投稿

1月, 2014の投稿を表示しています

【1000文字小説】冬の情景

 一月の終わり、空は薄い雲に覆われていた。灰色の層がゆっくりと広がり、街全体に静かな膜をかぶせている。昼に降った雪はすぐに溶け、歩道に白い粒をわずかに残しただけだった。アスファルトの黒さは濡れたように深く、ところどころに散る白がその暗さを強調している。 大通りでは、車が一定の速度で行き交っていた。エンジン音が重なり合い、街の表面を低く震わせる。歩く人の姿は少ない。厚いコートを着こんだ何人かが、急ぐでもなく、ゆっくりでもなく、それぞれの歩調で横断歩道を渡っていく。吐息は薄く白く、数秒だけ空中にとどまり、やがて冬の空気に吸い込まれた。 街路樹はすっかり葉を落とし、枝だけが細い線を重ねて立っている。枝先には、雪解けの水滴が小さく固まっていた。近づいて見ると、その粒は針のように細い光を返し、触れればすぐ崩れそうだった。遠くから眺めると、その光はぼんやりと揺れ、冬の午後の弱い光の中に溶けていった。 ビルのガラスには外気で薄い曇りが生じ、内側の灯りを柔らかくにじませている。赤い尾灯の列が道路に帯となって伸び、夕方の街をひとつの方向へ導くように流れていく。その赤は、冬の空気の中ではどこか静かで、熱を感じさせない光だった。 大通りを外れ、細い路地へ入る。ここには車の音がほとんど届かず、街灯だけが淡い円を地面に落としている。アスファルトは乾いているが、冬の硬さを含んでいた。歩くたび、足音が小さく響き、街灯の影が伸び縮みする。影は薄いのに輪郭は鋭く、その揺れが寒さの中でわずかな動きをつくっていた。 路地の奥に進むと、窓から漏れる暖色の光が壁を柔らかく照らしていた。どの部屋もカーテンがかかり、生活の気配は見えない。ただ光だけが外にこぼれ、冷えた空気の中で小さな色をつくっている。階段の金属製の手すりに触れると、冷たさが指先に鋭く伝わった。 ふと見上げると、雲の切れ間に月が浮かんでいた。輪郭ははっきりとして、雲の隙間から細い光を落としている。雲が流れるたび、月は見えたり隠れたりし、そのたびに地面の影がゆっくりと形を変えた。 遠くで踏切の音が短く鳴り、また静けさが戻る。街灯の光は変わらず地面に落ち、冷たい空気だけが夜を満たしていた。風は弱く、ほとんど動きを感じない。 その静かな空気の中で、冬の夜が持つ透明さだけが、確かな存在として浮かび上がっていた。 <1000文字小説目次> ...

【1000文字小説】ここで止まれ

 美和は仕事帰りの人波に揉まれながら、ハイヒールの先に意識を集中させていた。一日中歩き回った足が、もう限界だと訴えている。改札を抜けた瞬間、張りつめていた何かがふっとほどけた。 嫌な予感は朝からあった。お気に入りのアイボリーのシルクブラウスに、コーヒーをこぼしたのだ。慌てて水で叩いたが、染みはかえって輪郭を主張するように広がった。仕方なく着替えた白いシャツにも、二杯目のコーヒーを落とした。その時点で、今日はそういう日だと悟るべきだったのかもしれない。 取引先とのプレゼンでは、最終ページのグラフの数字が前年度と今年度で入れ替わっていた。質疑応答の最中、先方の担当者が一瞬だけ眉をひそめたのを、美和は見逃さなかった。  「こちらは後ほど訂正版をお送りします」  声は震えなかったが、部長が無言でメモを閉じる音が、やけに大きく聞こえた。謝罪と修正で場は収まったものの、胃の奥がじくじくと痛み続けた。   地下鉄の階段を降りる途中、ヒールが溝にはまり、身体が前につんのめる。手すりを掴んで何とか踏みとどまったが、パンプスのヒールはわずかに歪んでいた。  「今日は本当に、最後までだな」 誰に向けるでもなく、小さく呟く。 予定を変えて、駅近くのジャズバーに入った。他に客はいない。スピーカーから流れるベースの低音が、少しだけ音割れしていた。カウンター席に腰を下ろすと、マスターは何も聞かずにいつもの銘柄を用意してくれる。グラスに注がれた琥珀色の液体を見つめていると、氷がカランと鳴った。奥の製氷機が、間の抜けた唸り声を上げる。その音さえ、今日は少しだけ耳に障る。 「お疲れのようですね」 マスターが言った。 「……そうですね」 それ以上は続かなかった。マスターも深追いしない。この距離感だけが、今はありがたかった。 カウンターの隅に、年季の入った革張りのノートが置いてある。誰でも自由に書いていい自由帳だ。美和も、調子のいい日には愚痴や冗談を書いたことがある。今日は何も書く気はしなかったが、なぜか手が伸びて、ページをめくった。 途中のページに、走り書きの文字があった。 うまくいかない日は 無理に意味を探さなくていい 靴紐を結び直すみたいに 今日はここで止まれ また歩くのは、明日でいい 行間は詰まっていて、文字もところどころ滲んでいる。詩というより、誰...

【1000文字小説】灰色のシンデレラ・ストーリー

 企画書をトントンと揃える指先が、微かに震えていた。これまでの残業と休日出勤が、ようやく形になったのだ。あかりは営業企画部に籍を置いているが、決して仕事ができるタイプではない。けれど、この企画だけは違った。地道な市場調査、眠い目をこすりながら捻り出したアイデア、それらを丁寧にまとめ上げた。我ながら、いい出来栄えだと思う。 「できました、課長」 あかりは、上司である課長の五十嵐に企画書を差し出した。社内でも圧倒的な人気を誇る人物だ。長身でスタイルが良く、スーツを着こなす姿はまるでモデルのよう。その見た目に違わず仕事もずば抜けてできる。彼の一挙手一投足に、オフィスの女性たちはいつもため息をついている。 五十嵐は企画書を受け取ると、軽く目を通し始めた。彼の流れるような視線が、あかりの心臓を早鐘のように打たせる。 「……へえ」 五十嵐は少し目を見張った。「これ、いいねえ」 その一言に、あかりの努力が報われた気がした。「ありがとうございます!」 「切り口が面白い。ターゲット層の分析も的確だ。少し修正すれば、すぐにでもプレゼンにかけられる」 五十嵐はにこやかに笑い、あかりは嬉しさで胸がいっぱいになった。彼に認められた。その事実だけで、すべての苦労が霞んだ。 数日後、役員会でのプレゼンが五十嵐によって行われた。あかりは自分のデスクから、会議室のドア越しにその様子を見守っていた。五十嵐の澱みのない口調、的確な受け答え、そしてスライドに映し出される、見慣れた企画書。 役員たちの反応は上々だった。「これは期待できる」「五十嵐くん、良い仕事をしたね」 五十嵐はスマートに頭を下げている。 プレゼンが終わり、五十嵐が会議室から出てきた時、あかりは思わず駆け寄った。「課長、お疲れ様でした!すごい好評でしたね!」 五十嵐はあかりを見ると、少しだけ困ったような、それでいて涼しい笑顔を浮かべた。「ああ、ありがとう。好評だったな」 「私の企画が、あの企画が……」 「そうだな。少し手直しはしたが、ベースは君のおかげだ」 あかりは舞い上がった。 その日の夕方、社内報のメールが回覧された。そこには、役員会で高く評価された新規企画の概要と、それを推進するプロジェクトチームの立ち上げが記載されていた。 企画立案者:五十嵐健吾(営業企画課 課長) あかりは自分の目を疑った。何度も、何度もメールを読み返した...

【1000文字小説】つけられている

イメージ
美津子は地下鉄に乗った。木曜日の午後だった。朝は通勤通学で混み合うのだが、二時を過ぎたこの時間の車内はバラバラとしか乗客はいなかった。美津子は腰掛けた。何となく視線を感じる。同じ駅から乗った若い女がちらちらと自分の方を見ている。知らない女だった。年はまだ二十歳かそこらだろう。働いている風ではなく学生の様に思えた。 三つ目の駅で美津子が地下鉄を降りると女も後ろに続いて地下鉄を降りた。美津子は上りのエスカレーターをかけあがりトイレに入った。あの子はつけているのか? 単なる自意識の過剰か。やり過ごすつもりで長目に入って出た。トイレから出て周囲を見渡すがもう女の姿は見えなかった。安心して美津子は歩き出した。 本屋に入って料理の本を見ていると視線を感じる。視線の方へ目をやるとさっきの若い女と目があった。女は目をそらせず、逆に美津子の方が慌てて目をそらした。美津子は本を置き本屋を出た。早足で歩く美津子が時折後ろを振り返ると女は後ろをついて来る。たまたまあの女と行き先が一緒なのだろうか。違う。明らかにつけている。何故? 現在つき合っている彼もいないので男がらみではないだろう。過去につき合っていた男の新しい女だろうか?ストーカーか? 単なる好奇心か? 美津子はブティックへ入った。躊躇せず女も後から入って来る。美津子はさっさと店を出た。店を出ると美津子はそのまま走り出した。全速力で走った。転びそうになりながらも走った。いい加減疲れてから立ち止まり後ろを振り向いた。女の姿はもうなかった。 息を整え、美津子はアーケード街をぶらぶらと歩いているとまた視線を感じる。今までどこに隠れていたのか若い女がまた美津子をつけていた。どうしてつけてくるの、と言ってやりたかったが言えなかった。気が弱いのだった。 美津子はファーストフードの店に入った。女も入って来る。美津子はハンバーガーのセットを注文した。美津子が買い終えた後女もカウンターで注文した。「二百十円になります」と言う声を聞いた瞬間美津子は外へ出た。出てから走った。息が苦しくなるまで走った。歩く人々は何事かと訝しがる。立ち止まると手にはトレー。トレーを持ったまま走っていたのだった。セットのコーラが倒れフタが外れてハンバーガーとポテトをぐしゃぐしゃにしていた。美津子は後ろを振り返った。女の姿はもう見えない。美津子はコーラ...

【1000文字小説】彼女はこれから

イメージ
健次は里香の部屋のチャイムを鳴らした。部屋の中からは何の反応もない。人の気配がしなかった。健次はドアノブに手をやった。左右に回し引いてみるが鍵がかかっていて開かない。 里香には午前中に電話していたので、健次が来る事は知っているはずだった。知っているのに留守にしていたのは初めての事だ。買い物にでも行っているのだろうか。 日中は晴れていて心地よい陽気だったが、午後六時を過ぎて寒くなってきたアパートのドア前で健次は佇んだ。ポケットからスマートフォンを取り出すと里香へ電話をかけた。 呼び出し音が鳴る。二回、三回……、八回、九回……、出ないまま留守番電話に切り替わった。 「あ、健次だけど、今どこ? 連絡ちょうだい」と言って電話を切った。 俺が来る事はわかっているはずだから、そのうち帰って来るだろう。ちょっと驚いたような大きな瞳を申し訳なさそうに細めて「ごめんなさい、待った? ちょっと買い物してたら高校の時の友達に会って遅れちゃった」とか言って。 健次は路上に止めていた愛車のプリウスに乗り込んだ。里香はすぐに来るだろうが、部屋の前で立っているのも寒いので、車の中で待つ事にしたのだ。 車内でスマートフォンの画面を眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまった。目を覚ますと七時を過ぎていた。一時間も眠っていた。健次は車から降りると大きな伸びをした。 二階の里香の部屋を見上げると、まだ電気がついていない。里香は帰ってきてないのだろうか。部屋の前に行ってまたチャイムを鳴らす。何の反応もない。やはりいないのだろうか。 スマートフォンに着信はない。こちらからまたかけてみる。出ない。 事故にでもあったのだろうか。連絡のとれない状況。午前中に電話した時の里香は今日はどこに行くとも言ってなかった。何か急用だろうか。それだったら連絡くらいよこしてもよさそうだ。誘拐でもされたのか。不安になる。 健次はまた車に戻った。だが、車内には入らずに、ワイパーに挟まれた紙を見つめた。何だろう、さっきはなかった。俺が眠っている間に、誰かが挟めた? 健次は紙を手に取った。 「さようなら、探さないで下さい」 それだけが書かれていた。里香の字だった。里香はアパートに帰って来て、車の中にいた健次に気がついてメモを残したのか。 どういうことだ? 探さないで...