【1000文字小説】曖昧な風

 三十三歳の春、彼に告白された日のことを、彼女はいまも時々思い返す。

整った横顔に少し照れたような笑み。すれ違う女性が振り返るほどの容姿の彼が、自分を選んだ──それだけで胸が軽く浮いた。未来は、この先に自然と続くものだと思っていた。


同棲を始めた当初、彼は優しかった。外では礼儀正しく、職場の同僚にも好かれ、彼女を紹介するときの誇らしげな笑顔はほんとうに眩しかった。

だが、暮らしが日常に変わるにつれ、その笑顔は他人に向けられることが増え、家の中では無言のまま靴下を床に落とし、空のペットボトルを指先で彼女のほうへ寄せるようになった。


それが彼の癖なのか、彼女を当てにしているのか、あるいは甘えているだけなのか、判断がつかない。

その曖昧さが、かえって彼の美しい横顔をやさしく見せる瞬間さえあった。


「今日、味薄い?」

「まあ、普通じゃない?」


そんな何気ない言葉に小さな棘があることに、彼は気づいているのか。

気づいていて、あえて流しているのか。

彼女には確かめる勇気がなかった。


彼の友人が来たとき、彼は彼女の作った料理を「すごいんだよ」と笑って差し出した。外向けのその笑顔は、出会った頃と何も変わらない。

それが嬉しかった反面、皿洗いを任されたとき、彼女は少しだけ指先が冷えるのを感じた。


ある夜、彼女は結婚の話を切り出した。

彼はテレビのリモコンをいじりながら、「焦らなくていいじゃん。今、楽しいだろ?」と軽く笑った。

その声には拒絶の影があったが、まるで彼自身も気づいていないようでもあった。


ベランダに出ると、夜風が乾いた洗濯物を揺らした。

取り込むのはいつも彼の担当で、「あとでやるよ」と言ったまま、今日も忘れている。

月の光はいつもと同じなのに、影の形だけが少し違って見えた。

それが風のせいなのか、自分の気持ちのせいなのか、彼女には分からなかった。


部屋の中から、彼の笑い声が聞こえた。

それが優しさなのか無関心なのか、その境目は曖昧なまま揺れていて、

彼女はその音を聞き分けようとして、ふと手を止めた。


洗濯物の端がわずかに揺れた。

風か、迷いか。

彼女はしばらく、その小さな揺れをただ見つめていた。


<1000文字小説目次>

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