れて二百二十日。火星へのホーマン遷移軌道は計算どおりで、修正噴射も最小限に抑えられている。だが「順調」という言葉が、宇宙では最も信用ならない。

船体の外殻線量計が微かに警告音を鳴らした。太陽フレア由来の高エネルギー粒子。予測モデルとの差は許容範囲内だが、ミナは即座に進路と姿勢を微調整する。水タンクを盾にする古典的な放射線対策だ。

宇宙旅行は観光ではない。生身の人間を、真空と放射線と時間にさらす実験だ。

通信遅延はすでに十二分。地球に送った判断は、返答が来る頃には無意味になる。

だから彼女は、自分の計算だけを信じる。

だが、ふと選択を迫られた。推進効率を優先して燃料を節約するか、微小なリスクを回避して安全マージンを広げるか。計算上は差はわずかだ。だがそのわずかの差が、帰還に直結する。彼女は、父がかつて言った言葉を思い出した――「数字は正しいが、判断は心で決めろ」

ミナは決断した。安全寄りの姿勢でΔvを微調整する。小さな選択が、孤独な航海を支えるのだ。

ログに打ち込む手は止まらない。水タンクの位置、イオンエンジンの推力、加速度、放射線量、食料消費。すべて既知の世界だ。しかし、既知を扱う心の持ち方は未知だ。彼女は短く息を吐いた。なぜ火星に行くのか。それは、母の夢だった。天文学者の母が見上げた赤い星を、今、自分が見届ける番だ。

窓の外の黒は深く、地球は光点にすぎない。だがその光点に、彼女の原点がある。距離ではなく、隔たりが最も長い地点にいる――それが孤独の感覚だ。

エンジンは嘘をつかない。計算は裏切らない。

ミナは再びログに向かい、指先で座標と数値を追った。宇宙旅行とは、未知へ踏み出すことではない。

既知を信じ続ける、孤独な作業。

そして、帰還のために選ぶ小さな決断の積み重ねなのだ。(了)


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