【1000文字小説】揺らぐ最適化
三十歳のOL、鈴木真奈は、午前九時のオフィスで、微かにもう一人の自分を感じていた。視界の隅、耳の奥、皮膚の感覚――会社が導入したパラレル自己補助デバイス「ミラージュ」が稼働してから、ずっとそばにいる存在のようだった。
ミラージュは、人間の神経系に直接働きかけ、未来行動の最適解を瞬時に提示する。微細な視覚信号、聴覚信号、皮膚感覚を通して、メール返信、会議での発言、昼食の選択、通勤経路、歩き方までも、秒単位で最適化される。アルゴリズムは多層ニューラルネットワークで構成され、真奈の神経信号を解析し、行動パターンをリアルタイムで提示する。
最初は便利だと思った。上司に褒められ、同僚と衝突せず、タスクも完璧にこなせた。しかし、視覚や聴覚に届くミラージュの指示が増えるほど、何かが剥がれる感覚があった。真奈自身の意思は、少しずつ薄れていく。
ある午後、会議中に一瞬だけ、ミラージュの指示が遅れた。その隙に、真奈は資料の端を指で折り、元に戻した。意味のない動作だった。ミラージュはすぐに最適行動を提示するが、その一瞬の空白が、なぜか胸に残った。
その感覚は、子どもの頃の記憶に似ていた。小学生の帰り道、友達と別れたあと、わざと遠回りをして帰ったことがある。理由はなかった。ただ、誰にも決められていない数分間が欲しかった。そのときの夕焼けの色だけが、今もはっきり思い出せる。
帰宅途中、駅の階段でスニーカーの紐が解けた。ミラージュは最適な結び直しのタイミングと動線を示す。真奈は従いながら、結び目をほんの少しだけ歪めた。ほどけない程度に、不格好に。歩行効率に影響はない。だが、そのズレは記録されない。
夜、自室の窓から街を見下ろす。ミラージュはオフにしても、その存在は微かに残る。手元のカップに触れる指先が震える。理由は、表示されない。
その夜、夢の中で真奈は二人になった。ひとりは完璧で、すべての行動を計算する自分。もうひとりは、迷い、間違い、遠回りする自分。二人は向かい合って立っているが、どちらも言葉を持たない。
翌朝、アラームが鳴る。真奈は目を開け、デスクに向かう。ミラージュは今日も微細に未来を示す。
画面を一度だけ見て、彼女は指を止めた。
雲が流れる街の光が、窓に反射している。
そして、今日はほんの一歩だけ、ミラージュが勧める経路を外れてみようと、心の中で決めた。