【1000文字小説】ここで止まれ

 美和は仕事帰りの人波に揉まれながら、ハイヒールの先に意識を集中させていた。一日中歩き回った足が、もう限界だと訴えている。改札を抜けた瞬間、張りつめていた何かがふっとほどけた。


嫌な予感は朝からあった。お気に入りのアイボリーのシルクブラウスに、コーヒーをこぼしたのだ。慌てて水で叩いたが、染みはかえって輪郭を主張するように広がった。仕方なく着替えた白いシャツにも、二杯目のコーヒーを落とした。その時点で、今日はそういう日だと悟るべきだったのかもしれない。


取引先とのプレゼンでは、最終ページのグラフの数字が前年度と今年度で入れ替わっていた。質疑応答の最中、先方の担当者が一瞬だけ眉をひそめたのを、美和は見逃さなかった。

 「こちらは後ほど訂正版をお送りします」

 声は震えなかったが、部長が無言でメモを閉じる音が、やけに大きく聞こえた。謝罪と修正で場は収まったものの、胃の奥がじくじくと痛み続けた。

 

地下鉄の階段を降りる途中、ヒールが溝にはまり、身体が前につんのめる。手すりを掴んで何とか踏みとどまったが、パンプスのヒールはわずかに歪んでいた。

 「今日は本当に、最後までだな」

誰に向けるでもなく、小さく呟く。


予定を変えて、駅近くのジャズバーに入った。他に客はいない。スピーカーから流れるベースの低音が、少しだけ音割れしていた。カウンター席に腰を下ろすと、マスターは何も聞かずにいつもの銘柄を用意してくれる。グラスに注がれた琥珀色の液体を見つめていると、氷がカランと鳴った。奥の製氷機が、間の抜けた唸り声を上げる。その音さえ、今日は少しだけ耳に障る。

「お疲れのようですね」

マスターが言った。

「……そうですね」

それ以上は続かなかった。マスターも深追いしない。この距離感だけが、今はありがたかった。


カウンターの隅に、年季の入った革張りのノートが置いてある。誰でも自由に書いていい自由帳だ。美和も、調子のいい日には愚痴や冗談を書いたことがある。今日は何も書く気はしなかったが、なぜか手が伸びて、ページをめくった。

途中のページに、走り書きの文字があった。


うまくいかない日は

無理に意味を探さなくていい

靴紐を結び直すみたいに

今日はここで止まれ

また歩くのは、明日でいい


行間は詰まっていて、文字もところどころ滲んでいる。詩というより、誰かが息を吐くように書いたメモだった。

変なの。そう思いながらも、心の中でなぞる。

無理に意味を探さなくていい。今日はここで止まれ。


時計を見ると、九時を少し回っていた。グラスを空け、代金を払って店を出る。四月の夜風が、思ったより冷たく頬を撫でた。

美和はゆっくりと歩き出す。歪んだヒールのせいで、自然と歩幅が小さくなる。一歩一歩、確かめるように地面を踏む。その慎重さが、かえって心を落ち着かせていた。


完璧じゃない一日。

でも、今日はここまででいい。

そう思えたとき、夜の空気が少しだけやさしく感じられた。

靴紐を結び直すみたいに。

今日はもう休もう。

明日歩けるかは、わからないが。


<1000文字小説目次>

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