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【1000文字小説】鉛色の「おめでとう」

 「やったじゃん、百合!」部室のドアを開けるなり、部長が駆け寄ってきた。「新人賞、マジおめでとう!」 部員たちが次々と百合を取り囲み、祝福の言葉を浴びせる。百合は照れくさそうに笑いながら、「うん、ありがとう。信じられないよ」と応じていた。 その輪の少し外側で、里帆は手にした文庫本に目を落としたまま、固まっていた。 「里帆も何か言ってやれよ」部長が里帆の背中を軽く叩く。 里帆は顔を上げ、皆の視線を感じながら、なんとか口を開いた。「……おめでとう、百合」 百合は里帆の方を向き、その口元にはいつもの快活な笑顔があった。「ありがとう、里帆。これも里帆がいつも厳しい感想をくれたおかげだよ」 皆が納得したように頷く。百合と里帆は、文芸部ではいつも対等なライバルだった。お互いの小説を読み合い、遠慮なく意見を言い合う。その真剣なやり取りは、部活の名物風景だった。 しかし今、百合の言葉は里帆の胸に鉛のように重く響いた。 (違う……)里帆は心の中で呟いた。(私が欲しかったのは、そんな言葉じゃない) 祝福の喧騒が続く中、里帆の頭の中はぐるぐると渦巻いていた。百合の受賞作は、確かに素晴らしかった。誰もが認める完成度で、情景描写も人物造形も、以前とは比べ物にならないほど磨きがかかっていた。 だけど、同時に悔しかった。素直に「おめでとう」と言えない自分が嫌だった。 百合の才能に嫉妬している? それだけじゃない。まるで自分一人だけ、置いて行かれたような焦燥感と喪失感。 「ねえ、里帆。帰り道、いつものカフェ寄っていかない?」百合が里帆の隣に来て、声を潜めて言った。 里帆は少し躊躇してから言った。「ごめん。今日ちょっと用事があるんだ」 百合は一瞬、言葉を失ったように見えた。その表情はいつもの底抜けに明るいものではなく、何かを深く考えるように、微かに曇っているように見えた。だが、すぐに笑顔に戻った。「そっか。残念。じゃあ、また明日ね」 「うん、また明日」 里帆は、部員たちの祝福の声がまだ響く部室を、足早に後にした。百合は何も言わなかったけれど、きっと気づいているはずだ。里帆が、心からの「おめでとう」を言えなかったことに。 夕暮れの校舎裏。一人になった里帆は、大きくため息をついた。百合の受賞を喜べない自分が情けなくて、惨めだった。ポケットの中で握りしめた拳が、じっとりと汗ばんでいる。 (私は、百...

【1000文字小説】曖昧な風

 三十三歳の春、彼に告白された日のことを、彼女はいまも時々思い返す。 整った横顔に少し照れたような笑み。すれ違う女性が振り返るほどの容姿の彼が、自分を選んだ──それだけで胸が軽く浮いた。未来は、この先に自然と続くものだと思っていた。 同棲を始めた当初、彼は優しかった。外では礼儀正しく、職場の同僚にも好かれ、彼女を紹介するときの誇らしげな笑顔はほんとうに眩しかった。 だが、暮らしが日常に変わるにつれ、その笑顔は他人に向けられることが増え、家の中では無言のまま靴下を床に落とし、空のペットボトルを指先で彼女のほうへ寄せるようになった。 それが彼の癖なのか、彼女を当てにしているのか、あるいは甘えているだけなのか、判断がつかない。 その曖昧さが、かえって彼の美しい横顔をやさしく見せる瞬間さえあった。 「今日、味薄い?」 「まあ、普通じゃない?」 そんな何気ない言葉に小さな棘があることに、彼は気づいているのか。 気づいていて、あえて流しているのか。 彼女には確かめる勇気がなかった。 彼の友人が来たとき、彼は彼女の作った料理を「すごいんだよ」と笑って差し出した。外向けのその笑顔は、出会った頃と何も変わらない。 それが嬉しかった反面、皿洗いを任されたとき、彼女は少しだけ指先が冷えるのを感じた。 ある夜、彼女は結婚の話を切り出した。 彼はテレビのリモコンをいじりながら、「焦らなくていいじゃん。今、楽しいだろ?」と軽く笑った。 その声には拒絶の影があったが、まるで彼自身も気づいていないようでもあった。 ベランダに出ると、夜風が乾いた洗濯物を揺らした。 取り込むのはいつも彼の担当で、「あとでやるよ」と言ったまま、今日も忘れている。 月の光はいつもと同じなのに、影の形だけが少し違って見えた。 それが風のせいなのか、自分の気持ちのせいなのか、彼女には分からなかった。 部屋の中から、彼の笑い声が聞こえた。 それが優しさなのか無関心なのか、その境目は曖昧なまま揺れていて、 彼女はその音を聞き分けようとして、ふと手を止めた。 洗濯物の端がわずかに揺れた。 風か、迷いか。 彼女はしばらく、その小さな揺れをただ見つめていた。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】錆びゆく日々

 朝焼けが窓を薄く染める頃、文子はいつものように起き上がった。一人暮らしのこの家は、広すぎるようで、狭い。遠く離れた息子家族からの電話は時折あるが、一緒に暮らす話は出ないし、文子自身も望まない。気楽な一人の方が性に合う。 体に悪いところはない、と言いたいところだが、現実は違う。朝一番、ベッドから足を下ろすと、膝と腰が「ギシリ」と悲鳴を上げる。目も霞み、新聞の文子字はぼやける。耳も遠くなり、テレビの音量を上げても、何を言っているのか分からないことが多い。血圧は薬でなんとか落ち着いているが、皮膚は乾燥して痒い。全身が老いという錆に侵されているようだ。 それでも、朝の日課は欠かさない。ラジオから流れてくるお馴染みの音楽に合わせて、ゆっくりとラジオ体操をする。一つ一つの動作が、凝り固まった体を少しずつほぐしていく。「新しい朝が来た、希望の朝だ」という歌詞が、皮肉のように響く。希望、ねえ。この先、何があるというのか。 朝食は、質素なもの。ご飯と味噌汁、漬物少々。ゆっくりと時間をかけて食べる。食事が終わると、縁側に出て日向ぼっこ。庭の手入れをしたい気持ちはあるが、腰が痛くて長くは続けられない。仕方なく、座って咲き乱れる草花を眺める。 庭の草花は、ぼやけて輪郭が曖昧だ。白や黄色、紫といった色の塊が、まるで水彩画のように滲んで見える。かつては、一輪一輪の繊細な花びらの皺まで見て取れたのに、今はその区別もつかない。風が吹くと、色の塊がゆらゆらと揺れるだけ。その揺らぎを見ていると、自分の存在もまた、この曖昧な世界の一部になっていくような気がした。 昼間は、古いアルバムを引っ張り出してきては、ページをめくる。若かりし頃の自分、今は亡き夫、まだ幼かった息子。どの顔も、今は遠い記憶の中だけにある。息子家族と一緒に暮らしたくないのは、自分のペースを崩したくないという頑固さもあるが、迷惑をかけたくないという意地もある。それに、向こうには向こうの生活があるのだ。 夕暮れ時、空が茜色に染まる頃、一日の終わりを感じる。晩ご飯を済ませ、早めに床に就く。夜が更けるにつれ、心細さが募ることもある。「もし、このまま朝が来なかったら」そんな思いが頭をよぎる。老いとは、孤独とは、こういうものなのだろうか。 文子の人生は、静かに、そして少しずつ終わりへと向かっている。それは悲しいことかもしれないが、抗うこと...

【1000文字小説】幼馴染がいないなら

 いつもの学校生活が、見慣れない転校生のせいでひどく落ち着かない。花村莉子を見た瞬間、俺の日常は色を変えた。その隣の席に座る転校生が、まだ一日しか知らない俺に、まるで幼馴染のように話しかけてくるのだ。 「おはよう」 隣から聞こえてきたのは、透き通った声だった。栗色の髪が揺れ、大きな瞳が俺を見つめていた。少し不安そうで、でも、どこか期待に満ちているような表情。俺は「おはよう」とだけ返すと、彼女は一歩踏み込んでくる。 「大樹、ハイキュー、面白いよね。見てる?」 「ジャンプなら」 「違ーう、アニメ」 彼女はそう言うと、ふわりと笑った。転校生ってのは、普通もっと遠慮するものだろ。俺の知る限り、初日から自分から男子に話しかけてくるやつなんていなかった。大抵は、周りの空気を読んでから、誰かが話しかけてくれるのを待っているものだ。俺はその距離感に戸惑っている。 休み時間になると、俺が友人たちと話しているところに、莉子は構わず入ってきた。それはもう、幼馴染のように、名前呼びで。さすがに弁当は女子と一緒に食べていたが、俺が弁当のエビフライを食べているのを見て、「エビフライ好きだったよね」と言ってきた。友人の視線が痛い。俺は、どうしていいか分からず、ただ固まっていた。 放課後、クラスメイトたちが帰り支度を始める中、莉子は俺に声をかけた。 「高瀬くん、ちょっといいかな?」 教室の隅にある掃除用具入れのそばで、莉子は少し緊張した面持ちで、俺の目をじっと見つめた。 「あのさ、高瀬くん。私と、幼馴染になってくれないかな?」 幼馴染? 今、幼馴染って言った? 昨日初めて会ったばかりだろ? 「冗談か?」 俺は呟くように言った。言葉を濁そうと口を開きかけた、その時。 「ありがとう、大樹」 彼女は俺の返事を待たずに、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、さっきよりもずっと眩しい。 「えっ……」 俺は、思わず声が出てしまった。俺は、まだ何も言ってない。なのに、彼女は、もうすでに、この幼馴染という設定で話を進めている。 「幼馴染と会うのは初めてなんだ。嬉しい。これまで転校ばっかりだったからさ」 その笑顔は眩しすぎた。昨日会ったばかりで、常識的に考えたらあり得ない。でも、どこか寂しさを含んだその笑顔を見て、俺はもう抗えなかった。そうだよ。幼馴染だよ。この笑顔の為なら幼馴染にだってなるさ。昨日初めて出会っ...